新田氏(読み)にったうじ

改訂新版 世界大百科事典 「新田氏」の意味・わかりやすい解説

新田氏 (にったうじ)

上野国出身の中世武家。清和源氏一流。源義家の孫義重が上野国新田郡新田荘に住し,新田太郎と号したのに始まる。義重が鎌倉御家人となって以降鎌倉幕府に属したが,源家将軍ないしは北条執権家とおりあいが悪く,その地位は低かった。《吾妻鏡》によれば,新田氏嫡流の義兼が〈新田蔵人〉,政義が〈新田太郎〉であるのに比べ,同族足利氏嫡流の義兼は〈上総介〉,義氏は〈武蔵前司〉〈陸奥守〉〈左馬頭〉である。同門でありながら新田氏の劣勢は歴然としている。また1285年(弘安8)以降,本拠地上野国の守護職が北条氏家督に握られていた事実も,幕府下で冷遇されたこととともに,新田氏の反北条意識を強めることになった。1333年(元弘3)幕府の命に応じて千早城攻めに従軍していた義貞が,やがて討幕に転じたのは以上のような理由からである。建武政府下で新田一門はめざましい進出をとげ,家嫡義貞を中心として,主に軍事部門を担った。35年(建武2)中先代の乱を機として,今度は同門の足利氏との対立が始まった。義貞・脇屋義助をはじめ,新田一族は南軍の主力部隊として,畿内・北国・東国などで縦横の活躍をしたが,なかには,建武政府下で飛驒守護職や多くの北条没収地を拝領した岩松経家のように,足利方に従う庶家もあらわれた。南北朝内乱の前半でのたび重なる合戦において,義貞・義助・義顕・義興といった中枢的人材をなくした新田氏は,南朝の衰微とともに往時の権勢を失っていった。なお一門の庶家には,義重の子の段階で分出した山名里見・得川・額戸があり,嫡流からは大館・堀口などの家が出た。室町期になると《永享以来御番帳》にみえる大館祐善・同常安・同持房,《文安年中御番帳》にみえる大館晴光・同晴忠・同藤安など,とくに大館氏から多数の奉公衆が出た。彼らは室町将軍の直属軍として,将軍権力を支えるうえで重要な役割を果たした。
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百科事典マイペディア 「新田氏」の意味・わかりやすい解説

新田氏【にったうじ】

上野国出身の豪族。清和源氏の一流。源義家(よしいえ)の孫義重(よししげ)が,現在の群馬県新田郡を中心とした上野国新田荘を開発し,新田太郎と号したのに始まる。鎌倉末期,義貞は鎌倉幕府の北条氏の命により千早(ちはや)城(現大阪府千早赤阪村)攻めに加わっていたが,以前からの北条氏による冷遇などを理由に,後醍醐天皇方に転じて討幕に活躍。建武(けんむ)政権下の新田氏は義貞を中心として主に軍事部門を担当したが,足利尊氏と対立。南北朝内乱期,義貞や脇屋義助(わきやよしすけ)ら一族のほとんどが南朝方として戦って滅びたが,岩松氏のように足利方に従う支流もいた。→新田義貞元弘の乱
→関連項目大館氏群馬[県]

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「新田氏」の意味・わかりやすい解説

新田氏
にったうじ

上野国(こうずけのくに)(群馬県)の豪族。清和源氏(せいわげんじ)。源義家(みなもとのよしいえ)の孫義重(よししげ)を祖とする。平安時代末、義重は上野国新田郡(にったごおり)の地(現在の太田市、伊勢崎市とみどり市の各一部)を開発、藤原忠雅(ただまさ)に寄進して新田荘(にったのしょう)下司(げし)となり、その一族は新田荘内に勢力を張る。由良郷(ゆらごう)を中心とした本宗家のほか、岩松(いわまつ)・世良田(せらた)・脇屋(わきや)氏らが新田荘内で、また山名(やまな)・里見(さとみ)氏は西上野を、大井田(おおいだ)・鳥山(とりやま)氏は越後国(えちごのくに)妻有荘(つまりのしょう)を本拠として一族は発展した。新田氏は鎌倉時代には幕府から冷遇されたが、義貞(よしさだ)の代、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に応じて1333年(元弘3・正慶2)鎌倉を攻め落とし、その功で一族の多くが各地の国司(こくし)・守護に任ぜられた。南北朝内乱期には、義貞とともに南朝方に属した脇屋・大井田・大館(おおだち)・堀口(ほりぐち)氏らの一族と、足利(あしかが)方に属した岩松・山名・里見氏らとに分裂、新田荘は岩松氏の支配に属す。1338年(延元3・暦応1)義貞の敗死後も子義興(よしおき)を中心に越後・上野に勢いを振るうが、1358年(正平13・延文3)義興の死後、しだいに衰えていった。新田荘を支配した岩松氏は、金山城(かなやまじょう)に居住するが、満純(みつずみ)のとき上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)の乱(1416~17)に与同して敗北、やがて家臣の横瀬(よこせ)(由良)氏に支配権を奪われてゆく。由良氏も新田氏の末裔(まつえい)と称し、ために、明治維新後に華族に列せられるに際しては、岩松氏と由良氏とが争うこととなった。

[千々和到]

『千々和実著『新田氏根本史料』(1974・国書刊行会)』


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山川 日本史小辞典 改訂新版 「新田氏」の解説

新田氏
にったし

中世上野国の豪族。清和源氏。源義家の孫義重が,上野国新田荘(現,群馬県新田郡・太田市一帯)を開発して,新田氏を称したのに始まる。治承の内乱の際,源頼朝に従い,以後御家人となった。一族は,新田郡を中心に各地に広がり繁栄。庶家には,山名・里見・岩松・徳川・世良田(せらだ)・額戸(ぬかと)などがある。鎌倉後期,嫡流の義貞は後醍醐天皇に味方し,鎌倉を攻略して北条氏を滅ぼした。建武政権下では足利尊氏と対立,一族とともに南朝方につき,各地で戦ったが,1338年(暦応元・延元3)越前国で敗れ滅亡。庶流の岩松氏のみは,足利氏に従ったため存続し,新田荘を継承した。明治以降,新田姓に復し男爵。

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旺文社日本史事典 三訂版 「新田氏」の解説

新田氏
にったし

鎌倉・南北朝時代,上野 (こうずけ) 国(群馬県)の豪族
清和源氏の一流。源義家の孫義重が上野新田郡に土着して新田氏を称した。代々鎌倉幕府に従い,一族は新田郡を中心に各地に繁栄。1333年元弘の変に義貞は初め幕府方に属したが途中より後醍醐 (ごだいご) 天皇に応じ,鎌倉に攻め入り北条氏を滅ぼした。建武の新政以後足利氏と対立し,南朝方の中心として奮戦。一族の多くも南朝方として戦い滅亡した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「新田氏」の意味・わかりやすい解説

新田氏
にったうじ

清和源氏。源義家の孫義重を祖とする。上野国新田荘を本拠とする豪族。山名,里見,大館,得川の諸氏を分出した。嫡流の義貞は鎌倉幕府を滅ぼしたが,南朝に属して子孫は滅びた。新田得川頼有の猶子となった足利氏の支流の岩松政経の子孫が,明治にいたり新田に復姓,男爵を授けられた。

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