元弘の乱(読み)げんこうのらん

百科事典マイペディア 「元弘の乱」の意味・わかりやすい解説

元弘の乱【げんこうのらん】

1331年―1333年(元弘1年―3年)の鎌倉幕府の滅亡,建武政権の樹立に終わる全国的内乱。天皇親政の理想にもえた後醍醐天皇は大社寺や畿内の小武士団を主力に挙兵したがいったん敗北。しかし護良(もりよし)親王楠木正成らの執拗(しつよう)な軍事行動で幕府軍は分裂し,関東の豪族足利尊氏新田義貞らが幕府にそむき,1333年夏,六波羅探題は尊氏に,鎌倉は義貞に攻められ北条一門は全滅。→建武新政
→関連項目赤坂城赤松則村阿蘇惟時菊池氏後伏見天皇斯波高経正中の変千早城鎮西探題新田氏日野資朝日野俊基北条氏北条高時文観湯浅党六波羅探題

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改訂新版 世界大百科事典 「元弘の乱」の意味・わかりやすい解説

元弘の乱 (げんこうのらん)

醍醐天皇が1331年(元弘1)鎌倉幕府を倒そうと企てた政変。天皇は24年(正中1)に討幕を計画して失敗したが(正中の変),幕府の内部事情も手伝って苦境をのりきり,なおも政権の座にとどまっていた。しかし天皇の討幕の決意は固く,政権の奪回に懸命な持明院側から26年(嘉暦1)に病没した邦良皇太子のあとに量仁(かずひと)親王(後伏見上皇の皇子)が立つに及んで,再度の討幕計画が具体化した。天皇は意欲的に施政につとめ政権担当者としての権力を強化する一方,尊雲法親王(護良親王)を天台座主に据えたり,聖尋僧正や円観を重用することなどによって天台・真言両宗系の僧兵を掌握することにつとめた。たびたびの南都北嶺への行幸も同じ目的のためである。また天皇による祈願寺の設定も討幕計画の成就を祈念したものとされる。しかし31年4月この企ても天皇の身の安泰を憂慮した重臣吉田定房の通報するところとなり,幕府の使者長崎高貞,南条高直は六波羅探題を指揮して直ちに首謀者の逮捕を開始して,日野俊基・文観・円観・仲円・智教・遊雅を検挙した。このとき幕府の追及は直接天皇におよばなかったが,同年8月天皇と数人の公卿が突如宮廷を脱出,山城の笠置城にたてこもった。これに対して幕府は同年9月,承久の乱の例に倣って大軍を派遣したため笠置は落城,逃げのびようとした天皇一行も捕らえられ六波羅探題に引き渡された。こうして元弘の乱はたやすく鎮圧された。

 一方この間に量仁は神器のないまま践祚しており(光厳天皇),政治の体制としては当時の慣例にならって父後伏見上皇が院政を開始していた。こののち後醍醐天皇は先帝と称された。同天皇が出奔とともにたずさえた神璽と宝剣は六波羅探題に接収され厳重な検知を経たうえで光厳天皇のもとへ渡った。このたびの幕府の処分は正中の変のときに比べて大規模かつ厳しいものであった。天皇と皇子たちの配流はもとより,幕府は与同者たる僧俗を執拗に追及し,32年4月に二条道平,花山院師賢,万里小路藤房,文観,円観ら20余名を斬首や遠流などに処した。天皇が隠岐へ流されたのは32年3月であったが,幕府との戦いは護良親王や楠木正成らによって根強く続けられた。正成の河内・和泉あたりでのゲリラ戦は有名だが,護良親王による挙兵のよびかけは九州に及ぶほど広域性をもった。33年閏2月天皇が隠岐を脱して伯耆船上山に拠り,討幕の大号令を天下に発すると,それまで形勢を観望していた反幕分子は討幕へとしだいに傾いてゆき,幕府軍の武将として進軍してきた足利尊氏が天皇に通じて討幕側に転ずるに及んでいっせいに討幕行動へとふみきった。幕府は反幕という点で共通するさまざまの階層からなる討幕勢力の総攻撃をうけ,33年5月まさに一朝のうちに潰滅した。元弘の乱は鎌倉幕府の支配体制の矛盾を相乗的に激化させ,幕府の倒壊をもたらした点にその歴史的特質をもっている。
鎌倉幕府 →建武新政
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「元弘の乱」の解説

