円福寺(読み)えんぷくじ

日本歴史地名大系 「円福寺」の解説

円福寺
えんぷくじ

[現在地名]銚子市馬場町

飯沼山金剛院と号し、真言宗智山派。本尊十一面観音は飯沼いいぬま観音で知られ、坂東三十三所観音霊場第二七番札所。古くは所在した地により飯沼寺ともみえる。白鳳期の開創で明応期(一四九二―一五〇一)に全恵が中興したという。飯沼観音は養老期(七一七―七二四)に海中から網で引上げられ、大和の長谷はせ(現奈良県桜井市)と一木両尊であると伝える(以上「先代集」田中家文書)。観音を引上げたのは神亀五年(七二八)で、これを草堂に安置したのが当寺の始まりともいう(「十一面観音由来記」円福寺文書)。建武元年(一三三四)六月の良胤譲状(同文書)に「三崎庄本庄郷之内飯沼寺」とみえ、別当職は海上氏と海上胤方の子盛胤に始まる本庄氏およびその支流飯沼氏に継承された(応永二五年九月一六日「上超譲状」・文安三年四月一三日「千葉胤将安堵状」同文書など)

円福寺
えんぷくじ

[現在地名]板橋区西台三丁目

志村第五小学校の南方にある曹洞宗寺院。西台山と号し、本尊は拈華釈迦坐像。江戸期は龍穏りゆうおん(現埼玉県越生町)末であった(風土記稿)。開創は文明一一年(一四七九)とも、永正年間(一五〇四―二一)ともいわれる。また慶長一三年(一六〇八)武州河越かわごえ(現埼玉県川越市)にあったものを、二世洪州察が現在地に移転させたという。しかし当寺には永正一〇年一二月一三日の多田彦六老母寄進状写が残っており、多田彦六老母が「志村西代」の地などを「円福寺」に寄進した旨を伝える。

円福寺
えんぷくじ

[現在地名]太田市別所

別所の円福寺茶臼山べつしよのえんぷくじちやうすやま古墳の西北にあり、高野山真言宗。御室山金剛院と号し、本尊は不動尊。新田氏ゆかりの寺として、周辺には同氏に関係する史跡なども多い。一三世紀半ばの創建で、開基は時の新田氏惣領政義(阿義、円福寺殿)といわれる(「上州新田雑記」ほか)。政義は囚人逃失罪、自由出家の咎など、幕府(北条得宗)の政治的圧力によって惣領の地位を追われ(世良田・岩松両氏が「各半分之惣領」となる)由良ゆら郷別墅に蟄居させられた(新田実城応永記)。当寺は政義が別所の居館(「新田町誌」によると寺の東北部に接する三町四方の地)に建立した持仏堂であったと思われる。

円福寺
えんぷくじ

[現在地名]豊後高田市玉津 坂ノ上

海門山と号し、臨済宗大徳寺派。本尊は釈迦如来。建治三年(一二七七)大友庶流田原氏の祖田原泰広が絶崖宗卓に請うて大檀那となり七堂伽藍を建立、絶崖はその師南浦紹明(大応国師)を開山とし、自らは第二世となったという(京兆南禅寺沙門宗卓伝)。創建後、鎌倉時代末期から南北朝期の当寺の状況は不明であるが、明徳四年(一三九三)六月一七日に宇佐宮大宮司到津公貞が「高田円福寺長老」に宛てた大宮司家助氏奉書(永弘文書)や、応永二四年(一四一七)の高田円福寺祠堂銭請取状(同文書)などからみるかぎり、法灯は続いたようである。

円福寺
えんぷくじ

[現在地名]米子市上新印

上新印かみしいのほぼ中央、県道金屋谷かなやだに―米子線の南側にある。摩尼珠山と号し、曹洞宗。本尊は聖観音。創建の年次は不詳。初め東方日下くさか村にあった。縁起では能登総持寺四九世天海希曇(応永三一年入寺と伝える)が大山参詣の途次日下村で雷にあった際、天から降ってきた摩尼珠を得て、同地に一寺を建立、摩尼珠山円福寺と号したという。二世竺翁仲山は別に同所に瑞仙ずいせん(のち瑞仙寺)も建て、以降二寺を兼帯、毎月一五日ずつ勤めたという(伯耆志)

円福寺
えんぷくじ

[現在地名]小出町佐梨 崖之上

佐梨さなしの南東字崖之上がけのうえにあり、三国街道から分岐して広瀬ひろせ郷に通じる通称燕堂つばめどう道は、当寺への参詣路である。真言宗智山派、延命山と号し、本尊大日如来。境内の阿弥陀堂は燕堂とも称する。もと田川たがわ(現堀之内町)弘誓ぐぜい寺末。草創年代は不明。寺伝によると、古くは吉田よしだ(現湯之谷村)にあって円徳えんとく寺と号した。のち井口いのくち新田(現湯之谷村)小出島こいでじま村に移り、さらに現在地に移った。現在の阿弥陀堂は承応元年(一六五二)の建築。

