田町(読み)たまち

日本歴史地名大系 「田町」の解説

田町
たまち

[現在地名]高崎市田町

連雀れんじやく町の北に延びる中山道の両側町と、北東部に張出した地域からなる町。西は新紺屋しんこんや町・寄合よりあい町・中紺屋なかこんや町・さや町、北は九蔵くぞう町、東は組屋敷と元紺屋もとこんや町・白銀しろがね町。町の長さ三町二八間四尺で、南から一―三丁目があった(高崎寿奈子)

もと箕輪みのわ(現群馬郡箕郷町)にあって田宿たじゆくといったが、慶長三年(一五九八)井伊直政が和田わだに移ったとき田宿もともに移して田町とした(高崎志)あら町・もと町とともに高崎宿の伝馬役を勤めるため慶長七年から地子免で(文化年間「高崎藩町方式」西尾市立図書館蔵)、免許地は二町五反余であった(嘉永五年「宿明細帳」安中市教育委員会蔵)。寛永九年(一六三二)からは新町同様問屋継立を勤めることになり、旧来から勤めていた本町と三町で一ヵ月を三分して継立を行っている(高崎志)

田町
たまち

[現在地名]小倉北区田町・城内じようない竪町たてまち一丁目

西曲輪の西部にあり、堀・土塁を挟んで三の丸に接し、西は西紺屋にしこうや町・西鍛冶にしかじ町に接する。町並は南北に長く連なり、小名に横町がある(倉府俗話伝)。元和元年(一六一五)信濃の牧田定正が小倉に来て四丁目に入り、酢屋と号したという(小倉商家由緒記)。日帳(永青文庫)の寛永三年(一六二六)一二月一八日条に「田町ノ四丁目」とある。江戸後期の町屋敷図によれば町家のみで、一丁目は五七軒が並び、浄土宗心光しんこう(廃寺)がある。二丁目は四四軒で、芝尾屋という仏事の茶菓子を製造する麦菓子屋がある。また西洋流の大砲の車台を作る大工(万七)や大工(源三郎)が住した。

田町
たまち

[現在地名]大村市東本町ひがしほんまち

本町の東にある。うら町ともいう。当初は武家地であった。文政九年(一八二六)の町絵図(正法寺蔵)では正法寺しようぼうじ田・屋敷田などの田畑が記される。「大村郷村記」によれば田町筋の本町で、枝町に諫早いさはや丁・八幡はちまん丁・ふだの丁・萱瀬かやぜ丁・丹々川通たんたんがわどおりがあり、町並は諫早丁出口から丹々川までの長さ四町五一間五尺余、幅は南東入口が二間三尺余で北西出口が一間五尺余、「田町本通にして、本町陸手に所有の裏丁なり」と記される。寛永年間(一六二四―四四)頃まで牢屋敷があった。一六二八年九月オランダのヤハト船エラスムス号で来航した人々が七ヵ月間大村の屋敷に監禁され、そこの領主の管理下に置かれることになったが、平戸のオランダ商館には、大村の牢屋は広くて清潔でよい待遇を受けているという知らせが届いている(平戸オランダ商館の日記)

田町
たまち

[現在地名]浜松市田町・常盤町ときわちよう尾張町おわりちよう池町いけまち北田町きたたまち元浜町もとはまちよう山下町やましたちよう

浜松城大手口の東、東西に延びる東海道に沿う。東は板屋いたや町、西は神明しんめい町。当町で東海道から分岐した秋葉道が北に向かい、池町・下垂しもだれ町が続く(井上氏時代城下絵図など)。御役町六町の一。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳によれば町の長さ三町二二間、家数一〇〇。浜松各町書上によると町並は南側二一一間二尺余・北側一九二間二尺余、町幅三間三尺余。

田町
たまち

[現在地名]真岡市田町

あら町の南、五行ごぎよう川の右岸に位置し、西はだい町に続く。南部は水戸街道に沿って東に延び、五行川左岸にまで及ぶ。台町・荒町とともに真岡三町といわれるが、城郭の周域の台町に対して、田町・荒町は二町まとめて表現され、慶長七年(一六〇二)の地子免許状(栃木県庁採集文書)でも、台町と田町荒町の二区分になっており、享保六年(一七二一)の真岡古来より御免屋敷之事書付(「ふむのあとこと」塚田元成文書)では、免許屋敷は田町荒町五町五反余とあるが、名主は三町別々に勤めている。田荒町と称されることもある。慶長三年宇都宮藩領となり、同六年真岡藩領。

