茶臼山古墳(読み)ちゃうすやまこふん

改訂新版 世界大百科事典 「茶臼山古墳」の意味・わかりやすい解説

茶臼山古墳 (ちゃうすやまこふん)

茶臼山と呼ぶ古墳は各地にある。段築にした円丘の形を茶臼に見たてた命名であろうが,円墳にかぎらず,前方後円墳にも多くの例を見る。赤堀茶臼山古墳(群馬県),池田茶臼山古墳(大阪府),桜井茶臼山古墳(奈良県),柳井(やない)茶臼山古墳(山口県)は特に有名である。

群馬県伊勢崎市の旧赤堀町今井にある5世紀前葉の前方後円墳。丘陵の頂部を利用し,西面して前方部の短い帆立貝形に築く。全長59m,後円部径39m,前方部幅32mあって,葺石(ふきいし)および円筒埴輪列をめぐらす。1929年後藤守一(しゆいち)が調査して,後円部頂上から多数の家形埴輪および器財埴輪を発掘した。埋葬施設は墳丘の主軸に平行して2個の木棺を埋めたものらしく,木炭をしいてあったという。第1号棺から仿製(ぼうせい)六神鏡,三角板革綴(かわとじ)短甲,刀剣,矛,鏃,斧および滑石製の勾玉,刀子,小玉が,第2号棺から仿製内行花文鏡,刀が出土した。形象埴輪の研究に進展をもたらした古墳である。

大阪府池田市上池田町にある4世紀後葉の前方後円墳。五月山丘陵の頂部を利用して南東面する墳形を作り,全長62m,後円部径33m,前方部幅18mあって,葺石および円筒埴輪列をめぐらす。1916年ごろ後円部に石室が露出して,郷土史家の関心をよんだ。58年堅田直(かただただし)の調査によって,残存する副葬品の一部が判明した。後円部の竪穴式石室は,墳丘の主軸と直交して位置し,石英粗面岩の割石積みで,内法の長さ6.35m,幅1.1m,高さ1.2mあり,長さ7.8m,幅3.5mの広い墓坑の中に築いたものである。石室の内外に残存した副葬品は,石釧(いしくしろ),管玉,小玉,土師器など少量である。なお墳丘の所々に埴輪円筒棺による埋葬があった。

奈良県桜井市外山(とび)にある4世紀中葉の前方後円墳。鳥見山(とみやま)の尾根の末端を利用して,南面する三段築成の墳形を作る。全長約210m,後円部径110m,前方部幅60mあって,葺石を残す。1949年末永雅雄が後円部の竪穴式石室内に残存する遺物を調査した。石室は割石積みで墳丘の主軸に平行し,内法の長さ6.8m,幅1.1m,高さ1.6mある。副葬品の種類は,鏡,勾玉,管玉,小玉,琴柱形(ことじがた)石製品,鍬形石,車輪石,石釧,玉杖,刀剣,銅鏃,鉄鏃,刀子,鉇(やりがんな)など豊富であるが,盗掘をうけて破損したものが多い。鏡片のうちには三角縁神獣鏡の同笵鏡5面の小片がある。なお墳頂に壺形土器を並列して,石室を長方形に囲む区画を設けていたことは,円筒埴輪に先行するものとして注目を集めた。

山口県柳井市柳井町水口にある4世紀後葉の前方後円墳。向山丘陵の上部に南南西面して作り,全長約80m,後円部径約50m,前方部幅約40mあって,葺石および円筒埴輪列をめぐらす。1892年ごろ後円部にある割石積みの竪穴式石室を発掘し,鏡,剣,矛,鏃などを検出した。鏡は5面あって,画文帯神獣鏡1面は中国製,他は仿製であるが,そのうちに径44.5cmの鼉竜鏡(だりゆうきよう)を含むことが,この古墳を有名にした。
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日本歴史地名大系 「茶臼山古墳」の解説

茶臼山古墳
ちやうすやまこふん

[現在地名]茨木市太田三丁目

安威あい川の東、西国街道の北側の台地状の地形を利用して築造された南向きの前方後円墳で、継体天皇の三島藍野みしまのあいの陵に治定される。「日本書紀」継体天皇二五年(五三一)二月七日条に「天皇、磐余玉穂宮に崩じぬ、時に年八十二」、同年一二月五日条に「藍野陵に葬る」とみえ、「延喜式」(諸陵寮)に三島藍野陵として「磐余玉穂宮御宇継体天皇、在摂津国島上郡、兆域東西三町、南北三町、守戸五烟」と記す。同天皇の没年について、一二月五日条の注によると同天皇二八年とする本もあり、「古事記」には丁未の年(同天皇二一年)に四三歳で没したとある。