元弘の乱
げんこうのらん

1331年(元弘元)後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を企てて挙兵した事件。1324年(正中元)正中の変によって,天皇とその近臣らによる討幕計画は失敗に終わったが,天皇はその後も親政を続けた。その後,大覚寺統の邦良親王が病死し,持明院統の後伏見上皇の皇子量仁(かずひと)親王が立太子するに及んで,討幕計画は再び具体化し,寺社勢力に働きかけるなどした。しかし31年4月,天皇の身を案じる吉田定房が幕府へ通報したため討幕計画は露見,首謀者の日野俊基(としもと)・文観(もんかん)らは六波羅探題(ろくはらたんだい)によって逮捕された。8月,天皇は京都を脱出し,奈良をへて山城国の笠置(かさぎ)に拠ったが,関東から派遣された幕府の大軍の攻撃によって敗退(笠置山の戦)。天皇に呼応した楠木正成の赤坂城も落城し,天皇は捕らえられた。幕府は,量仁親王(光厳(こうごん)天皇)を践祚(せんそ)させて後伏見上皇の院政とし,俊基・文観ら首謀者の処罰を行い,32年3月,後醍醐天皇を隠岐へ配流した(以上の経過のみを元弘の乱とよぶことも多い)。その後も幕府に対する抵抗運動は続き,32年末には後醍醐天皇の子護良(もりよし)親王が吉野で,楠木正成が河内国で挙兵し,さらに護良親王の令旨(りょうじ)をうけて,播磨国の赤松則村ら各地の反幕府勢力が挙兵。幕府軍が鎮圧に手間どるなか,33年閏2月,天皇は隠岐を脱出して名和長年のもとに身をよせ,伯耆国の船上山(せんじょうさん)に拠って討幕の綸旨を発した。これに対して,幕府は名越高家・足利尊氏を大将とする大軍を派遣したが,高家は久我畷(こがなわて)で赤松則村に討たれ,尊氏は丹波国の篠村で天皇側に寝返り,六波羅を攻撃。5月7日,六波羅探題北条仲時らは,合戦ののち光厳天皇と後伏見・花園両上皇を擁して関東へ脱出をはかったが及ばず,9日,近江国番場の蓮華寺で自刃,光厳天皇と両上皇は捕らえられた。以後各地の武士は討幕に立ちあがり,上野国に挙兵した新田義貞は,5月18日,足利千寿王(義詮(よしあきら))らとともに鎌倉を攻撃。22日,北条高時以下北条氏一門と御内人(みうちびと)は東勝寺において自刃,鎌倉幕府は滅亡した。25日には鎮西探題の北条英時も少弐貞経・大友貞宗・島津貞久らの攻撃によって博多で戦死した。六波羅滅亡の知らせをうけた後醍醐天皇は,23日船上山をたち,元号を元弘に復し,6月5日京都に戻った。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「元弘の乱」の意味・わかりやすい解説

元弘の乱
げんこうのらん

元弘1=元徳3 (1331) 年後醍醐天皇が計画した鎌倉幕府討滅クーデター。正中の変 (1324) に失敗した天皇は,再び討幕を企てた。この計画は事前に六波羅探題の察知するところとなり,参画者日野俊基,僧円観らは捕えられ,天皇は元弘1=元徳3年8月笠置山に逃れ籠城したが,翌年六波羅に遷され隠岐に流された。幕府はこの年の4月 27日,正慶と改元し,光厳天皇を擁立した。後醍醐天皇の挙兵に応じた楠木正成らは,赤坂城によって幕府軍と戦い,落城すると千早城に籠城して幕府の大軍を悩ました。元弘3=正慶2 (33) 年,後醍醐天皇が隠岐を脱出すると,足利尊氏,新田義貞らも挙兵して,鎌倉幕府は滅びるにいたった。

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