サボナローラ(読み)さぼなろーら(英語表記)Girolamo Savonarola

精選版 日本国語大辞典 「サボナローラ」の意味・読み・例文・類語

サボナローラ

(Girolamo Savonarola ジローラモ━) イタリアドミニコ会士。ルネサンス期の宗教改革先駆者フィレンツェサン‐マルコ修道院院長。メディチ家の道徳的腐敗と不信仰を攻撃し、フランスのイタリア侵入に際してフィレンツェに神裁政治を行なう。ローマ教皇対立火刑に処せられた。(一四五二‐九八

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「サボナローラ」の意味・わかりやすい解説

サボナローラ
さぼなろーら
Girolamo Savonarola
(1452―1498)

ドミニコ会のイタリア人修道士。1491年よりフィレンツェのサン・マルコ大聖堂院長。自ら禁欲主義を貫き、当時の教会の堕落、社会の腐敗を糾弾、「悔い改めよ」と説いた。その説教は率直で予言的色彩が濃く、多くの人をひきつけた。1494年、イタリア全土を恐怖させたフランス王シャルル8世のイタリア遠征は、彼の予言どおり「神罰」と世間に受け止められ、その政治的影響力も増した。同年、彼の指導のもとフィレンツェ共和国はメディチ家を追放して自由を取り戻し、国政改革を断行、フランス王シャルルの懐柔にも成功、危機を脱した。しかしサボナローラの非妥協的な神政政治、親仏方針、教皇批判は国内に敵をつくった。彼はこの反対勢力「アッラッビアーティ(憤怒派)」と教皇アレクサンデル6世に説教中止と破門を突きつけられるが、「ピァニョーニ(泣き虫)信徒」の絶対的支持を受けて、教皇に退位を勧告して対抗する。両派の対立は激化、ついに1498年4月「火の審判」による対決が決定する。しかし当日この決闘が中止になるや、彼に奇跡の成就を期待していた群衆は失望し、逆にいらだちと憤懣(ふんまん)を彼のうえに浴びせた。サン・マルコ大聖堂は暴徒と憤怒派に襲われ、彼自身も市当局に捕らわれ、5月23日、異端のかどで市政庁広場で処刑後焼かれた。彼は宗教改革の先駆者であったが、その神政には中世的、時代錯誤的な面があった。彼の唱導の下、多くの芸術作品や書物が、他の奢侈(しゃし)品とともに堕落の産物として焼かれた「虚栄の焼却」はその一端を示す。

[在里寛司 2017年11月17日]

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改訂新版 世界大百科事典 「サボナローラ」の意味・わかりやすい解説

サボナローラ
Girolamo Savonarola
生没年:1452-98

ルネサンス期フィレンツェの説教師,宗教指導者。フェラーラに生まれ,ドミニコ会に入り神学を学ぶ。82年にフィレンツェに移り,91年にサン・マルコ修道院長(管区長)になる。メディチ家支配下のフィレンツェ社会を痛烈に批判した説教を行い,共和制の伝統とルネサンス末期の神秘主義思想の影響下にあった市民の支持を得た。シャルル8世の南下によってメディチ家がフィレンツェを追われると(1494),彼の発言力が増大し,その提言で大評議会の設置,税制改革などが実現し,異教的な本や美術,ぜいたく品を焼く〈虚栄の焼却〉が行われた(1497)。しかし,アレクサンデル6世と教皇庁の堕落を厳しく批判したために破門され(1497),やがて市民の支持を失って捕らえられ,教皇庁の審問官による裁判で火刑に処された(1498)。彼が政治に影響を与えた時期は短かったが,当時の思想家や美術家に大きな影響を残した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「サボナローラ」の意味・わかりやすい解説

サボナローラ
Savonarola, Girolamo

[生]1452.9.21. フェララ
[没]1498.5.23. フィレンツェ
イタリアの聖職者,宗教改革者。当時のローマ教会および聖職者の腐敗を攻撃し,フィレンツェに神政政治をしき,カトリック教会改革の先駆的役割を果した。 1475年ドミニコ会に入り,読書,禁欲に精進,90年よりメディチ家支配のフィレンツェで説教師となり,市の腐敗を攻撃,またその壊滅を予言。ちょうどフランス軍の市中進出により予言が的中したかにみえ,94年市民の推挙によって市政執行者となり,メディチ家を追放。またキリスト教的都市の建設をはかって,厳格なキリスト教的憲法を採用。さらに腐敗したローマ教皇庁の権力に対抗したが,97年破門された。やがてフランシスコ会修道士との「火に手を入れる」神明裁判に失敗,その奇跡を行う力が疑われて,98年反対者によって火刑に処せられた。彼に対する歴史的評価はさまざまであるが,ボティチェリ,ミケランジェロ,フラ・バルトロメオら,ルネサンスの美術,文学,思想に与えた影響は大きい。主著『十字架の勝利』 Triumphus crucis,『啓示要略』 Compendium revelationumなど。

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百科事典マイペディア 「サボナローラ」の意味・わかりやすい解説

サボナローラ

イタリアの宗教改革者。フェラーラに生まれ,ドミニコ会士となりフィレンツェに派遣された。熱狂的な説教により教皇やローマ教会の堕落を批判,メディチ家の権力の弱体に乗じて1494年から1497年の間,異教的な書物や美術を排したり,税制の改革を行った。教皇庁を厳しく批判したかどで1497年教皇アレクサンデル6世から破門され,翌年火刑に処された。
→関連項目バルトロメオボッティチェリメディチ[家]

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世界大百科事典(旧版)内のサボナローラの言及

【いす(椅子)】より

…これに背板とひじ掛け用の側板が付加されると,座部が蓋付きの収納箱となった典型的なハイバック(高い背もたれ)式の領主や司教用のいすとなる。 ルネサンスになると,イタリアではダンテスカdantescaやサボナローラsavonarolaとよばれる古代ローマ風の折りたたみ式のいすが上流階級の社交生活で愛用された。またフィレンツェ産のタピスリーをシートとバックに張ったひじ掛けいすや豪華な彫刻で飾ったカッサパンカcassapancaとよばれる長いすなどは,公的な社交用の家具であった。…

【キリスト教】より

…他方,15世紀後半の〈ルネサンス教皇〉らは免罪符(贖宥状)を濫発したが,そのあくなき財政政策は地方教会を基盤とする諸侯領主との間の対立を深くしていた。享楽好きで知られる教皇レオ10世を生んだフィレンツェのメディチ家と真っ向から衝突したのはサボナローラであったが,彼によってもなお教皇庁の改革ははたしえないでいた。 ルターは,最初エルフルトでオッカム主義の哲学を学んだが,アウグスティヌス会に入り,さらにウィッテンベルクに移って,そこの大学で聖書学教授となった。…

【焚書】より

…教皇インノケンティウス8世は1487年の教書で,〈異端,不敬,中傷誹謗〉の本の流通禁止,著者の処罰を求め,罰則として破門,罰金,焚書をあげている。しかし,焚書を民衆教戒の熱狂的な儀式として組織したのは,ごく短期間(1494‐98)フィレンツェを支配した改革者サボナローラである。しかし,この時期になると,活版印刷術の普及により本の生産は容易かつ大量に行われるようになっていたので,焚書によって絶滅できるものではなく,それはむしろ権力の意志を示威し,民衆に実物教育を行う象徴的行為としての意味合いをもっていた。…

※「サボナローラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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