茶臼山古墳
ちやうすやまこふん

[現在地名]大津市秋葉台

音羽おとわ山系から派生した小丘陵の先端部(湖岸から約一キロ、標高約一五五メートル)を利用して築かれた前方後円墳。全長一二二・五メートル、後円部直径約七〇メートル、前方部先端幅約四〇メートル、県下第二位の規模をもつ。前方部が後円部より五メートル前後低く、先端に向かってあまり開かないこと、丘陵先端部を利用して造られていることなどから、築造時期は四世紀末頃か五世紀初頭頃と推定され、大津市域では皇子山おうじやま一号墳、和邇大塚山わにおおつかやま古墳に続く首長墓とみられている。

茶臼山古墳
ちやうすやまこふん

[現在地名]壬生町羽生田 古敷

くろ川左岸の南に延びる比高四〇メートルほどの丘陵頂部の緩斜面上に立地する。国指定史跡。前方部を南南東に向ける前方後円墳で、基壇上に墳丘を築き、周湟の外側に土堤をめぐらしきわめて荘重である。基壇(長さ約八六メートル)に相似した墳丘は全長約六八メートル、後円部の径約三五・五メートル、高さ約五メートル、前方部の幅約三九メートル、高さ約五・五メートルで、後円部墳頂は平坦面が広い。墳丘裾の基壇外側の周湟は上面幅約二〇メートル、底面幅約六メートルで、土堤の上面幅約五メートル、裾幅は約一〇メートル。南北の全長は約一四五メートルに及ぶ。墳丘には葺石がふかれ、埴輪が後円部墳頂と墳丘を二重にめぐる。

茶臼山古墳
ちやうすやまこふん

[現在地名]高松市東山崎町・前田西町・新田町

古墳時代前期の前方後円墳。久米くめ山から東に延びた東茶臼山丘陵に所在し、全長七五メートル、後円部の直径三七メートル。主体部は二基の竪穴式石室で、一号石室は東西一〇・七メートル、南北六・二メートルの墓坑の中に構築されている。石室は長さ五・四メートル、最大幅一・一メートル、高さ一・三五メートル。鍬形石二点、画文帯重列神獣鏡一面、鉄剣・太刀・土師器・管玉・勾玉などが出土。二号石室は一号石室に平行しており、全長五・九メートル、最大幅〇・八メートル、深さ〇・七五メートルで、一号石室が安山岩を小口積みしているのに対して、花崗岩の人頭大のものを積んでいる。

茶臼山古墳
ちやうすやまこふん

[現在地名]柳井市大字柳井 向山

向山むかいやまとよぶ標高七五メートルの丘陵の頂上にある古墳時代前期末葉の前方後円墳。背後に琴石こといし山塊を負い、前方に柳井湾を望む。正面は南南西に面し、墳丘の全長は約七九・五メートル、前方部西南側に埴輪円筒列の一部が残り、所々に葺石も残存する。現在、後円部の平坦面に発掘後建てられた小祠がある。国指定史跡。

明治二五年(一八九二)発見、地元民の手で発掘された。当時の発掘は遺物の採取に関心が集まったため主体部の構造の記録がないが、伝承や諸種の条件から畿内系の竪穴式石室と考えられる。

茶臼山古墳
ちやうすやまこふん

[現在地名]八代市上片町 下野森

八代市街の北方、球磨川右岸の低地に築かれた八代地方最大の円墳。東片ひがしかた町から当地一帯には、八代大塚おおつか古墳、高取上の山たかとりかみのやま古墳の二前方後円墳をはじめ、約二〇基からなる古墳群があるが、破壊されたものも多い。当古墳は八代大塚古墳と高取上の山古墳のほぼ中間に位置し、古墳群中の大規模墳がほぼ一直線に並ぶ。墳丘は二段に築かれ、下段の基底面の直径は約五〇メートルを測る。上段はやや西に偏し、基底面での直径は約一八メートル。

茶臼山古墳
ちやうすやまこふん

[現在地名]池田市五月丘一丁目

五月山さつきやま丘陵の標高約九〇メートルの一支丘上に築造された全長約六二メートルの前方後円墳。府指定史跡。昭和三三年(一九五八)に発掘調査が行われ、葺石・埴輪列などの外表施設が確認されるとともに、竪穴式石室と二基の埴輪円筒棺が明らかにされた。竪穴式石室は後円部の中央に墳丘の主軸と直交して構築されており、内法全長六・三五メートル。その構造はまず墓壙底中央に精良な粘土で棺床を築き、周囲にバラスを敷き詰めた後、壁体を構築したもので、壁面および天井石下面には赤色顔料が塗布されていた。

茶臼山古墳
ちやうすやまこふん

[現在地名]松阪市清生町 茶臼山

標高約五メートルの舌状台地先端部に築造されたが、墳丘は消滅し、現在は松阪駅から南東へ七〇〇メートル離れた市街地のなかに痕跡をとどめている。明治期の地籍図(松阪市役所蔵)によると、円形の地割が認められ、古墳の外形および兆域を示している。径五五メートルの円墳と推定される。明治時代陸地測量部作成の地形図には墳頂部辺りに標高一一・一メートルを示す三角点があり、現地盤高より約六メートル高く、その数値がかつての墳丘高であったと思われる。

