府中(読み)ふちゅう

精選版 日本国語大辞典 「府中」の意味・読み・例文・類語

ふ‐ちゅう【府中】

[1] 〘名〙
① 令制の国府の所在地。
※将門記(940頃か)「府中の道俗も酷く害せらるる危ぶみに当る」
② 朝廷で、政治を行なう表向きの所。〔諸葛亮‐前出師表〕
③ みやこの内。国または地方の政治の行なわれる所。大きな都市の内。
※俳諧・曠野(1689)員外「かかる府中を飴ねぶり行〈野水〉 雨やみて雲のちぎるる面白や〈落梧〉」
④ 大阪府、京都府など、府の区域内。
[2]
[一] 東京都中央部の地名。多摩川の北岸にあり、大部分を武蔵野台地が占める。古代は武蔵国の国府所在地。江戸時代には甲州街道上石原(布田五宿)と日野との間の宿場町・市場町として栄えた。大国魂神社・多磨霊園・東京競馬場などがある。昭和二九年(一九五四)市制。
[二] 広島県東部の地名。古代は備後国の国府所在地。備後絣・府中味噌・府中家具を特産。昭和二九年(一九五四)市制。
[三] 広島県南西部の地名。古代は安芸国の国府所在地。自動車・ビール工業が盛ん。

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デジタル大辞泉 「府中」の意味・読み・例文・類語

ふちゅう【府中】[東京都の市]

東京都中部の市。もと武蔵国府の地で、甲州街道の宿場町として発展。多磨霊園・東京競馬場や大国魂おおくにたま神社がある。人口25.5万(2010)。
[補説]広島県にも府中市があり、同名の市はこの両市と北海道伊達市福島県伊達市との2組だけ。

ふちゅう【府中】[広島県の市]

広島県南東部の市。もと備後びんご国府の地。備後絣びんごがすり・家具・味噌の産地。非鉄金属などの工業も盛ん。平成16年(2004)に上下町を編入。人口4.3万(2010)。
[補説]東京都にも府中市があり、同名の市はこの両市と北海道伊達市福島県伊達市との2組だけ。

ふちゅう【府中】[静岡県の地名]

東海道五十三次の宿場の一。現在の静岡市葵区中心部付近にあった。また、駿府の別称。

ふちゅう【府中】[広島県の町]

広島県安芸あき郡の地名。もと安芸国府の地。広島市に囲まれており、自動車工業が盛ん。
[補説]広島県には府中市もあるが別の自治体。隣接もしていない。

ふ‐ちゅう【府中】

律令制国府こくふ。また、その所在地。
宮中に対して、政治を行う表向きの役所。

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日本歴史地名大系 「府中」の解説

府中
ふちゆう

大分川下流左岸の現大分市もと町・上野丘東うえのがおかひがし・上野丘西以北、荏隈えのくま郷に所在した豊後国府を中心とした地域。戦国時代には府内ともよばれた。文暦元年(一二三四)四月一〇日の賀来社大宮司法橋上人位定文写(柞原八幡宮文書)に「府中」とみえ、由原ゆすはら(賀来社)正宮師が社頭神事により賀来かく・府中に出府している。

豊後守護大友氏が管国豊後国に発したと推測される仁治三年(一二四二)正月一五日の新御成敗状(東京大学文学部国文学国史研究室蔵)に二八条からなる府中関係の条項がある。一九条に府中に屋地を賜る輩が済物を懈怠すれば屋地を没収するとあるのをはじめ、二〇条の府中に道祖神社を祀ることの禁止、二一条の町押買の停止、二二条の府中指笠の雨天以外の停止、二三条の大路を狭むることの制止、二四条の晴大路に面した場所での産屋の禁止、二五条の府中に墓所を置くことの禁止があげられている。豊後守護大友頼泰は幕府内での対立から逃げるためもあって管内豊後国に下向するが、その時大隅国しよう八幡宮(現鹿児島県隼人町)大神宝用途調進を管国を越えて指揮する特殊権限を与えられた(文永二年一二月二六日「関東御教書案」宮内庁書陵部八幡宮関係文書)。文永一〇年(一二七三)三月二三日、頼泰は大神宝官使に狼藉を働いた石垣いしがき(現別府市)地頭代に、直ちに上府し陳弁せよと命じている(同日および四月一一日「大友頼泰書下案」同文書)。この一連の史料中に上府・参府の語が散見できるが、これは豊後守護所の所在地府中をさすものである(同年五月一六日「高田庄相論狼藉検見使起請文案」同文書)。嘉元三年(一三〇五)大友貞親は延暦寺僧道勇を請じて府内石屋いわや寺に迎え(雉城雑誌)、徳治元年(一三〇六)に臨済宗萬寿まんじゆ寺を府中に建立、直翁智侃を開山とした(応永六年一二月「東福第十世勅賜仏印禅師直翁和尚銘」続群書類従など)。同寺は建武四年(一三三七)には十刹に列せられる(空華集)。また、貞宗も徳治二年岩屋寺(石屋寺)を山上の現在地に移して円寿えんじゆ寺と名を改め、道勇を中興とした(「豊後旧記」ほか)。元弘年中(一三三一―三四)には金剛宝戒こんごうほうかい寺を現在地に移したという(豊後国志)

