井口村(読み)いのくちむら

日本歴史地名大系 「井口村」の解説

井口村
いのくちむら

面積:一一・五〇平方キロ

県西部の礪波平野の南東に連なる赤祖父あかそぶ山の山麓に立地。北は福野ふくの町、北東は井波いなみ町、北西は小矢部おやべ川の支流山田やまだ川を挟んで福光ふくみつ町、南西は城端じようはな町と接する。村の中央部を流れる赤祖父川上流に、昭和七年(一九三二)に起工し、同二〇年に完成した貯水量七六万立方メートルの赤祖父溜池と、庄川から引水する南礪なんと用水で水利が安定した水田地帯が広がり、井口・蛇喰じやばみ川上中かわかみなかなどの九集落が散在する。縄文時代の遺跡は赤祖父川左岸に西小丸山にしこまるやま遺跡や北野上林きたのかんばやし遺跡、山田川に面した段丘上に井口遺跡などがある。

井口村
いのくちむら

[現在地名]西区井口町・井口一―四丁目・鈴が峰すずがみね町・井口鈴が台いのくちすずがだい一―三丁目

鈴ヶ峰(三二〇・六メートル)の南麓に位置し、南は瀬戸内海を望む。沿岸部を山陽道が通り、村の東端は古江ふるえ村から続く町屋が展開する。天正一九年(一五九一)一一月二八日付の厳島社祭田入目并灯明領祈念領高辻覚(厳島野坂文書)の裏書に「一、三月十四日御祭」として「あせば井口両村ヨリ調之」とみえ、この「あせば」は井口村の西に位置する。

元和五年(一六一九)の安芸国知行帳には「いのくちあせは村」として高二八一石余が記されるが、正徳二年(一七一二)の「所務役人頭庄屋郡邑受方記」には「井口村」と記され、この頃までには阿瀬波あせば村も井口村に含まれ一村となったらしい。

井口村
いのくちむら

[現在地名]井口村井口

村の南西を流れるさかい川で北野きたの(現城端町)と接し、北西は北流する山田やまだ川を挟んで利波河とのご(現福光町)、南東は井口中村、東は蛇喰じやばみ村、北は宮後みやのうしろ村。地名は南北朝期から史料にみえ、池尻いけのしりの井口城に井口氏が拠り、礪波地方南部の一中心であった。元和五年(一六一九)の家高新帳では「しやはミ与」に属し、「九間 井口」とある。正保郷帳まち村とあり、高六三七石余、田方四一町八反余・畑方六反。寛政一二年(一八〇〇)の礪波郡村々之内文字并村名唱替申分相調書上申帳(川合家文書)には「井口村 但し先年は町村と相唱へ候へども承応の頃、井口村と御改めに御座候」とある。

井口村
いのくちむら

[現在地名]大野市くち

真名まな川の右岸、美濃街道に沿う農村。東は田野たの村、西は真名川を渡って菖蒲池しようぶいけ村。天仁元年(一一〇八)に林閑以下八人が田畠開発のため水を引き、この水道にちなみ「井口邑」と称したと伝える(「井口村開闢由緒書」福田家文書)。長承二年(一一三三)六月一四日付の官宣旨案(醍醐雑事記)に「井口」とみえ、当時藤原成通家領いずみ郷に含まれていたと推定される。天文八年(一五三九)一〇月一八日の平泉寺賢聖院々領所々目録(平泉寺文書)に「井口村分」がある。

井口村
いのくちむら

[現在地名]中井町井ノ口

北部より流出するくず川が村央を南流し、東は大住おおすみ土屋つちや(現平塚市)、西は藤沢ふじさわ村・さかい村、南は五分一ごぶいち村、北は大住郡大竹おおだけ村・今泉いまいずみ(現秦野市)と接し、大山道が西より北に抜ける。

天正一九年(一五九一)検地帳(県史四)に「西郡上中村之内井ノ口」と記され、正保国絵図には「井之口」と載る。近世は初め小田原藩領と旗本米倉領の二給。宝永五年(一七〇八)以降は小田原藩領と幕府直轄領および旗本石野領の三給。

