源流が県内にある河川のうちで最大の一級河川。主流の延長距離一八五キロ。県の最北端の
大井川のルーツは約一〇〇万年前までたどることができる。
「日本書紀」仁徳六二年五月条に「大きなる樹有りて、大井河より流れて、河曲に停れり」とみえ、仁徳天皇が大井河の河曲に大木が掛かったという遠江国司の報告を聞き、倭直吾子籠を遣わして船を造らせ、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
静岡・山梨県境の赤石山脈北東部,間(あい)ノ岳(3189m)の南斜面に源を発し,静岡市葵区井川の下流からは駿河・遠江の国境をなしつつ南流し,大井川平野の南西端で駿河湾に注ぐ川。静岡県内に終始する河川としては最も規模が大きく,特に幹川流路延長160kmは日本の河川の中でも上位だが,反面,全流域面積1280km2は長さに比べて著しく狭く,日本でも屈指の急流である。おもな支流には上流から寸又(すまた)川,笹間川,伊久美川,大代川などがあるが,大きな支流は少ない。この川の源・上流は,3000m級の高峰からなる赤石・白根の両連峰間にあって,東俣,西俣,赤石沢などからの水を集めつつ深い谷をうがって南流する。そこから下流には昭和30年代にあいついで完成した畑薙(はたなぎ)第一,同第二,井川などのダム群が連続する。これら巨大ダム群の人工美は,井川ダムの直下に続く接阻(せつそ)峡,寸又川の寸又峡の壮絶な峡谷美などとともに奥大井県立自然公園に,また雄大な山岳美を誇る赤石山脈の稜線部は南アルプス国立公園にそれぞれ指定されている。井川湖畔の井川は,接阻峡の存在によって,かつては下流との交通を遮断された陸の孤島であったが,これらの電源開発によって千頭(せんず)との間にダム工事用の軌道(現,大井川鉄道井川線)が1954年に通じ,また静岡市側からも井川林道が開通して,一躍奥大井観光と南アルプス登山の拠点となった。千頭の北で最大の支流寸又川を合わせた大井川は,川根地方を南流するが,その間河道沿いには数段におよぶ河岸段丘を発達させ,それらの面上には小集落と名産の川根茶の茶畑が広がっている。またこの川には先の接阻峡,寸又峡をはじめとして,本流の田代~徳山間,塩郷~笹間渡(ささまど)間(鵜山七曲(うやまななまがり))などに著しい穿入(せんにゆう)曲流区間があって,景勝の地として知られる。島田~金谷間のやや北で山地を離れた大井川は,南と西を牧ノ原台地に限られて,扇状地性の大井川平野を東方に向けて発達させている。この牧ノ原台地は,旧大井川のはんらん原がその後に隆起してできた洪積台地で,面上には明治以降に開かれた大茶園が広がっている。大井川流域では年間3000mm前後という多量の降水と地形の急こう配を利用して電源開発が進んでおり,中部電力の大井川水系9発電所など水系全体では最大出力で約60万kWの発電を行っている。またこの川の水は,国・県営事業として施行された大井川用水にも利用され,左右両岸の志太(しだ)・榛原(はいばら)・中遠地区の水田地帯に送られており,さらに河口近くの吉田町川尻一帯では豊富な地下水が養鰻に利用されている。
執筆者:松本 繁樹
〈箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川〉と俗謡にうたわれているが,駿河・遠江の境を流れる大井川は東海道の難所とされた。江戸時代には架橋されず,渡河は川越(かわごし)人足によって輦台(れんだい)や肩車で渡河せねばならなかった。草創期は川の浅瀬を自分で越したが,江戸初期に島田宿代官の監督下に置かれ,川越人足により渡し場から渡河することになった。川越人足は,島田宿で1745年(延享2)に326人,金谷宿で1843年(天保14)350人常置されている。水深2尺5寸以上になると川留(かわどめ)となり,旅行者は島田・金谷両宿に逗留し川明けを待った。そのため両宿は繁忙を極めたが,旅行者は一ヵ所に何日も逗留するので難儀であった。明治維新後,渡し船となったが,1882年架橋され渡し場は廃止された。
執筆者:宇佐美 ミサ子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...
4/12 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
4/12 デジタル大辞泉を更新
4/12 デジタル大辞泉プラスを更新
3/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
2/13 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新