円福寺
えんぷくじ

[現在地名]岡崎市岩津町 檀ノ上

岡崎市街を離れ足助あすけ街道を約四キロ北に進み、岩津いわづの丘陵が矢作川に向かって緩やかに下る丘にある。深草山真宗院と号し、浄土宗西山深草派総本山。本尊阿弥陀如来。もと妙心みようしん寺であった。妙心寺は、松平信光の嫡男親則が寛正二年(一四六一)に没し、菩提のため同年松平泰親の嫡男良頓を招請して開山としたという。本尊は阿弥陀如来。慶長八年(一六〇三)徳川家康から寺領寄付の朱印を受けた。「参河国額田郡岩津村之内百壱石五斗任先規寄附也」(岡崎市史)とある。明治一六年(一八八三)たこ薬師として親しまれる京都円福寺と名称交換を完了し、円福寺となる。

円福寺は寺伝によると、もと山城国紀伊郡深草村に開基。

円福寺
えんぷくじ

[現在地名]伊那市大字伊那 荒井

荒井上手あらいわで町にあるが寺史は明らかでない。「長野県町村誌」に、

<資料は省略されています>

とある。同寺所蔵の天正九年(一五八一)四月の武田勝頼宛行状に「信州伊那郡之内大芦之大坊分」とあるところから天正の頃はまだ円福寺といわず、大坊と称していたものと考えられる。

円福寺
えんぷくじ

[現在地名]高鍋町南高鍋 水谷原平付

宮田みやだ川の右岸にあり、洪積台地の北斜面の裾に西面して建つ。江戸時代には現在の水谷原みずやばる坂は高鍋城を俯瞰する位置にあるため通行が禁止され、当寺の東方約一〇〇メートルの所から谷を登って水谷原集落に達していた。現在その旧道は植林されて道はない。水徳山満月まんげつ院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。応永年中(一三九四―一四二八)土持氏が建立したと伝え、江戸時代は京都知恩院の末寺であった(貞享三年高鍋藩寺社帳)。寛永一五年(一六三八)の高鍋藩人給帳には寺領一〇石とあるが、貞享三年(一六八六)の前掲寺社帳では一五石となっている。

円福寺
えんぷくじ

[現在地名]秩父市田村

蒔田まいた川右岸の丘陵上に位置する。大宝山と号し、臨済宗南禅寺派。本尊は釈迦如来。「風土記稿」や寺蔵の縁起などによれば、応安六年(一三七三)開基である日奉氏熊谷金吾直俊の願いにより創建され、嘉慶二年(一三八八)に堂宇の完成をみたとされる。開山は白崖派の祖となる白崖宝生。白崖の師にあたる鎌倉建長寺住持大拙祖能が、元より持帰った三器の宝物を賜り、大宝山と号したという。文明一五年―明応六年(一四八三―九七)にかけて住持となった盟庵千契は山門等の新築を行い中興開山とされる。

円福寺
えんぷくじ

[現在地名]八幡市八幡福禄谷

おとこ山の最南端、高野こうや街道ほらヶ峠の西に位置し、達磨堂円福寺また「だるま寺」ともいう。山号雄徳山、臨済宗妙心寺派、本尊釈迦如来。「拾遺都名所図会」に「八幡志水町の南高野街道の右にあり、禅宗にして造営は近年天明三年より濫觴て同五年に成就す、基此地は山城河内乃境にして八幡神領幣原村の内なり、西ハ楠葉にして細路八町計あり」とあって、造営は天明五年(一七八五)である。

円福寺
えんぷくじ

[現在地名]茨城町鳥羽田

さかさ川右岸の高台、鹿島神社の東隣にある。天台宗で法叡山高岳院と号する。寺伝は弘仁三年(八一二)慈覚大師円仁が奥州を巡化の帰途この地で弥陀の出現奇瑞にあい、建立したのが始まりと伝える。のち数度の災害で記録などを失ったが、「新編常陸国誌」によると黒子くろご(現真壁郡関城町)千妙せんみよう寺末、水戸十ヵ寺の一つで、除地二石余、末寺二ヵ寺、門徒七ヵ寺を有した。

円福寺
えんぷくじ

[現在地名]熱田区神戸町

亀井山と号し、時宗。本尊阿弥陀如来。亀井道場ともよんだ。最澄が熱田社へ参籠した時に建立したものと伝え、往古ここは洲崎で、洲崎の毘沙門堂とよんだという。元応元年(一三一九)厳阿ごんな(足利一族、応安三年没)が天台宗を時宗に改めてここに住し、足利尊氏の祈願所として堂宇を建立し、永享四年(一四三二)将軍足利義教の富士遊覧の時、当寺に三日間逗留して連歌会を催した。