南北朝期、府中は政治・軍事の中心地として南朝軍の攻撃の的となる。建武三年三月一一日大友貞順以下の南朝軍が府中に打入ろうとしたとき、大友軍の大半が太宰府出陣中であったため、志賀頼房高国府たかごうに味方を募り府中を警固した(同四年三月日「志賀頼房軍忠状」志賀文書)

府中
ふちゆう

符中ふちゆうとも記す。七尾南湾の南岸部に位置し、現本府中もとふちゆう町・上府中町を含む市街地の中心部に比定される。地名は中世国衙の所在地であったことによる。一六世紀前半まで能登国守護畠山氏の守護所が置かれた。

文明一〇年(一四七八)八月二八日の高座宮神主友永置文(須須神社文書)によると、前年九月方上かたかみ(現珠洲市)の守護請代官五井兵庫頭が保内の同宮神田を押領したため、一〇月二八日に友永が符中に赴いている。友永は守護代遊佐統秀に押妨停止を訴え、翌一〇年一月神田を還付する旨の守護の命令が下されるまで守護所の法廷を舞台に訴訟が展開された。畠山義統は同年暮頃までには能登に下国し、府中の守護館に居住していた。同一一年七月義統はかねて雅友の関係にあった招月庵正広に能登への来遊を促す書状を送っており、翌八月正広は府中に下向し、同一三年頃まで滞在した。次いで同一四年一〇月正広は再度下向し、滞留は同一七年にまで及んでいた。

府中
ふちゆう

国分こくぶんを中心とする一帯で、古代の国府であったと考えられている。

本願寺三世覚如の死後間もない観応二年(一三五一)息子従覚が命じて覚如の生前の行状を絵巻物にした「慕帰絵詞」に、貞和四年(一三四八)四月一四日のこととして、覚如が雲原くもはら(現福知山市)を通って当地に来た旨を「かの国府に下着しける」と記している。これが固有名詞か否かは別として、当地を国府とよんだ初見である。府中という呼称は、「多聞院日記」永正四年(一五〇七)五月二八日条の、丹後一色氏と若狭武田氏の合戦のなかに「武田殿・沢蔵たくぞう以下者、尚以丹後府中城(ママ)取定了」と記す。そののち中世末の丹後国御檀家帳に「府中」また「府中地下」と出ている。

府中
ふちゆう

中世から史料にみえる地名で、現三芳村府中に比定される。茨城県常澄つねずみ六地蔵ろくじぞう寺蔵聖教のうち瑜祇経数息観の寛正六年(一四六五)奥書に「於安房国府中宝珠院伝之末弟宥舜之」、同じく伝受口決抄の文明五年(一四七三)奥書に「房州府中於宝珠院権大僧都法印御本下給写之畢」などとみえる。宝珠ほうじゆ院は府中にある金剛山神護寺と号する真言宗寺院で、その建立地には安房国府の国衙機構が置かれたと推定されているが、近年の発掘調査では関連の遺構は確認されていない。府中の地名は一般に中世の国府所在地を示すとされ、律令制下の国府も当地に所在したとはいえない。観応三年(一三五二)三月二日の足利尊氏袖判下文写(遠山文書)に安房国古国府なか村とみえ、古国府が律令制下の安房国府の所在地をさすのか、中村が現三芳村中に比定しうるか、検討を要するものの、国府の移転があったことがうかがえる。