井口村
いのくちむら

[現在地名]鶴来町井口町・明光めいこう四丁目

手取川扇状地の扇頂部中央に位置し、西は日向ひゆうが村。北西流するごう用水は村内でひがし川・西にし川に分流。中世には上林かんばやし郷の郷域と考えられる。「白山之記」に「井口」とみえ、白山九所小神の一つ弓原ゆみのはら糟神の所在地とされる。なお、大永神書(白山比神社文書)は糟神を「勝軍地蔵」と記す。延文二年(一三五七)三月二八日の妙成質券(同文書)によれば、阿仏坊の質物となった上林郷内秋永名の三町二段二〇代の田地のうち六段は弓原に所在した。

井口村
いくちむら

[現在地名]上県町佐護北里さごきたさと 井口

恵古えこ村の北にある。佐護七ヵ村のうち。佐護川は恵古村を過ぎた辺りで山が迫り峡谷となるが、当地で再び開け、下佐護三ヵ村を潤す。佐護院があった地を中心に見ると井口は北北西、つまり亥の方角に当たり、地名は本来亥ノ口で、南のたつくち(辰ノ口)と対称になっている。猪口と記す文書があるという(津島紀事)。集落より北東に坂を越えた海岸部を井口浜というが、その東側山麓に弥生時代後期の広形銅矛が出た遺跡があり、西側山麓に須恵器の散布する地がある。

井口村
いぐちむら

[現在地名]高知市井口町・平和へいわ町・山手やまて町・北端きたばた町・中須賀なかすか町・赤石あかいし町・あさひ

高知城下かみ町の西側に続く村で、小高坂こだかさ村の南西にあたる。村の南部を高知城下と西方諸地方を結ぶ土佐街道(西街道)が通る。土佐郡に属し、「土佐州郡志」は「東西十町余南北十五町許、其土黒、士民二百二十有余」と記す。

天正一五年(一五八七)の井口村石立村地検帳によると井口村はほとんどが「井口分」で、国沢番衆給としての横山孫兵衛給・浜田新兵衛給、また長宗我部氏家臣森沢喜介給などがみえる。小字名にナカスカ・赤石・古川などがあり、また朝倉市の記載もある。元禄地払帳によると総地高四五二石余、うち本田高三七六石余・新田高七六石余。本田のうち蔵入地一七二石余、残りは岡田又兵衛ほか五名の知行、武馬孫左衛門ほか三名の拝領地など。

井口村
いのぐちむら

[現在地名]姫路市井ノ口

飾西しきさい郡に所属。町坪ちようのつぼ村の北に位置し、東は岡田おかだ村。天正三年(一五七五)の近村めぐり一歩記(智恵袋)に「井の口村八十家許り」とある。江戸時代前期には町坪村に含まれ、分村の経緯は岡田村と同じ。姫路藩領。元禄郷帳では高二八二石余。天保郷帳では高二九二石余。溜池として孫定まごさだ池がある。文政一〇年(一八二七)固寧倉の設置願が提出されている(蒲田組大庄屋文書)船場せんば別院本徳ほんとく寺廟所がある。伝えによれば、元和四年(一六一八)船場本徳寺が創建され、のち本堂の再建により廟所と墓地が狭くなり、宝永七年(一七一〇)姫路藩主榊原政邦の寄進を得て当村の字すくいおかに廟所が移されたという。

井口村
いのくちむら

[現在地名]小松市井口町

北は津波倉つばくら村、西は江沼えぬまはやし村・戸津とづ村、粟津あわづ村に接し、山地と平地の境界に位置し、村内を日用ひよう川・山田やまだ川が流れる。正保郷帳では高三〇二石余、田方一三町二反余・畑方四町五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高二七八石、免四ツ七分、小物成は山役二〇二匁(三箇国高物成帳)。寛政四年(一七九二)には家数二三(うち本百姓二〇・頭振三)、人数男五六・女三九、高は二七八石から寛文八年三三石、正徳二年(一七一二)四七石を免ぜられ一九八石となる(小松市史)

