生駒市(読み)イコマシ

デジタル大辞泉 「生駒市」の意味・読み・例文・類語

いこま‐し【生駒市】

生駒

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日本歴史地名大系 「生駒市」の解説

生駒市
いこまし

面積:五二・五八平方キロ

西北隅、生駒山(六四二・三メートル)東部に位置する。東に矢田やた丘陵、西に生駒山地があり、矢田丘陵北端部によって、北の高山たかやま地方と南の生駒谷に二分されている。高山地方では富雄とみお川が、生駒谷では竜田たつた川が南流する。高山地方は旧添下郡、生駒谷は旧平群へぐり郡に属した。東は奈良市・大和郡山市、西は大阪府、南は生駒郡平群町・斑鳩いかるが町、北は京都府・大阪府と境する。古くから磐船いわふね越・清滝きよたき越・くらがり越などが開かれ、大和への西北からの入口として重要な地域であった。

イコマの初見は、「日本書紀」神武天皇即位前紀戊午年条の「胆駒山」で、おもに山名として現れ(→生駒山、往馬(延喜式)の表記もあり、生駒山の東麓、平群郡北部の地名であろう。

〔原始・古代〕

縄文・弥生時代の遺跡はほとんど知られていない。わずかに市内の萩原はぎはら町の生駒南小学校付近で弥生後期の石鏃や櫛目文のある壺・高坏形土器片が採集されているのみである。古墳は有里ありさと町の竹林寺ちくりんじ古墳が前期の前方後円墳として著名であるが、ほかには古墳時代の遺跡として確認されたものはない。

神武天皇が胆駒いこま山を越えて大和入りを図った時、長髄彦孔舎衙くさか坂で応戦したため天皇はここからの侵入を断念して紀州へ回ったという説話が残る(日本書紀)。長髄彦は登美とみの那賀須泥古ともいい(古事記)、登美は現高山町から奈良市西部にわたる富雄川沿いの古地名といわれる。当地北部・東部にはこのような土着有力氏族の存在が考えられ、また南部の平群谷を拠点とした平群氏の勢力はもちろん当市域にも及んでいたであろう。

平群郡の中心は現平群町・斑鳩町であったが、生駒市西方には霊峰生駒山があり、東麓壱分いちぶ町には竜田大社(現生駒郡三郷町)に並ぶ式内往馬坐伊古麻都比古いこまにいますいこまつひこ神社が鎮座。また葛城とともに修験の道場としても知られ(諸山縁起)、行基墓のある竹林寺があり行基開基と伝える寺院が多い。

当市域は辺境に属し、山がちのため条里の施行はなかったと考えられ、また「和名抄」では、わずかに添下郡鳥貝とりかい郷が市東端に及んでいたと推察される。

〔中世〕

この地方には奈良時代以来の長弓ちようきゆう(現上町)があるが、平安中期には興福寺の支配勢力が及び、同寺領荘園鷹山たかやま庄・鳥見とみ庄があった(興福寺雑役免帳)。両庄とも公田の雑役免からなる荘園である。そのほか少なくとも鎌倉初期には寄進になる興福寺一乗院領荘園生馬いこま庄もみられる。同庄はやがて両分され、一分いちぶ方・二分にぶ方となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「生駒市」の意味・わかりやすい解説

生駒〔市〕
いこま

奈良県北西端,生駒山地の東斜面にある市。 1921年町制施行。 1955年南生駒村を,1957年北倭村 (きたやまとむら) をそれぞれ編入。 1971年市制。中心市街地は生駒山の中腹にある宝山寺門前町として発展。 1914年大阪電気軌道 (近畿日本鉄道) が開通,生駒山地をトンネルが貫き大阪と直結して以来,急速に発展した。 1918年宝山寺まで日本最初のケーブルカーが敷設され観光地化した。 1959年阪奈道路が市内を横断,住宅都市としても発展。北部の北倭は農村地帯で,高山を中心に茶筌 (ちゃせん) などの竹細工特産。国宝の『金銅能作生塔』を蔵する長福寺 (本堂は国指定重要文化財) ,長弓寺 (本堂は国宝) があり,南部には行基の墓 (国指定史跡) がある。市域の一部は金剛生駒紀泉国定公園に属し,信貴生駒スカイラインが縦走する。近畿日本鉄道生駒駅で奈良線,生駒線,けいはんな線が結節。国道 168号線が中央部を南北に縦断し,国道 163号線,308号線などが東西を走る。面積 53.15km2。人口 11万6675(2020)。

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