精選版 日本国語大辞典 「元田永孚」の意味・読み・例文・類語
もとだ‐ながざね【元田永孚】
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
(沼田哲)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
明治天皇側近の儒学者。号は東野。名は〈えいふ〉ともいう。熊本藩に生まれ,藩校時習館に学ぶ。横井小楠の影響をうけ実学派に参加。維新後の1871年(明治4)大久保利通らの推挙により宮内省に入り,侍読,のち侍講,侍補となって死去までの20年間,天皇への進講をつづけ,帝王学の教授にあたった。78-79年他の侍補とともに天皇親政の実をあげるべく運動を起こし,伊藤博文ら内閣側と衝突したが,運動は失敗に終わり侍補制度は廃止,宮中・府中の別が確立された。明治14年の政変(1881)の際には薩長藩閥勢力と大隈重信派の双方に対する批判活動を展開した。一方,天皇の命をうけて《教学大旨》(1879),《幼学綱要》(1882)を執筆・編纂し,天皇中心の教育を構想。欧米流の教育政策を転換させて,仁義忠孝を中心とした儒教道徳の復活をはかろうとした。晩年,教育勅語の起草作業に加わり,天皇制教育の基本理念の確立に大きく寄与した。宮中顧問官,枢密顧問官を務め,男爵となった。
執筆者:大日方 純夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
明治天皇の侍講・侍補、側近奉仕者として活躍。熊本藩出身。藩校時習館に学び横井小楠(しょうなん)の教示を受ける。現実への適用を課題とする実学としての朱子学に学問的立脚点を置く。京都留守居、側用人(そばようにん)兼奉行、藩知事の侍読などを務める。1871年(明治4)藩命により上京、宣教使、少参事。同年5月宮内省出仕、侍講となり以後明治天皇の君徳輔導に尽力。立憲制に対しては天皇の徳治を、教育政策では開明派の知的啓蒙に対して仁義忠孝の徳育を主張。1888年枢密顧問官となる。1879年には「教学聖旨」を起草、また教育勅語の草案作成に参画し、1882年には『幼学綱要』を刊行、明治公教育の理念形成を主導。
[森川輝紀]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1818.10.1~91.1.22
幕末~明治期の儒学者。熊本藩士の家に生まれる。藩校時習館に学び横井小楠(しょうなん)を知る。京都留守居・高瀬町奉行などを勤め,明治維新後は1871年(明治4)宮内省に出仕。侍講・宮中顧問官・枢密顧問官などとして明治天皇に近侍した。「幼学綱要」の編纂,「教育勅語」起草への参画などを通じて,儒教主義・国教主義の立場を貫いた。死に臨み特旨によって男爵を授けられた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…儒教主義の復活である。これを促進した天皇の侍講元田永孚が勅命によって編纂した《幼学綱要》(1882)は,全国の学校に修身書として下付された。一方,鹿鳴館の舞踏会に代表されるような,条約改正のための欧化主義が華族や官僚上層部にひろがっていた。…
…1879年8月,天皇の名で出された教学の根本方針。元田永孚が起草。洋風を競い智識才芸の末にはしる傾向を戒め,仁義忠孝の精神の育成を中心にすえた徳育が教育の基本であるとした。…
…明治天皇の勅令により侍講元田永孚(ながざね)によって編纂され1882年刊行された修身書。一時《童蒙修身綱要》とも称した。…
※「元田永孚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...
4/12 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
4/12 デジタル大辞泉を更新
4/12 デジタル大辞泉プラスを更新
3/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
2/13 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新