国富荘(読み)くどみのしょう

百科事典マイペディア 「国富荘」の意味・わかりやすい解説

国富荘【くどみのしょう】

宮崎平野一帯を占めた広域荘園で,宮崎市,宮崎郡佐土原(さどわら)町・清武(きよたけ)町・田野(たの)町(いずれも現・宮崎市),西都(さいと)市,児湯(こゆ)郡新富(しんとみ)町にまたがっていた。1176年の八条院領目録に〈日向国富〉とみえ,1184年には領家職が平頼盛に安堵された。1197年の日向国図田帳によれば,田数1502町(一円荘1382町・寄郡120町)で,一円荘のうち宮崎郡内加江田(かえだ)80町・加納200町以下の地頭が平五,同郡国富本郷240町ほかと那珂(なか)郡内那珂200町以下および児湯郡内佐土原15町ほかの地頭が土持宣綱で,寄郡(よせごおり)は児湯郡内穂北(ほきた)郷70町・鹿野田(かのだ)郷50町からなり,地頭は同じく土持宣綱であった。1306年には歓喜光(かんきこう)院(現京都市左京区)領となっている。1314年那珂郷五分の一知行分の荘官職などが日下部万却丸に,のち同郷の公文(くもん)職などが那珂(日下部)盛連に与えられた。鎌倉末期には北条氏の所領であったが,幕府滅亡後足利尊氏領となり,1333年尊氏は荘内佐土原郷を山城石清水(いわしみず)八幡宮に寄進している。1340年当荘の大部分天竜寺に寄進された。南北朝期に入り,1336年南朝方の伊東氏・肝付(きもつき)氏などが荘内に侵入し,これに対し日向国大将畠山直顕のもと大隅国の禰寝(ねじめ)氏一族が荘内〈太田城〉に馳せ参じている。1338年には畠山直顕が土持宣栄に〈国富庄河北〉に発向するよう命じており,翌1339年には田野城合戦があった。1384年室町幕府は天竜寺領国富荘を寺家雑掌(ざっしょう)に沙汰しつけるよう日向守護大友親世に命じ,これに同心合力するよう島津氏に要請した。1395年幕府は今川了俊に当荘の押領(おうりょう)人を退けることなどを命じ,1419年には伊東祐立に押領されている荘内鹿野田郷を天竜寺に返付するよう伝えている。

国富荘【くにとみのしょう】

若狭国遠敷(おにゅう)郡にあった荘園。現在の福井県小浜(おばま)市の次吉(つぎよし)・熊野(くまの)・羽賀(はが)・奈胡(なご)および若狭湾に面する犬熊(いぬくま)に比定される。太政官(だいじょうかん)厨家(ちゅうけ)領。もとは吉原安富(左大史小槻隆職(おづきのたかもと))が相伝する私領であったが,1165年便補(びんぽのほ)として成立して国富保と称され,以後官御祈願米・造八省院料米・法花会料米・官厨家納絹代の合計200石を進済していた。1195年,太政官は保司・太政官厨家の申請により,四至を定め【ぼう】示を打って,国郡使の入勘などを停止,安富の子孫の相伝領掌を認めた。以後荘号をもってよばれ,当時の田地は34町余,うち現作田25町余・田代8町余・常荒田3町余と犬熊野荒浦(犬熊野浦)からなっていた。13世紀以降,地頭の非法がしばしばあり,1278年には領家・地頭間で和与(わよ)中分がなされ,以後領家方・地頭方に分割された状態で戦国期に至った。鎌倉末,地頭職は北条氏得宗(とくそう)が知行していたが,幕府滅亡後小槻氏に付された。15世紀初めには領家の知行分に半済(はんぜい)が課せられ,これはその後も続いた。天文期(1532年−1555年)に〈国富地頭方〉とみえるのが最終所見とみられる。
→関連項目今富荘

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改訂新版 世界大百科事典 「国富荘」の意味・わかりやすい解説

国富荘 (くにとみのしょう)

(1)若狭国遠敷(おにゆう)郡国富郷に成立した荘園。現在の小浜市次吉・熊野・羽賀・奈胡のあたりと,北方若狭湾岸の浦犬熊の地を含んだ。太政官厨家領。元来吉原安富(左大史小槻隆職)の相伝私領であったが,1165年(永万1)官御祈願米・造八省院料米・法花会料米・官厨家納絹代計200石を進済する便補保(びんぽのほ)とされ,国富保と称した。下って95年(建久6)には,保司・太政官厨家の申請により,太政官は四至を定め牓示(ぼうじ)を打って立券し,国郡使の入勘と課役を停止するとともに,安富の子孫の相伝領掌を認めた。以後荘号をもって呼ばれる。当時田地34町余・荒地3町余と犬熊野浦とから成っていた。13世紀初期以降,地頭の非法が激しく,1278年(弘安1)には,領家・地頭間で和与中分がおこなわれ,以後領家方・地頭方に分割された状態が戦国期に至るまで継続する。鎌倉末には地頭職は北条氏得宗が知行していたが,幕府滅亡後これは小槻氏に付された。15世紀初め(応永年間)には領家知行分に半済(はんぜい)が課されていたことが知られ,以後ほぼこの状態が続いたらしい(以上壬生家文書)。1550年(天文19)12月5日の南部膳行宮敷地等寄進状に〈国富地頭方〉とあるのが荘名の最終所見と思われる(羽賀寺文書)。
執筆者:(2)日向国大淀川下流域を中心に存在した広域荘園。平安時代後期,八条院領として成立。早く在国司日下部氏およびその跡を継承した田部姓土持氏らが勢力基盤としていたところで,彼らは後に地頭や公文等になっている。源平交替期にいったん没官領となったが,1184年(元暦1)八条院領として平頼盛の領家職が安堵されている。97年(建久8)の日向国図田帳によれば,国富荘田代1502町のうち,一円荘1382丁で川南の宮崎郡内加江田80丁,加納200丁以下が地頭平五,国富本郷240丁ほかが地頭土持太郎宣綱,川北の那珂郡内那珂200丁以下と児湯郡内佐土原15丁ほかが地頭同人であり,寄郡(よせごおり)120丁で川北の児湯郡内穂北郷70丁,鹿野田郷50丁が地頭同人となっている。鎌倉幕府滅亡後,足利尊氏領であったが,1340年(興国1・暦応3)天竜寺に寄進された。1335年(建武2)以降,南加納・太田城をはじめ荘内各所は南北両党の戦場となった。
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