府中
ふちゆう

大宰府郭内の呼称。「宇佐大鏡」に筑前国内にある八幡宇佐宮領として、「府中宇佐町」と「御笠東郷府中余部村」がみえ、筑前国の府中は御笠東みかさとう郷内に所在し、府中内に宇佐うさ町と余部あまるべ村が存在したことがわかる。応安六年(一三七三)九月二一日の今川了俊奉書(太宰府天満宮文書/南北朝遺文(九州編)五)に「府中退出之段」とあり、何らかの理由でこれ以前に府中から追放されていた天満宮安楽寺修理少別当大鳥居信哲が、無実を訴え出たことが認められて大宰府の屋敷を還補されている。文安六年(一四四九)九月一八日の大鳥居信尭・信顕連署注進状(同文書/大宰府・太宰府天満宮史料一三)では、大鳥居氏の所領などが書上げられたなかに「一、府中坊地同屋敷以下事」とあり、年月日未詳後欠の某起請文(同文書/大宰府・太宰府天満宮史料一五)では大鳥居氏とみられる坊の領として「居屋敷并府中四拾半ケ所」などと記される。

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百科事典マイペディア 「府中」の意味・わかりやすい解説

府中【ふちゅう】

古代の越前国の国衙(こくが)所在地で,中世以降府中と称し,近世には福井藩の家老本多氏の城下町となり,北陸街道の宿駅でもあった。現在の福井県越前市武生(たけふ)に属する。越前国府は武生が属した丹生(にう)郡にあり,〈催馬楽(さいばら)〉に〈武生の国府〉とみえる。室町時代の越前国の守護所は武生に置かれ,府中とよばれるようになった。《経覚私要鈔(きょうがくしようしょう)》に府中の地名がみえ,朝倉氏時代には府中守護所や,朝倉氏の2人の家臣が務めた府中両奉行人が置かれた。竜泉寺をはじめ多数の寺院があり,商業活動も活発であった。1573年朝倉義景の滅亡後,織田信長に帰順した富田長繁が府中に居館したが,1575年信長は本願寺の領国化した越前に出兵,府中に攻め込んだ。信長の越前平定後,前田利家・不破光治・佐々成政の府中三人衆が置かれた。織豊期に私称された郡名である府中郡は,府中を中心に南仲条(みなみなかじょう)郡・丹生北(にうきた)郡・今南東(いまなんとう)郡にわたる地域の総称で,府中三人衆の支配地域を指すものとも考えられる。1601年結城秀康が福井藩主として入部,家老の本多富正(4万5000石を知行)が府中城に配され,以後同氏の城下町として発展した。中央をほぼ南北に北陸街道が通り,これに沿って主要町屋が続き,西側に寺院とその門前町,東側に侍屋敷が置かれた。町は府中本町など府中十八町と隣接する府中町外(まちがい)とに分かれ,反別は府中十八町21町6反余,除地(じょち)となった社寺地43ヵ所18町2反余,府中城地2町8反余を含めた侍屋敷地22町6段余。戸数は本多氏入封当初は500戸足らずといわれたが,1625年には18町884軒,18世紀中頃には34町2004軒を数えた。宿駅としては油在家(あぶらざいけ)町に問屋が置かれ,伝馬25匹,人足25人,宿駕30人分を常備した。代表的産業として打刃物業があり,1797年には鍛冶職72軒,鞴(たたら)株139具。生産された鎌は越前鎌として知られた。1869年武生に改称された。
→関連項目府中

府中【ふちゅう】

中世におこった名称で,国衙(こくが)を中心に都市化した国府の所在地の呼称。のちに城下町となり繁栄した駿河(するが)府中すなわち駿府(すんぷ)(静岡市),甲斐(かい)府中(甲府市)が特に有名で,他に武蔵(むさし)府中(東京都府中市),備後(びんご)府中(広島県府中市),安芸(あき)府中(広島県府中町),越前府中(福井県越前市武生)などに地名として残る。→国衙・国府

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改訂新版 世界大百科事典 「府中」の意味・わかりやすい解説

府中[市] (ふちゅう)

