メディチ家
めでぃちけ
Medici
イタリア、フィレンツェの名家で、ルネサンスの学芸の保護者。この家系の名は13世紀後半の資料にもみられるが、メディチ銀行を創立し、後代の隆盛の基盤を築いたのはジョバンニ・ディ・ビッチGiovanni di Bicci de' Medici(1360ころ―1429)である。その子コジモCosimo de' M.(1389―1464)は、事業を拡張、ヨーロッパ各地に支店を出し、巨万の富を蓄えると同時に土地へ投資し、財政の安定を図った。政治的には表だつことを避け、財力と新興大商人層内での信望を武器に支持人脈網を確立し、フィレンツェ共和国内で隠然たる影響力を行使した。この寡頭体制が、後年への同家の安泰の後ろ盾であった。1433年に共和国より追放されたコジモが翌年早々に帰国できたのも、この布石ゆえである。ミラノ、ナポリとの友好関係を保つのが彼の一貫した外交方針で、共和国の安定と繁栄に大いに貢献し、死後「祖国の父」の称号を贈られた。
コジモの孫ロレンツォLorenzo de' M.(1449―1492)は、市民ながら若年より他国の君公とも対等に交わり、フィレンツェでも無冠の王のごとく君臨した。祖父の外交方針を継承し、イタリア半島の諸勢力の均衡に努めた。賢明かつ豪胆で、率直な性格と行動ゆえ「イル・マニフィコil Magnifico(偉大なる者)」とあだ名されたが、その資質は、1478年同家を危機に陥れたパッツィ家の陰謀への対処にも発揮された。また、コジモ同様、芸術を保護し、自らも文学作品を残している。しかしロレンツォは経営の才能に乏しく、当時すでにメディチ家の財政は揺らぎ始めていた。彼の長男ピエロPiero de' M.(1472―1503)は凡愚で、南下したフランスのシャルル8世に屈したため、共和国より追放された(1494)。1512年にメディチ家は帰国を許されたが、1527年にもまた追われている。ただし、この間同家は2人の教皇、レオ10世(在位1513~1521)およびクレメンス7世(在位1523~1534)を輩出、フランス王家と婚姻関係を結んだ(アンリ2世の妃カトリーヌ・ド・メディシス、アンリ4世の妃マリ・ド・メディシス)。
メディチ家のフィレンツェ再復帰がかなうのは1530年で、このときは皇帝カール5世と教皇軍の後押しによった。1532年、アレッサンドロAlessandro de' M.(1512―1537)がフィレンツェ公に叙せられ、メディチ家は名実ともに領主となった。
次代のコジモ1世Cosimo Ⅰ(1519―1574)は傍系の出身であったが、優れた政治家で、官僚の養成、統治機構の整備など公国の近代化に尽力し、1569年、トスカナ大公位についた。しかし彼以後の大公は、外交に優れた手腕を発揮して農業、商業の振興に努めたフェルディナンド1世Ferdinando Ⅰ(1549―1609)を除くと、おおむね凡庸で、コジモ2世Cosimo Ⅱ(1590―1621)はメディチ銀行を閉鎖した。相続人を残さなかった奇行の主ジャン・ガストーネGian Gastone de' M.(1671―1737)の死により、トスカナ大公=メディチ家は絶える。
[在里寛司]
『中田耕治著『メディチ家の人びと――ルネサンスの栄光と頽廃』『メディチ家の滅亡』(河出文庫)』▽『C・ヒッバート著、遠藤利国訳『メディチ家――その勃興と没落』(1984・リブロポート)』
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メディチ家
メディチけ
Medici
15~18世紀フィレンツェを支配したイタリア名門貴族の家系。まず商業と金融業で富をなしたコジモ・デ・メディチ(1389~1464)が財力を背景にメディチ家隆盛の基礎を築き,フィレンツェの実権を掌握した。子ピエロ・デ・メディチ(1416~69)を経て,ピエロの子ロレンツォ・デ・メディチ(1449~92)のときにメディチ家およびその支配下のフィレンツェは黄金時代を迎えた。ロレンツォの子ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(1472~1503)のときフランスに接近しすぎてフィレンツェ市民の反感を買い,1494年に市から追放された。しかしロレンツォの第3子ジュリアーノ・デ・メディチ(1479~1516)が 1512年ローマ教皇ユリウス2世の支援のもとに復帰し,さらに第2子ジョバンニ・デ・メディチが教皇レオ10世として即位し家門の再興をみた。1代おいた教皇クレメンス7世もメディチ家出身であったが,神聖ローマ皇帝カルル5世と争い,その間の 1527年にフィレンツェ市民が再びメディチ家を追放した。だが教皇と皇帝の和解が成立すると一門のアレッサンドロ・デ・メディチ(1510/1511~37)が 1530年フィレンツェの支配者に復帰し,1532年に皇帝からフィレンツェ公の称号を与えられた。アレッサンドロの妹カテリーナ・デ・メディチ(1519~89)はフランス王アンリ2世の妃カトリーヌ・ド・メディシスとして知られる。2代フィレンツェ公コジモ1世(1519~74)は 1569年にトスカナ大公の称号を与えられ,さらに広い領土の支配者となった。2代トスカナ大公フランチェスコ1世の娘マリア・デ・メディチ(1573~1642)はフランス王アンリ4世の妃マリ・ド・メディシスとなった。7代トスカナ大公のジャン・ガストネが 1737年に嗣子なしに没したとき家系が絶えた。