田町
たまち

[現在地名]佐倉市田町

鹿島かしま川下流右岸に位置。佐倉城北側の三十間さんじゆうけん堀・五ノ堀・四ノ堀と成田道に沿って片側に形成されたかた町、成田道両側に形成されたりよう町からなる。成田道の間の宿で、「佐倉風土記」によれば、しん町・弥勒みろく町・もと町、本佐倉もとさくら町・酒々井しゆすい(現酒々井町)とともに佐倉六町といわれた。両町の四ノ堀端にはふだつじと称される高札場があった(「古今佐倉真佐子」など)。また吉田よしだ河岸ともよばれた田町河岸があり、佐倉城内への年貢米輸送、新町への物資搬入に利用された。

田町
たまち

[現在地名]大多喜町田丁たまち

紺屋こうや町の南、大多喜往還に沿う両側町。城下七町の一。地内を夷隅川の支流田丁川が東西に流れ、道はここで鉤形に折れている。慶安二年(一六四九)の大田喜根小屋地詰帳(小高家文書)に田町とみえ、田畑屋敷反別八町七反余。元禄郷帳では高九六石余。享保期(一七一六―三六)の大多喜城下絵図(渡辺家蔵)によれば軒数四で、屋敷間口は六・五―一〇間、東裏に大日堂・折紙おりがみ寺、西裏に大聖だいしよう寺があり、田丁川には金沢橋が架かる。

田町
たまち

[現在地名]高松市田町・東田町ひがしたまち常磐町ときわちよう観光通かんこうどおり南新町みなみしんまち亀井町かめいちよう塩上町しおがみちよう

南新町の南、なか下馬から南へ延びる町人町。丸亀まるがめ町から続く、城下町中心路に沿う両側町。南端は南下馬で辻番が置かれ、小橋を渡ると徳善とくぜん寺の東側から藤塚ふじづか町へ続く。西側北端は餌差えさし町ともいい、丸亀筋はここで突当り、鍵形に田町に続く。餌差町は天保九年(一八三八)の御領分明細記で田町の内とされている。南側の東部は田地が広がっているが、新瓦しんかわら町南の新発知池のほうに延びた町並を「シワクヤ横丁」といった(天保一五年城下図)

田町
たまち

[現在地名]三島市北田町きたたまち中田町なかたまち南田町みなみたまち富田町とみたまちなど

東西に延びる久保くぼ町の南側に位置する町。付近には東側に御料所陣屋(東海道分間延絵図)、西側に定助郷会所など(「宿町軒並図」三島市誌)、重要な機能が備わっていた。寛文四年(一六六四)の三島代官伊奈忠公掟書写(世古家文書)に「田町陣屋」とみえ、陣屋付町であった(伊豆鏡)。貞享五年(一六八八)の家数四四(家持二五・借屋一七・寺門前二)、町の長さは東西八四間・南北四六間(三島町外万覚帳)

田町
たまち

[現在地名]仙台市五橋いつつばし二丁目

上染師かめそめし町の南東、あら町の北西、当町内で北西に折れる通町とおりまち(奥州街道)の両側町で、北裏・南裏ともに侍屋敷が並ぶ。町並の長さは二町で(奥陽名数)、仙台城普請に参加していることから慶長年間(一五九六―一六一五)の割出とされ(寛永一八年「田町願状写」伊達家文書)、開府当時は城下指入口であった。つまり名取郡より宮沢みやざわ渡戸によりふな丁を経ておお町に至る入口であり、開府前の要道あずま海道の通過点でもあった(仙台鹿の子)