茶臼山古墳
ちやうすやまこふん

[現在地名]富岡市南後箇

南後箇みなみごか北部の独立した東西に連なる丘陵の一つ、北山の山頂部にある円墳。北側平地からの比高は約九〇メートル。明治二七年(一八九四)に発掘され、石釧・勾玉・神人竜虎画像鏡・管玉・鏃・土器などが出土した。昭和三五年(一九六〇)に実地調査された。墳頂部は盛土をし、墳丘下半分は地山を整形している。

茶臼山古墳
ちやうすやまこふん

[現在地名]出石町谷山 椋谷

平地に近い山峡部の緩斜面に位置する。墳丘の全面が畑地となっているためもとの形は明確ではないが、三段築成のあとを残す。径約五三メートル、高さは山側で約七メートル、谷側で八・六メートルあり、但馬最大の円墳である。周濠の有無は明らかではない。明治一〇年代に墳頂部を発掘し、石室の一部、人骨・刀剣を発見したが、直ちに埋戻したと伝える。

茶臼山古墳
ちやうすやまこふん

[現在地名]鏡野町沖

香々美かがみ川左岸に広がる平野の東、平野の東限を画して連なる丘陵から突き出した小丘陵上に築かれた古墳群の一基で前方後円墳。全長約四八メートル、二段築成の墳丘は平野東部の丘陵上に分布している古墳群中で最大であるばかりでなく、この地域全体でも最大級の古墳に属する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「茶臼山古墳」の意味・わかりやすい解説

茶臼山古墳
ちゃうすやまこふん

茶臼山とは、その形状から名づけられた古墳に対する民間の通称で、前方部の低い前方後円墳や円墳でこの名をもつものが多い。岡山県浦間(うらま)茶臼山古墳のような最古式のものから岡山県湊(みなと)(160メートル)、中山(150メートル)、滋賀県膳所(ぜぜ)(120メートル)、大阪府天王寺(200メートル)、香川県大川(145メートル)、群馬県別所(165メートル)などの大形古墳もある。

 外山(とび)(桜井)茶臼山古墳は、奈良県桜井市外山にあり、鳥見(とみ)山の末端を利用してつくられた全長207メートルの前方後円墳である。後円部径110メートル、前方部幅61メートルで、前方部は低く長い。葺石(ふきいし)と後円部頂の方壇状施設の周囲に底部穿孔壺形(せんこうつぼがた)土器を樹立する。後円部中央の竪穴(たてあな)式石室は内法(うちのり)長6.75メートル、幅1.1メートル、高さ1.6メートルで、石室内から内行花文鏡・神獣鏡など多数の鏡、玉杖(ぎょくじょう)・玉葉・鍬形石(くわがたいし)・車輪石・石釧(いしくしろ)などの石製品、玉類、武器、農具などが出土した。壺形土器方形列は埴輪(はにわ)列に先行する形式として注目された。奈良県南東部の代表的前期古墳で4世紀中葉とされる。

 柳井(やない)(水口(みぐち))茶臼山古墳は、山口県柳井市水口にあり、向山(むかいやま)丘陵上につくられた前方後円墳。全長80メートル、後円部径50メートル、前方部幅40メートルで葺石、埴輪、円筒、盾がある。後円部の竪穴式石室から鏡5面、銅鏃(どうぞく)、鉄鏃、刀剣などが出土した。現存するのは鏡4面、銅鏃1にすぎない。銅鏃は定角式大形のもので65グラムある。出土鏡のうち鼉竜(だりゅう)鏡(単頭双胴怪獣鏡)は面径44.8センチメートルの大鏡で古墳出土鏡中最大であり注目された。

 今井茶臼山古墳は、群馬県伊勢崎(いせさき)市赤堀今井にある。丘陵上の前方部の短い前方後円墳で全長59メートル、後円部径38メートル、前方部幅32メートルである。後円部頂に多数の家形埴輪、器財形埴輪がある。埋葬施設は木炭槨(もくたんかく)2基であり、1号槨から鏡、短甲、刀剣、矛(ほこ)などの武器、斧(おの)、勾玉(まがたま)、小玉、刀子(とうす)などの滑石(かっせき)製模造品、2号槨から鏡、刀などが出土した。墳頂部の家形埴輪をはじめとする埴輪配置の復原研究は埴輪研究を前進させた。

[今井 尭]

『上田宏範・中村春寿「桜井茶臼山古墳」(『奈良県報告』19所収・1961・奈良県教育委員会)』『梅原末治「周防国玖珂郡柳井町水口茶臼山古墳調査報告」(『考古学雑誌』11―8、9所収・1935・日本考古学会)』『後藤守一編『上野国佐波郡赤堀村今井茶臼山古墳』(1933・東京帝室博物館)』


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防府市歴史用語集 「茶臼山古墳」の解説

茶臼山古墳

 柳井市にある前方後円墳[ぜんぽうこうえんふん]です。古墳時代前半のもので、石室[せきしつ]の中から日本で最大の銅鏡[どうきょう]が見つかったことで有名です。現在は古墳が復元されています。

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