右近源左衛門(読み)うこんげんざえもん

精選版 日本国語大辞典 「右近源左衛門」の意味・読み・例文・類語

うこん‐げんざえもん ‥ゲンザヱモン【右近源左衛門】

若衆歌舞伎時代から野郎歌舞伎時代にかけての上方の名女形。俗に女形の祖といわれ、月代(さかやき)をかくすため頭にかぶる置手拭を考案した。一説元和八年(一六二二)生まれという。右近

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改訂新版 世界大百科事典 「右近源左衛門」の意味・わかりやすい解説

右近源左衛門 (うこんげんざえもん)

初期歌舞伎の代表的女方生没年不詳。経歴は明らかでないが,1659年(万治2)から72年(寛文12)までの間江戸に下って舞台をつとめた。小舞を得意とし,《海道下り》を舞って当りをとったという。鬘が工夫される前に,独特の帽子を考えつき,後の鬘や帽子の発達影響を与えた。1622年(元和8)生まれという説もあり,江戸に下ったおりは,だし物を見ても盛りを過ぎていたようである。
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朝日日本歴史人物事典 「右近源左衛門」の解説

右近源左衛門

没年:没年不詳(没年不詳)
生年:元和8(1622)
初期歌舞伎の代表的女形役者。本名山本源左衛門。江戸前期の慶安(1648~52)ごろから活躍が認められ,舞を得意とし,「海道下り」を流行らせた。演目狂言系のものが多いので,狂言師の出身かと思われる。狂言を歌舞伎風に演じたことに特徴がみられる。延宝4(1676)年,長崎で興行の記録を残し,以後の消息は不明。野郎歌舞伎初期の風俗で女形がかぶった置き手拭いを考案したとされ,後世「女形の始祖」といわれる。活躍期が若衆歌舞伎から野郎歌舞伎にわたっているので,彼の事跡を明らかにすることが,従来研究の少なかった若衆歌舞伎の在り方を知る手がかりになろう。<参考文献>武井協三「女方の祖・右近源左衛門」(『文学』1987年4月号)

(北川博子)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「右近源左衛門」の解説

右近源左衛門 うこん-げんざえもん

1622?-? 江戸時代前期の歌舞伎役者。
元和(げんな)8年?生まれ。日本伝助の高弟とされる。上方で活躍。「海道下り」などの舞踊劇で人気を博し,江戸,名古屋でも舞台にたった。若衆歌舞伎禁止後,女方を表現する置き手拭のかぶり物を考案し,村山左近とともに女方の開祖といわれる。本姓は山本。

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世界大百科事典(旧版)内の右近源左衛門の言及

【海道下り】より

…さらにこれが狂言の小舞謡(こまいうたい)として用いられ,ここから歌舞伎に採り入れられる。女方の祖とも称される右近(うこん)源左衛門がこの曲を得意とし,1648年(慶安1)ころ江戸村山座に下ってこの舞で評判をとったと伝えられる。のち,村山座の後身である市村座の寿狂言(家狂言)として《海道下り》が定められるが,右近源左衛門が村山座に下ったゆかりによるのであろう。…

【日本舞踊】より

…そして女方の発生により舞踊の中心は女方に移って,元禄(1688‐1704)~享保(1716‐36)期に歌舞伎舞踊は第1次の完成をみた。この間に右近源左衛門の《海道下り(かいどうくだり)》,水木辰之助の〈槍踊(やりおどり)〉や《七化け(ななばけ)》などが生まれ,《七化け》は変化(へんげ)舞踊(変化物)の先駆をなした。 享保から宝暦(1751‐64)には,初世瀬川菊之丞と初世中村富十郎が《無間の鐘(むけんのかね)》《石橋(しやつきよう)》《娘道成寺》などの名作を生み,女方舞踊を完成させた。…

【若衆歌舞伎】より

…年代,場所,座名ともに疑問があるが,ほぼこのころ,若衆歌舞伎の座が江戸でも興行していたことは推測される(おそらくは猿若彦作座であろう)。若衆の中からしだいに女役を得意とする役者があらわれ,村山左近,右近源左衛門の名が女方の祖として伝えられている。寛永末年ごろには,禰宜町で村山左近の歌舞伎が評判をとっていた。…

※「右近源左衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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