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メディチ家
メディチけ
Medici
イタリアの金融業者で,フィレンツェ共和国・トスカナ公国の支配者の家系
ジョバンニ(1360〜1429)のとき,市民階級の支持を集め,商業で得た巨利を背景に都市の政権を握った。その子コシモ(1389〜1464)のとき,銀行頭取とフィレンツェ共和国の国家元首の地位を得,孫のロレンツォ(1449〜92)は独裁的君主となり,内政・外交両面にわたってフィレンツェ市の繁栄をもたらし,文芸保護に力を注いだ。その次男がローマ教皇レオ10世。またローマ教皇クレメンス7世やフランス王アンリ2世の妃カトリーヌも一門の出身。その後,1737年の大公ガストーネの死去により廃絶した。
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デジタル大辞泉
「メディチ家」の意味・読み・例文・類語
メディチ‐け【メディチ家】
《Medici》ルネサンス期のフィレンツェの名家。14世紀に東方貿易と金融業で富をなして台頭。15世紀にはコジモがフィレンツェの事実上の支配者となり、その孫ロレンツォはフィレンツェへの富の集中と文芸の保護に努めた。のち、ローマ教皇やフランス王妃を輩出し、トスカーナ大公となったが、1737年に断絶した。
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メディチ‐け【メディチ家】
(メディチはMedici) イタリアのフィレンツェの名家。大金融業者、商人。のち一門から君主・教皇などを出した。一三世紀末から東方貿易と金融業で産をなし、一五世紀コジモ=メディチは町の政権を握り、ロレンツォ=メディチはルネサンス型君主としてフィレンツェの繁栄をもたらし、その弟は教皇レオ一〇世となった。
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メディチけ【メディチ家】
15~18世紀にフィレンツェを中心に栄えたイタリアの財閥(図)。ルネサンス芸術の保護者の家系としても知られる。メディチ家繁栄の基礎を置いたのはジョバンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチGiovanni di Bicci de’ Mediciで,彼は銀行を興し,教皇庁との商取引をてこにこれを一流に育てた。しかしメディチ家がフィレンツェに君臨するのは次のコジモ(C.de’メディチ)の代で,コジモはアビニョン,ロンドンなど国外に多くの支店を出し,政治状況を積極的に利用して莫大な富を築き,メディチ銀行はヨーロッパ屈指の大銀行に成長した。
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世界大百科事典内のメディチ家の言及
【イタリア音楽】より
…ルネサンス期に他の諸分野において,イタリア人の活躍がどれほどいちじるしかったかを考えると,音楽の創作の不振の理由を説明するのは困難である。1500年前後のイタリア人の創作としては,マントバ(ゴンザーガ家),フェラーラ(エステ家),フィレンツェ(メディチ家)における,フロットラ(世俗歌)やカント・カルナシャレスコ(謝肉祭の歌)などの創作が目だっている。01年にベネチアの印刷業者のペトルッチが《オデカトン(百の歌の意)》と名づけて出版した多声音楽の曲集は,印刷譜の最初のものとされている。…
【ウフィツィ美術館】より
…イタリアのフィレンツェにある美術館。建物はメディチ家のコジモ1世がトスカナ大公国の主要な13の政庁を統合する庁舎の目的で1560年にバザーリに命じて着工させたもので,アルノ川を越えてパラッツォ・ピッティに至る歩廊も加えて,80年に建築家で彫刻家のブオンタレンティBernardo Buontalenti(1536‐1608)らが完成。翌年にフランチェスコ1世は,それまでにメディチ家が収集した美術品を展示するために,3階建ての最上階を美術館にした。…
【寡頭制】より
