高須町(読み)たかすまち

日本歴史地名大系 「高須町」の解説

高須町
たかすまち

[現在地名]海津町高須町

揖斐いび川左岸に建設された高須城の城下町。高須城を藩政庁とするのは徳永氏・小笠原氏・松平氏の三氏であるが、関ヶ原の戦功によって五万石余を与えられて同城に入った徳永寿昌が、慶長六年(一六〇一)六月より三ヵ年にわたる城郭の修築と家中屋敷の整備に伴って、当町の建設を進めた。文化一三年(一八一六)写の高須町古絵図(原田家蔵)は元文四年(一七三九)頃の実態を示すものと推定されるが、同絵図によって概観すると次のとおり。北に堀で囲む館があり、南に家中屋敷がつづき、町屋はその南に広がる。北よりほん(上町か)しも町が続き、この通りの西にも家中屋敷が並ぶが、東側にはうら町・西田にしだ町・東田町が南北に、よこ町・馬目まのめ町・はまぐり町が東西に延びている。明和二年(一七六五)高須藩士新規屋敷割渡絵図(同家蔵)では西側の家中屋敷地にも殿との町・西にし町の町名がみえる。珍事留(水谷文書、以下同文書は省略)の天保七年(一八三六)条には町方として駒野こまの町がみえ、殿町はないが西町は記されている。東田町・西田町は田町となっている。「新撰美濃志」所収絵図には西町南の稲荷社前の稲荷小路とその西の葭垣あしがき町がみえる。明治二年(一八六九)の町反別取調帳によれば、総反別三七町五反余のうち町屋敷は五町五反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報