平山城跡(読み)ひらやまじようあと

日本歴史地名大系 「平山城跡」の解説

平山城跡
ひらやまじようあと

[現在地名]姶良町鍋倉

別府べつぷ川下流左岸、標高一二五メートルを最高地点とするシラス山地を主とする山城。平安へいあん城・帖佐本ちようさほん城・うち城・高尾たかお城ともいう。弘安五年(一二八二)山城石清水いわしみず八幡宮別当寺善法ぜんぽう寺検校の了清が正八幡宮(現鹿児島神宮)領と帖佐郷平山村領家職を相伝、帖佐に来て石清水八幡を分祀した新正八幡宮(現鍋倉八幡神社)を建立し、その西寄りに当城を築いたという(天保元年「帖佐来歴」姶良町歴史民俗資料館蔵、「三国名勝図会」)。その後、当城を本拠とした了清の子孫は平山氏を称した。なお平山の地名については、建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)帖佐西ちようささい郷の万得まんとく名のうちに「平山卅一丁八段半」とあり、これに元寇時の筑前博多湾岸の石築地三丈一尺八寸五分が課されており、当時の領主は正八幡宮の留守刑部左衛門尉真用であった。弘安年間頃の守公神侍畳図写(同家譜)によると、平山が小畳六帖を負担していた。建武三年(一三三六)一二月日の権少僧都乗清言上状写(石清水文書)によると、石清水八幡宮所司の乗清が正八幡宮領の「大隅国平山村」領家職安堵の院宣を与えられるよう申請しているが、そのなかで平山村は善法寺領となり、祐清から栄清―政清―了清―乗清へと伝領されたと述べられている。

南北朝期、平山氏は正八幡宮の留守氏らと争い(暦応二年一一月日「正八幡宮講衆・殿上等訴状写」隼人桑幡文書など)、守護島津方となった(康安二年一〇月八日「沙弥観宗奉書」旧記雑録)。応永四年(一三九七)島津氏久方となり入来いりき院攻めに応じ(「応永記」「島津伊久譜」同書)、同一八年には伊集院頼久方となり島津久豊に反した(山田聖栄自記)

平山城跡
ひらやまじようあと

[現在地名]川辺町平山

万之瀬まのせ川右岸に沿う標高九〇メートルを最高地点とするシラス台地先端を主とする山城。川辺城・河辺かわのべ城・うち城ともいう。「三国名勝図会」は一二世紀に薩摩平氏系の河辺道房の築城と伝えるが、川辺名勝志(川辺町立図書館蔵)は総州家島津師久の子伊久(貞和三年生れ)の居城として築かれたとする。明徳四年(一三九三)総州家島津守久は父伊久を「川辺城」に攻めたが、奥州家島津元久の命で守久は兵を引いた。しかし伊集院頼久がぼう津・とまり(現坊津町)を占領したため、伊久は当城を守れずに平佐ひらさ(現川内市)へ逃げた。その後、伊久の孫の久世が応永一八年(一四一一)に当城に入った(以上「島津元久譜」旧記雑録)

平山城跡
ひらやまじようあと

[現在地名]山鹿市平山 陳内

平山川と岩村いわむら川に挟まれた標高一二九・四メートルの山稜に位置し、頂上部に遺構が残る。「古城考」によると城主は菊池氏庶流の蛇塚九郎定氏の三男平山秀世といい、「事蹟通考」所載の菊池系図の秀世の項には「居山鹿平山城」とあり、孫の武秀は応永三年(一三九六)の筑後溝口みぞぐち(現筑後市)の合戦で討死とある。「国誌」には本丸は長さ一六間半・横七間で二重堀があり、二ノ丸は縦一三間半・横五間、三ノ丸は縦三間・横二間、ほかに一曲輪・二曲輪があり、大手口と西福寺口・正蓮寺口の三口があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報