八雲神社(読み)やくもじんじや

日本歴史地名大系 「八雲神社」の解説

八雲神社
やくもじんじや

[現在地名]松阪市日野町

祭神は建速須佐之男命ほか九柱。旧県社。「権輿雑集」の日野町部「弥勒院并牛頭天王之事」に「金生山善福寺弥勒院、(中略)右境内牛頭天王の社は、森田豊前守政直と云人、貞観十二年、勅を奉り山城国祇園の社を諸国に七坐勧請する一座也、天正十六子年二月十九日、従松ケ嶋当町に遷社、享保十四酉年二月十二日、類火ニ社堂焼失、住持与英翁産子力を戮、内宮西宝殿の古材を貰、其儘取建、同十六亥年二月十九日遷社」とある。

八雲神社
やくもじんじや

[現在地名]烏山町中央一丁目

毘沙門びしやもん山下にある。祭神は素盞嗚命、旧村社。近世は牛頭天王社と称された。社伝によれば永禄三年(一五六〇)烏山城主那須資胤が領内に流行した疫病退散を祈願、大桶おおけ村牛頭天王社の分霊を鍛冶かじ町木戸前(仲町十文字)に勧請したのが始まりという。当社の例祭山あげ行事(国指定選択無形文化財)は近世、城下最大の祭事であった。宝暦一二年(一七六二)の赤坂祭礼記(烏山町郷土資料館蔵)などによると祭礼が始められたのは永禄六年のことで、寛文七年(一六六七)社殿建替えの際、祭典として町内より踊・日笠・花籠などを繰出したが、これが現在につながる山あげ行事の原形となったとしている。

八雲神社
やぐもじんじや

[現在地名]釜石市八雲町

大渡おおわたり川北岸のいたさわに鎮座。祭神素盞嗚命・少彦名命、もと大天山観音寺の鎮守として大天場権現を祀る。旧村社。社伝によると、寛治三年(一〇八九)新羅三郎が近江国園城おんじよう寺の新羅明神を甲斐国南部なんぶ大天場たいてんば山に分霊、大天場権現と称した。のち観音寺の開基慶度院源信が権現の聖体を勧請、当地に社祠を建立したのに始まる。古くから釜石村・甲子かつし村・甲子町・平田へいた村の総鎮守として崇敬され、正徳三年(一七一三)には神祇官より正一位大天場山権現の称号を受けたという(観音寺文書)。元亀二年(一五七一)・元和八年(一六二二)・寛文三年(一六六三)などに社殿改修があり、元禄五年(一六九二)には観音寺七世宝全院永源により大天場宮および宝殿新造、寛延三年(一七五〇)には吉里吉里きりきり(現上閉伊郡大槌町)の商人前川善兵衛、釜石の商人佐野与治右衛門の寄進によって豪壮な社殿が建立されるが、明治二九年(一八九六)の山火事で焼失した。

八雲神社
やくもじんじや

[現在地名]柴田町入間田 古内

入間田いりまだの北西、字古内ふるうちの杉の巨木が茂る山にある。旧名の祇園社から村民には祇園さんの名で親しまれる。祭神は速須佐迺男命・武甕槌命・軻遇突智命、旧郷社。縁起によれば、奥州合戦で源義経に従って戦死した紀州名草なくさ藤白ふじしろ(現和歌山県海南市)の鈴木重家の産土神牛頭天王を、文治五年(一一八九)に同家の家臣水原平兵衛が当地に勧請したと伝える。近世、当社の別当は本山派修験大正だいしよう院で、同院は本村ほか葉坂はざか村・富沢とみざわ村を霞場としていたが(享保一九年「修験法流預置状」水原広見家文書)、嘉永元年(一八四八)には加えてそれまで四日市場よつかいちば村の来光らいこう院が霞場としていた上川名かみかわな村が当院の霞場となっている(「上川名村正祈願任命状」同文書)

八雲神社
やぐもじんじや

[現在地名]花巻市幸田

幸田こうだの北西部にあり、祭神は素戔嗚尊・櫛稲田姫命。旧村社。当地の渡辺家に残る由緒書によると、文治五年(一一八九)の奥州合戦で敗走した藤原氏一族の泉三郎忠衡は当地に潜居、村民と図って溜池(現在の三郎堤)を築き田を開いたといい、当社はこの築堤工事の無事と早期完成を願って忠衡が日頃尊崇する八雲大神を勧請したことによるとか、忠衡の遺徳をしのんで墓所に一宇を建立したことに始まるとされる。かつては元宮もとみや(本宮)に鎮座していたが火災に遭って衰微、享徳三年(一四五四)堤を修築した折に池底より鋤・釜が出土(この年が大旱魃で池底の割れ目から見つかったともいう)、新たに現在地に堂宇を建立し、これを安置したという。