…アリストテレスも,寡頭制を単に少数者による支配であるとする見解をしりぞけて,富裕者が支配権を握っている場合を寡頭制と呼んでいる。歴史的には,ルネサンス期のフィレンツェにおけるメディチ家の支配が名高いが,現実政治において,単一の支配者以外のすべての人々が政治権力から排除されることや,逆に,政治社会の構成員すべてが,政治決定に実質的に関与することはありえないとするならば,人類史上ほとんどすべての政治体制は寡頭制であるということもできよう。また,ドイツの社会学者ミヘルスRobert Michels(1876‐1936)は,国家に限らず,会社,政党など,あらゆる組織において,権力が少数者の手に集中していく傾向を描き出し,これを〈少数支配の鉄則〉と呼んでいる。…
【宮廷文学】より
…同時に誇張した儀礼的賛辞と,矜持(きようじ)と卑屈が微妙に混在する姿勢が彼らの多くの作品を特徴づけることにもなる。ルネサンス期イタリアの名家も文人庇護で知られ,ポリツィアーノやベンボを擁したメディチ家,アリオストやタッソを庇護したエステ家の例は,イギリス,フランス,スペイン,ポルトガルの王侯貴族が見習うところとなった。しかしこれらは17世紀フランスのルイ14世の宮廷に比べれば,擬似的宮廷にすぎない。…
【グイッチャルディーニ】より
…イタリア,フィレンツェの名門に生まれた法律家,政治家,歴史家。その一生は,メディチ家を中心としてめまぐるしく変わった,当時の政情によって彩られている。1494年のメディチ家追放後の共和政下にあって,彼は体制に批判的なグループの後押しで政界に登場した。…
【コスマスとダミアヌス】より
…赤く長いガウンと帽子をつけた医師の服装で,手には薬箱や外科用器具,乳鉢,乳棒などを持つ。メディチ家(メディチは医師の意)の守護聖人で,同家にはコジモ(コスマスのイタリア語名)を名のるものが多く,同家ゆかりの美術作品にもしばしば登場する。また,フランスで14世紀初めに公認された理髪外科医の同業者組合は,〈サン・コームSaint‐Côme(聖コスマス)〉と名のった(大革命期に廃止)。…
【シニョリーア制】より
…なかでもビスコンティ家は1329年以降皇帝代官の称号を得て,15世紀初頭には北イタリアを統一する勢いを示した。一方,1434年にフィレンツェの実権を握ったメディチ家は,コムーネの伝統が強固であるために,シニョーレを名のらず,陰の支配者にとどまった。また,都市貴族(大商人)層の強固な支配が確立していたベネチアでは,ついにシニョリーア制が成立しなかった。…
【トスカナ[州]】より
…これ以降,トスカナの歴史はフィレンツェの歴史と重なり合うことになる。
[メディチ家の支配]
15世紀はルネサンスの世紀であった。1434年にフィレンツェの事実上の支配者となったメディチ家のもとで,トスカナはルネサンス文化の中心として,イタリアの内外に大きな影響を及ぼした。…
【トスカナ大公国】より
…1569年から1860年まで,イタリア中部トスカナ地方にあった大公国。その歴史は1569年,メディチ家のコジモ1世が大公に叙された年に始まる。彼は行政・法律面で統一のとれた国家の建設に努力し,ついでフェルディナンド1世の下で税制改革が行われ,商業・農業が発展して,大公国は繁栄するが,以後国力は衰微の一途をたどった。…
【フィレンツェ】より
…新しい教会やパラッツォの建築が行われ,中世以来の細い曲りくねった道が改修され,都市景観のうえでも大きな変化が生じた。1492年にロレンツォが死去し,94年にフランス王シャルル8世が南下すると,市民はメディチ家を追放しサボナローラを精神的指導者とする共和政が成立した。しかしサボナローラは98年に処刑され,都市政治はきわめて不安定となった。…
【ボボリ庭園】より
…フィレンツェのパラッツォ・ピッティPalazzo Pittiに付属する庭園。16世紀半ば,このパラッツォ(館)がメディチ家のものとなったとき,コジモ1世の妃エレオノーラがトリボロ,アンマナーティらに命じて造らせた。その後ブオンタレンティらも協力したが,主庭園に広大な叢林(ボスコ)が付属する現在見るような庭のすがたが完成したのは17世紀に入ってのことである。…
【マキアベリ】より
…それとともに彼は政治の問題を外交,軍事の方向から考察するようになる。1512年共和国がメディチ家によって打倒されると,マキアベリは危険人物として職を追われ,フィレンツェ郊外に隠棲を余儀なくされた。有名な《君主論》(1532)をはじめ,《リウィウス論》(1531),《マンドラゴラ》(1524)などの作品はこの不遇の時期に執筆された。…
※「メディチ家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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