観音堂(読み)かんのんどう

精選版 日本国語大辞典 「観音堂」の意味・読み・例文・類語

かんのん‐どう クヮンオンダウ【観音堂】

〘名〙 観音の像を安置した堂。観音の住む所は、南海補陀洛山(ふだらくせん)にあると信仰されたためか、多く海岸や山の懸崖の上に建立された。
名語記(1275)三「よぢのぼりて、観音堂をたてたり」

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デジタル大辞泉 「観音堂」の意味・読み・例文・類語

かんのん‐どう〔クワンオンダウ〕【観音堂】

観世音菩薩の像を安置してある堂。

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日本歴史地名大系 「観音堂」の解説

観音堂
かんのんどう

[現在地名]長岡市釜沢町

釜沢かまざわ集落の東奥、丘陵山腹に鎮守白山神社と隣合せにある。本尊は二尺六寸の木造千手観音座像。かつて集落西の河岸段丘中腹満願まんがん寺があり、その本尊であったが、越後一揆堂宇焼失、退転し、本像のみ残り伝えられた。観音像は玉眼寄木造。宝冠も同木で頭上に九面を頂く(頂上仏のみ本体と同時、ほかは後補)。胸前の一手は合掌し、膝上の一手は宝壺を持つが、ほかの左右の手は後補。本体は平安末期の様式を示す古仏で、満願寺の歴史の古さを証明するものであるが、補修の個所もある。胎内に一寸八分の小観音立像を納め、延宝六年(一六七八)の墨書銘を有する。

観音堂
かんのんどう

[現在地名]岩泉町袰綿

岡口おかぐちの畑中にあり、文政五年(一八二二)袰綿ほろわた村百姓一揆の犠牲者、品右衛門・清兵衛両人の霊を祀る。地頭袰綿氏は享保二〇年(一七三五)以来、宝暦六年(一七五六)・安永二年(一七七三)・同五年・天明四年(一七八四)など、生活が苦しくなると手回を知行地に送って経費の切詰めを図るのが例であった(雑書)。しかしこれは百姓たちにとっては大変な負担で、天明五年には「御手廻、御召仕共十二人、当所へ引越、只今迄賄上候得共、最早雑穀にても差上可申様も無御座」と宮古代官所へ訴えが出ている。このときは代官所役人の仲介で内済。

観音堂
かんのんどう

[現在地名]石下町豊田

豊田とよだ集落北部に位置。行基菩薩御作正観音略縁起(大林家文書)に「将基軍中の守本尊としたる行基の御作正観世音軍中にて、しばしば利益ありしによりて一寺建立ありて此観世音を安置せられけり。是則当山の起立なり」とあり、豊田家の祖政幹が前九年の役に出陣した際の守本尊を安置したもの。豊田氏代々の尊崇厚く、豊田家に重大なことがあると正観世音像が鳴動し危機を知らせたという。「趣味の結城郡風土記」によれば近世には天台宗の蛇沼山長楽ちようらく寺が別当となる。宝暦三年(一七五三)春の麻疹、同四年秋の疫病流行により、周辺に死亡者が相次いだ時、観世音の前で一七日間に観音経三三遍を読誦し、病難の平穏を祈願したところ、豊田郡中では死亡者がなかった。

観音堂
かんのんどう

[現在地名]八千代町栗山

栗山くりやまの北部台地の南縁部、ヤト田に向かい南面して建つ。もとは二体の金剛力士像を安置した山門と観音堂からなる。天台宗の弁寿山栗栖院仏性ぶつしよう寺の西に位置し、その管理下にある。本尊は侍仏像一一体を伴う(八千代村郷土史資料集)とあるところから、侍仏は十二神将、本尊は薬師如来とみられるが、本尊は九世紀半ばをあまり下らない、関東最古の木心乾漆法による如来形坐像として県指定文化財となった。

観音堂
かんのんどう

恵光院の東隣にある。寛保三年(一七四三)の「奥州南部糠部順礼次第全」に「蓮台山長谷寺本尊十一面観世音菩薩」とあり、糠部ぬかのぶ三十三観音の第二二番札所とされる。「邦内郷村志」の赤石あかいし村の項に「長谷嶽観音堂、邑人不伝草創、天正十二年信直公御造営、明暦三年重直公末社共御造営、寛永二十一年重直公同」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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