八雲神社
やくもじんじや

[現在地名]水沢市羽田町

小谷木おやぎ橋北方の北上川堤防東側のあわにある。祭神は素盞嗚尊。由緒に関する記録は焼失したが、言伝えによれば、粟ノ瀬小林家の宗家が天正一三年(一五八五)一月美濃大垣おおがき(現岐阜県大垣市)より退去の際、その氏神牛頭天王を供奉勧請したもので、現に大垣には当社の宗社たる八雲神社と別当小林家が存在するという。初めの鎮座地は地蔵島じぞうじま(現江刺市)であったが、天明年間(一七八一―八九)大洪水により現在地に移したと伝える。当地小林宗家には先祖の遺物として秘蔵する太刀二振があり、一振は長さ二尺三寸、古刀式の家次の銘があり、他の一振は小刀で長さ一尺二寸、和泉兼定の銘がある。

八雲神社
やぐもじんじや

[現在地名]鎌倉市大町一丁目

大町おおまち四ッ角の北東、別願べつがん寺北側に位置する。祭神須佐之男命・稲田比売命・八王子命。かつては天王社・松堂祇園社・松殿祇園天王社・佐竹天王などと称した。例祭の七月七日に神輿の渡御があり、鎌倉囃子・大町天王唄が催される。旧村社、大町の氏神社。社伝では永保年中(一〇八一―八四)に新羅三郎源義光が京都祇園社を勧請したといい、また応永年中(一三九四―一四二八)佐竹一族の霊祠を合祀して佐竹天王と称し、神輿四座のうちの一つと伝える。

室町時代には祇園社の神輿は毎年大祭の時、関東公方屋敷で奉幣拝礼された(殿中以下年中行事)

八雲神社
やくもじんじや

[現在地名]土居町天満 上天満

祇園ぎおん山麓にある。もと山上にあったものを麓に遷座したもので、裏山の一町歩余の林は一五〇種以上の原生林となっている。古くは午頭天皇宮と称したが、明治二年(一八六九)一一月八雲神社と改称した。祭神は素戔嗚尊・奇稲田姫命・手那槌命。旧郷社。

社伝によると素戔嗚尊が仮殿を建てた跡に、推古天皇二五年に創建したとされ、また元徳二年(一三三〇)創建ともいう。天保一三年(一八四二)の「西条誌」に「午頭天皇社(中略)所祀神三座 奇稲田姫命 素戔嗚尊 手摩乳命(中略)末社大神宮 恵美須社」とあるのがこれで、氏子は天満村のほかに北野きたの村、土居村、畑野はたの村などに及んだという。

八雲神社
やくもじんじや

[現在地名]丹原町高松

高松たかまつの西方のあいやまにある。祭神は素盞嗚尊・稲田媛命・大己貴命。旧村社。

宝永七年(一七一〇)の「周布郡大手鏡」に「村之西在 一、牛頭天王宮一社 五尺ニ一間神殿 一間ニ一丈釣殿 二間ニ二間半拝殿」とあるのが当社と思われる。明治初年の「伊予国周布郡地誌」には「式外ニテ境内東西五間、南北一町、面積九畝四歩」と記される。「伊予温故録」には「勧進年月詳ならすといへとも当社に往古より神鏡一面を納む表は銅にして裏は木なり裏に養老三年己未六月献納の十字あり是れを以て見るも古社たるを証すへしといふ」とある。

八雲神社
やぐもじんじや

[現在地名]鎌倉市常盤

大仏坂だいぶつざか切通の北側、県道鎌倉―藤沢線の北傍に位置する。祭神は素盞嗚命・速玉之男命・伊弉冉命。旧村社、常盤ときわの氏神社。本殿・幣殿・拝殿からなる。例祭は七月第一日曜日から土曜日までの七日間、七日目に神輿が出る。明和三年(一七六六)の縁起書では、紀州熊野社を勧請し、のちに当社にこれを合祀したといい、また昭和二三年(一九四八)頃における古老の話では、当社は慶長年間(一五九六―一六一五)矢沢与左衛門尉光広の創立と伝える。

八雲神社
やぐもじんじや

[現在地名]鎌倉市西御門一丁目

来迎らいこう寺の傍らに位置する。祭神須佐男命。例祭七月一六日。旧村社、西御門にしみかど地区の氏神社。勧請年は未詳、「風土記稿」にみえる字大門だいもんの天王社が当社であろう。神殿は天保三年(一八三二)五月に建造された(大正七年「土地明細書」)

八雲神社
やくもじんじや

[現在地名]山越郡八雲町宮園町

八雲町の市街地に鎮座。祭神は熱田大神・天照大神・素盞嗚尊。旧郷社。明治一一年(一八七八)から旧尾張名古屋藩士が遊楽府ゆうらつぷに移住を開始、同一二年故郷の熱田神宮神符と徳川家歴代の神霊を産土神として祀ったのに始まる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典 日本の地域遺産 「八雲神社」の解説

八雲神社

(東京都練馬区小竹町2-42)
ねりまのとっておきの風景(地域景観資源)」指定の地域遺産。

八雲神社

(東京都練馬区高松5-14)
ねりまのとっておきの風景(地域景観資源)」指定の地域遺産。

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

事典・日本の観光資源 「八雲神社」の解説

八雲神社

(東京都あきる野市)
東京の名湧水57選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報