円福寺
えんぷくじ

[現在地名]皆野町皆野

荒川の北東岸、皆野のうち字大浜おおはまにある。平量山量寿院と号し、真言宗智山派、本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば開山の量光は延長三年(九二五)に没したといい、平将門の開基と伝える。境内に将門のものと伝える墓もあり、「郡中仏法最初ノ道場ナリ」(風土記稿)とも記されるが詳細は不詳。寛永一〇年(一六三三)の関東真言宗新義本末寺帳によれば栗崎くりざき(現本庄市)宥勝ゆうしよう寺の末寺六ヵ寺のうちで、仁和寺西院流の法流であった。

円福寺
えんぷくじ

[現在地名]春日井市白山町

白山神社の下にある。勝嶽山と号し天台宗山門派。円福寺縁起(円福寺蔵)によれば、養老七年(七二三)伊勢国の益直という商人が船に乗りこの地松島に着き十一面観音の霊像を得た。船に乗せて伊勢国の湊に揚げようとしたが重くて揚がらず、松島の辺りに三間四面の堂を建て霊像を安置。そこが観音堂で、初め縁福寺と名付けたが神亀五年(七二八)円福寺と改めたという。益直を開山としている。

円福寺寄進田帳(同寺蔵)に享禄四年(一五三一)のこととして「壱段 毎年米五舛三合銭五十四文円福寺観音ヘ御納所可有候」とある。

円福寺
えんぷくじ

[現在地名]久御山町大字田井

田井たい集落の北部に位置する。功徳山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。

寺伝によれば、弘仁一五年(八二四)弘法大師によって創建され、真言宗寺院であったという。

安永四年(一七七五)の田井村神社明細帳(黒川幸三郎氏蔵)には当地専念せんねん寺の末寺で、開基は不詳、寛永二年(一六二五)竜諫によって中興されたと記す。

円福寺
えんぷくじ

[現在地名]下妻市下妻

おお町にある。真言宗豊山派、霊雲泰鳳山と号し、本尊は不動明王。応永年間(一三九四―一四二八)に足利氏満の命で宍戸希宗・赤松祐弁が下総国岡田おかだ今里いまざと(現結城郡八千代町)の香取社の別当寺として建立。文明年間(一四六九―八七)以後、多賀谷氏の帰依を受け、元亀二年(一五七一)の争乱で当寺が焼失したため、現在地に移転再建され(円福寺記録)、江戸時代には朱印地二二石を有した。

円福寺
えんぷくじ

[現在地名]西区新福寺町一丁目

松登山と号し、真宗高田派。本尊阿弥陀如来。慈覚大師円仁の創建と伝え、もと天台宗であったが、嘉禎元年(一二三五)親鸞が東国より帰洛の時、この寺に二日間逗留して教誡した。その時、住僧慶順坊は親鸞に深く帰依して転宗したという(尾張名所図会)。永禄四年(一五六一)寺は全焼したが、親鸞自筆の十字名号は火炎のうちから抜け出して境内の古松の枝に懸かったので、それ以来、この十字名号を火難除けの名号と称し、その時より松登山の山号にしたという(同書)

円福寺
えんぷくじ

[現在地名]名和町御来屋

御来屋みくりや港の南方一五〇メートルほどにあり、旧国道に沿う。蓬莱山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。天文三年(一五三四)一〇月の創建といわれ、開山の月秀永照が死去したのは同月二六日とされる(「円福寺世代前住亡僧過去帳」寺蔵)。ただし二代は享保一三年(一七二八)死去の仙厳養源となっており(同過去帳)、寺として整備されたのは江戸時代に入ってからと考えられる。

円福寺
えんぷくじ

[現在地名]生駒市有里町

生駒谷を見下ろす高所にある。竜華山と号し、真言律宗。寺伝では天平勝宝年間(七四九―七五七)の建立という。本堂(国指定重要文化財)は正面三間・側面三間、単層・入母屋造・本瓦葺で、鎌倉時代の和様建築である。来迎壁裏面には応安四年(一三七一)の墨書銘がある。本尊は弥陀三尊で、その右に藤原時代の十一面観音立像を安置。本堂前には高さ二・五メートルほどの鎌倉時代の宝篋印塔二基(同文化財)があり、南側の塔には四方四仏を、北側の塔にはその種子を浮彫にする。

円福寺
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[現在地名]松山市木屋町二丁目

国道一九六号(本町)の東方の町家の中にある。山号は阿遮羅山、真言宗豊山派。本尊は大聖不動明王。寺伝によると、寛永年間(一六二四―四四)に松山城主蒲生忠知が祈願所として創建したという。当寺は、蒲生忠知の画像と遺品の膳椀を所蔵する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「円福寺」の解説

円福寺

千葉県銚子市にある真言宗の寺院。山号は飯沼山、院号は金剛院。本尊の十一面観音像は「飯沼観音」の名で知られる。坂東三十三観音第27番札所。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

事典・日本の観光資源 「円福寺」の解説

円福寺

(長崎県長崎市)
長崎県新観光百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報