井口村
いのくちむら

[現在地名]吉備町井口

大谷おおたに村の東方有田川北岸に位置し、北は山が迫る。「続風土記」に「此村大谷・田口等に灌く堰の口あるを以て名とす」とみえる。慶長検地高目録によれば村高九八石余、小物成八升六合。安永二年(一七七三)の大指出帳(前田家文書)によれば家数四八、うち庄屋一・肝煎一・行司一・寺一・本役二〇・半役一一・無役五。人数二〇七、牛九、川舟三艘、鉄砲一挺を有した。「耕作壱通ニ作間之稼無御座候」「蜜柑所ニ御座候」と記される。また寛政元年(一七八九)の御毛見町積差出帳(同文書)によれば、高九八石余のうち入作高が一五石余あり、桑三二束、茶一斤二〇〇目を産した。家数は四九、うち庄屋一・肝煎一・本役二八・半役一一・寺一・行力一・無役六。

井口村
いぐちむら

[現在地名]島田市井口・船木ふなき

大柳おおやなぎ新田の南西、大井川右岸低地に立地し、西境を湯日ゆい川が流れる。文禄二年検地高目録に井口村とみえ高八九三石余、掛川城主山内一豊領。正保郷帳では田方七〇二石余・畑方八石余、幕府領。元禄郷帳では高七一五石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。宝永録開発記(永田家文書)によれば、当村は承応年中(一六五二―五五)大井川の洪水により全村川成となり、百姓らは方々へ立退いた。永田喜太夫の先祖は道悦島どうえつじまへ移住していたが、宝永五年(一七〇八)に願出て旧村に移って小屋掛けし開発に着手した。

口村
いびのくちむら

[現在地名]芦北町花岡はなおか

佐敷さしき川左岸の佐敷村から上流へ山下やました村・井樋口村と続き、その上流に見附みつけ村、対岸に宮浦みやのうら村と兼丸かねまる村がある。村の川岸に大きな井樋(堰)の口があり、村名の起りとされる。佐敷手永に属し、正徳(一七一一―一六)頃と推定される表題破損の文書(伊藤家蔵)に村名がみえ、高二五石九斗余とある。

井口村
いぐちむら

[現在地名]英田町井口

福本ふくもと村の東、吉野よしの川左岸に立地する。北の尾谷おたに村に近く枝郷の椿谷つばきだにがあり、対岸は青野あおの村。文明一四年(一四八二)八月一〇日の広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)社家林家長の檀那村書(肥塚家文書)に「いくち」とみえる。正保郷帳に村名がみえ、田一三石・畑三七石とある。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高三〇石余・開高四一石余、村位は下。津山藩森氏断絶後の領主の変遷は福本村と同様。

井口村
いのくちむら

[現在地名]津山市井口

吉井川を隔てて津山城下町の南に隣接し、東は大谷おおたに村、南は神南備かんなび(三五六・二メートル)が屹立する。元禄一一年(一六九八)以後も津山藩領。正保郷帳では田方四四石余・畑方二七石余、元禄一〇年の美作国郡村高辻帳では一〇一石余、うち改出高二二石余・開高六石余。寛政元年(一七八九)の津山領郡村高帳では本田畑九四石余・新田畑六石余・新開田畑二石余。「作陽誌」では一六戸・九九人、天保九年(一八三八)の津山藩領郡村記録では二三戸・七四人。神南備山は神辺・神並とも書き、山頂は平坦で東西三八間・南北一〇間、「古人の屯聚せし所」と「作陽誌」にあり、一説には上古祭壇を設けて神祇を祀った所ともいわれている。

井口村
いぐちむら

[現在地名]松阪市

櫛田くしだ川の右岸にあり、南は高木たかき村、北は六根ろつこん村に続き、東は中河原なかがわら村に接する。「飯野郡井口中村誌」(松阪市役所機殿出張所蔵)によれば、古くは麻続機殿の領地であったが、南北朝期に仁木義長に押領され、応仁の乱後、神地没却の後、北畠氏の所領になったとされる。天正一二年(一五八四)から蒲生氏の支配に入り、同一八年から鳥羽九鬼氏の支配となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報