東京都中部の市。1954年市制。人口25万5506(2010)。市街地は多摩川北岸の沖積地と立川段丘上に発達する。大化改新後,武蔵国21郡を支配する国府が置かれ,政治・経済・文化の中心として栄えた。江戸時代には甲州道中の宿場町として発展し,明治に入り郡役所が置かれるなど,北多摩地方の中心地であったが,1889年新宿と立川を結ぶ甲武鉄道(現,JR中央本線)が市域の外を通ったため一時さびれた。しかし,1916年に京王電気軌道(現,京王電鉄京王線)が新宿との間に開通,その後立川と川崎を結ぶ南武鉄道(現,JR南武線)も通じて,交通条件は改善された。また23年に多摩霊園,33年中央競馬会の東京競馬場,35年府中刑務所が開設されるなど,東京の近郊都市化が進められた。第2次大戦中には陸軍燃料厰や電気,製鋼などの軍需工場が設けられて工業化の基盤が形成された。戦後これらはアメリカ軍施設や民需用に転換,さらに60年代以降,食品,電気など多くの工場が進出した。都心への通勤者が増大するとともに住宅地化も進み,60年代に年平均1万人の人口増加がみられた。東部を西武鉄道多摩川線が通り,中央自動車道に稲城と国立府中の2つのインターチェンジがある。市内には武蔵国総社として由緒ある大国魂(おおくにたま)神社,中世の分倍河原(ぶばいがわら)古戦場や馬場大門のケヤキ並木など史跡が多く,東京農工大学,東京外国語大学,多摩川競艇場などもある。
執筆者:

地名は武蔵国の国府の所在地であったことに由来し,総社六所宮(現,大国魂神社),国司藤原秀郷の居館と伝える高安寺などもあって,古代以来武蔵の政治・軍事上の要地であった。中世には鎌倉街道が通じていた。近世には内藤新宿,八王子横山宿に次ぐ甲州道中の大きな宿駅で,本町,番場宿,新宿の3町に分かれ,1ヵ月の伝馬役を分担していた。徳川氏は六所宮を尊崇して隣接する八幡宿の地500石を朱印地として与え,また初期には馬市もにぎわった。1617年(元和3)以来,府中の上田8反歩で将軍召上り料のマクワウリが栽培され,肥料や人足が周辺の府中領農村に課せられた。武蔵野新田の開発に当たっては1740年(元文5)篤農の川崎平右衛門が登用されて新田世話役となり,農民の尊敬を集めた。近代に入ると自由党,改進党の集会が盛んに開かれ,《武蔵野叢誌》が出版されるなど自由民権運動の中心地となり,1920年には府中多磨小作人組合が結成されて三多摩農民運動の指導的役割を果たした。
執筆者:

府中[市] (ふちゅう)

広島県南東部にある市。2004年4月旧府中市が北に接する上下(じようげ)町を編入して成立した。人口4万2563(2010)。

府中市北部の旧町。旧甲奴(こうぬ)郡所属。人口6426(2000)。吉備高原の中央に位置し,日本海に注ぐ江の川支流の上下川と,瀬戸内海へ注ぐ芦田川支流の矢多田川の分水線をなす。中心集落の上下は上下川左岸にあり,山陽と山陰を結ぶ石州路の宿駅として発達し,近世は付近の天領を統轄する代官所が置かれた。農業の中心は米作で,コンニャク,タバコの栽培も行われる。南部に国民保養温泉の矢野温泉,天然記念物の久井・矢野の岩海があり,安福寺には南朝年号をもつ宝篋印塔(ほうきよういんとう)などがある。福山市と三次市を結ぶJR福塩線,国道432号線が通じる。
執筆者:

府中市南部の旧市。1954年市制。人口4万3689(1995)。市域は世羅台地の東縁から福山平野にまたがる。芦田川が北西から南東に貫流し,その谷口に中心市街地がある。古代に備後国府が置かれたところで,白鳳期の伝吉田寺跡(町廃寺),栗柄(くりがら)廃寺,芦田軍団の建物跡と推定される父石(ちいし)遺跡など,国府と関連する古跡がある。中世には八尾山(やつおさん)城に拠る杉原氏が支配。江戸時代には福山藩が綿作を奨励し,備後絣が名産となっている。府中市(ふちゆうのいち)(現,府中市府中町)は石州路の宿駅で,口留番所では木綿などの他領への持出しを取り締まった。楽群舎などいくつもの私塾が設けられ,藩内でも教育の盛んな地であった。備後絣のほか府中家具,府中みそなどの特産地として知られ,さらに工作機械,ダイカスト製品,印刷機械などの工業が集積し,全国的にもユニークな地場産業都市の一典型をなす。福山市とはJR福塩線で結ばれており,同市に日本鋼管の製鉄所が開設されて以来,その影響を受けて脱農化が進み,第2次産業従事者が多い。市街地北西にある甘南備(かんなび)神社は式内社で,祈雨に効験あることから地元民の信仰が厚い。
執筆者:

