二月騒動(読み)にがつそうどう

百科事典マイペディア 「二月騒動」の意味・わかりやすい解説

二月騒動【にがつそうどう】

文永9年(1272年)2月に起きた北条氏一族の内紛。鎌倉幕府執権(しっけん)の北条時宗(ときむね)は,異母兄六波羅探題南方の地位にあった北条時輔(ときすけ)が謀反を企てたため,これを討った。時輔が謀反を起こした原因は,時宗が得宗(とくそう)・執権となって権力の座に就いたことに対する不満にあった。これによって一族内の反対勢力がほぼ一掃され,時宗政権は安定化した。その一方,中心となって事件の処理にあたった安達泰盛(やすもり)は幕府内での実権をより強化させ,平頼綱(よりつな)ら御内人(みうちびと)勢力との対立を深めた。→弘安合戦

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改訂新版 世界大百科事典 「二月騒動」の意味・わかりやすい解説

二月騒動 (にがつそうどう)

1272年(文永9)2月におこった北条一族の内紛。北条時頼の庶子時輔(ときすけ)は六波羅探題南方として京都にいたが,異母弟の時宗が得宗・執権となって幕府の権力の座についたことに不満をもち,謀反を企てた。これを察知した時宗は機先を制して,時輔の与党とみられた名越時章・教時兄弟を鎌倉で討ち,さらに六波羅探題北方の北条義宗に命じて時輔を討たせた。しかし事件後,時章は謀反計画に無関係であったことが判明し,その討伐は誤りであったとして討手は処刑され,時章の子公時は所領を安堵された。この事件の結果,討伐された時章が保持していた筑後肥後大隅の各守護職,時輔が保持していた伯耆の守護職は時宗政権が手に収めた後有力御家人に分与され,一方,騒動の事後処理を主導した安達泰盛は幕府中枢部での実権を一段と強化し,外様の代表として,平頼綱ら御内人勢力との対立をしだいに深めていった。
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世界大百科事典(旧版)内の二月騒動の言及

【北条時宗】より

…68年高麗使藩阜の来訪ののち,3月に18歳で執権に就任した。71年モンゴル使趙良弼が筑前今津に至り,時宗は鎮西に所領をもつ御家人に鎮西下向を命じ,翌年には一族の名越時輔,教時らを誅した(二月騒動)。74年10月元軍が来寇(文永の役),その後も時宗は翌75年(建治1)には元使杜世忠を竜ノ口に斬るなど一貫して対モンゴル強硬政策をとり,高麗進攻計画,防塁築造,非御家人の軍役動員などをすすめ,幕府を事実上の全国政権たらしめてゆくと同時に,舅の安達泰盛,得宗被官(御内人(みうちびと))の平頼綱らによる寄合(よりあい)を政治の中心におき,西国の守護職や重要所領を北条一門で独占する,いわゆる得宗専制を強化していった。…

【六波羅探題】より

… 北条氏一門の有力者たちが探題に就任しただけに,探題が幕府の政争にまき込まれた場合もあった。1264年南方に赴任した北条時輔は,68年異母弟の時宗が執権となったのを不満としていたが,72年時宗は時輔の与党名越時章,同教時らを鎌倉で討ち,さらに六波羅北方義宗に命じて時輔を討たせた(二月騒動)。84年には時宗没後の政局の混乱の中で,六波羅南方時国は突如関東下向を命ぜられ,常陸に流された上,殺された。…

※「二月騒動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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