府中 (ふちゅう)

越前国(福井県)の城下町。北陸街道の宿駅でもあり伝馬25匹。古代国府の所在地で催馬楽(さいばら)に〈武生(たけふ)の国府〉と見え,中世以来府中といい,1869年(明治2)古謡にちなんで武生と改称。1575年(天正3)府中三人衆の一人前田利家が居城。1601年(慶長6)結城秀康が3万6000石で付家老本多富正を配して以来,本多氏の城下町として発展した。南端の亀屋町から北府(きたご)町へ北陸街道が北上し,街道に沿って町屋を置き,東方に侍屋敷が広がり,その中央に御茶屋と呼ばれた本多氏の居館があり,西方には寺を配した。中央の大黒町では4と8の日に市が立った。町奉行,町手代,町代で町を支配し,役所を掛屋役所といった。酒,さらし布,鳥の子のほか,打刃物(越前鎌)が代表的産業で,1797年(寛政9)鍛冶77軒,鞴(ふいご)株139具,1862年(文久2)には201具に増え,1859年(安政6)には年産80万7000丁,売上げ2万両に及んだ。町数,戸口は,慶長ころ500戸,1625年(寛永2)18町,884軒,19世紀初め48町,2849軒,7696人。
執筆者:

府中 (ふちゅう)

対馬国下県(しもあがた)郡与良(よら)郷に属した地名(現,長崎県対馬市の旧厳原(いづはら)町)。地名は677年(天武6)対馬国府が置かれたことに由来し,国府,府内とも記される。律令制下では国衙,国分寺が置かれ,対馬の政治,経済の中心であったが,平安時代から室町時代にかけては権力者が必ずしも本拠を置かず衰えた。宗氏も1408-86年(応永15-文明18)は本拠を上県(かみあがた)郡三根(みね)郷(現,対馬市の旧峰町)佐賀(さか)に置き,15世紀後半の戸数は申叔舟の《海東諸国紀》によれば府中100戸,佐賀500戸である。宗氏が府中を本拠としてからは戦国大名の城下町として発展,文禄・慶長の役には清水山城が築かれた。近世には対馬藩の藩庁所在地で,1659年(万治2)の大火後,新規に町割りがされ,家臣団の城下町集住の強制に伴い武家屋敷も整備され,近世城下町の形態を整えた。近世対馬の政治,経済,文化の中心として,また朝鮮通信使など外交の舞台として機能し,その遺跡,遺物も多い。1869年(明治2)厳原と改称。
執筆者:

府中[町] (ふちゅう)

広島県南西部,安芸郡の町。人口5万0442(2010)。古代に安芸国府が置かれた地で,町名はそれに由来する。市街地は広島市と連続しており,東部の呉娑々宇(ごさそう)山南西麓が住宅地として開発されたため広島市への通勤者が激増し,人口が増加している。マツダや麒麟麦酒の工場があり,自動車,食品の関連企業が多い。806年(大同1)弘法大師の開基と伝える道隆寺や式内社多家神社などがある。JR山陽本線,国道2号線が通じる。
執筆者:

府中 (ふちゅう)

政治を行う表向きの所を意味し,律令制下における国府の所在地をいう。歴史的には,君主の宮廷事務を行う宮中に対し,国政事務を行う所として問題とされる。
宮中
執筆者:

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旺文社日本史事典 三訂版 「府中」の解説

府中
ふちゅう

律令時代の国府の所在地
中世以後も土豪・豪族が居住して地方の中心地となり,近世の城下町などに発展した所が多い。東京・千葉・岐阜・三重・京都・徳島などに地名が残っている。なかでも武田氏の甲府(甲斐国・山梨県),大友氏の府内(豊後国・大分県),今川氏の駿府(駿河国・静岡県)は有名。

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事典・日本の観光資源 「府中」の解説

府中

(静岡県静岡市葵区)
東海道五十三次」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

普及版 字通 「府中」の読み・字形・画数・意味

【府中】ふちゆう

役所。

字通「府」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の府中の言及

【宮中】より

…語句の意は宮城内のことで,宮廷とか〈畏(かしこ)き辺(あた)り〉とかと同じ意味に使われる。しかし,歴史的には府中(国家の政治)に対する語として問題とされる。すなわち,近代的な立憲君主制の原則としては,宮中(君主の宮廷事務)と府中(国政)とは分離し,国政についての責任機関が確立していなければならない。…

※「府中」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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