田町
たまち

[現在地名]諫早市栄町さかえまち

諫早市中の南西部に位置する。元和七年(一六二一)「船越村田町之内」二畝二七歩の居屋敷が「紙すき清左衛門」に申付けられている(「諫早家家譜」諫早市立図書館蔵)。正徳二年(一七一二)の恒例帳(諫早市立図書館蔵)に「田町口番一人」とあり、番料米・番所修理・畳・鯨油・薪の支給などが取決められている。寛延三年(一七五〇)の諫早一揆では医師玄伯が肥前佐賀送りに処されている(諫早日記)

田町
たまち

[現在地名]津山市田町

津山城下の西辺に広がる侍屋敷町。初代藩主森忠政の入封直後の慶長八年(一六〇三)主要な家臣の住居地域として造成された。東は城の堀、西は藺田いだ川を隔てて小田中おだなか村、南は宮脇みやわき町・上紺屋かみこうや町・細工さいく町および紺屋町こんやまち溝を隔てて下紺屋町・元魚もとお町の町屋。北は椿高下つばきこうげ城代じようだい町の侍屋敷。町絵図では東西五通り・南北五通りの碁盤目状の区画割がなされており、森氏・松平氏時代を通じて一区画を南北に割り八、九軒の屋敷を配置した。なお藺田川東沿いは片側並びであった。森家侍屋敷割帳(弓斎叢書)によれば上田町・田中東向たなかひがしむき紺屋町西側こうやまちにしがわ田町竹之馬場たまちたけのばばの四域に区画されていた。元魚町から城の堀に沿い北に伯耆往来が延びる。

田町
たまち

[現在地名]柳川市筑紫町ちくしまち

材木ざいもく町の西、沖端おきのはた川沿いに西へ続く通りに沿った片側町。町人地。東端は糀屋こうじや町と交わる角、西は正段島しようだんじま村へ至る。川沿いには松並木の土手があった(柳河明証図会)。享保八年(一七二三)から同一一年の状況を示すとみられる柳川惣町図に町名はみえず、寛政三年(一七九一)の町小路絵図には田町とある。田町御蔵があった。寛政元年の田町御蔵図(柳川古文書館収蔵)には四方を堀で囲まれた敷地内に六棟の蔵が描かれ、うち一棟には「天明六年午冬新ニ出来」と記される。文政期(一八一八―三〇)に編まれた「柳河明証図会」には穀蔵七棟とあるので、この間に一棟建増しされたと考えられる。文政一一年の大風により、蔵三棟が倒壊した(「御破損所覚」伝習館文庫)

田町
たまち

[現在地名]中区にしき二丁目

島田しまだ町の南にあり、伝馬てんま町筋と本重もとしげ町筋に挟まれた二丁をいう。ほかに本重町筋の西へ半丁と、享保一四年(一七二九)開発の中道なかみちを支配する(町名起因並町家由緒)。田町以南の長島ながしま町筋は広小路ひろこうじ筋の延長堀切ほりきり筋を越えて、横三よこみくら筋で行止るまで、西側に武家屋敷が建並ぶ(尾張志)清須きよすでは野田のだ町と称したが、名古屋移転後に野の字を省いた。清須越しの時期は不詳(尾張城南陌名由緒)。氏神は那古野なごや神社。

田町
たまち

[現在地名]大垣市田町・寺内町じないちよう

大垣城下南端に位置する士屋敷地域。北は田町堤たまちつつみ通。もと南寺内みなみじない村のうちで、寛永―元禄期(一六二四―一七〇四)に侍町となったとされる。元禄城下絵図(大垣市立図書館蔵)田町足軽たまちあしがる町・田町台所たまちだいどころ町とみえ、享保城下絵図では東西に長い区画に足軽町、同町南端中部の善教ぜんきよう寺の西の南北に長い区画に台所町と記される。享和四年(一八〇四)の藩士家並帳(林文書)には田町・田町御足軽北町・同南二丁目・同南三丁目とある。元禄期の家数は田町台所町五七・田町足軽町一〇四(新修大垣市史)。明治六年(一八七三)の大垣町続村名帳(県立歴史資料館蔵)には田町とみえ、同年大垣堤通田町と称する(濃飛両国通史)

田町
たまち

[現在地名]岡崎市田町

岡崎城西、外郭内に通ずる東海道往還筋の町。下肴しもさかな町から四曲りして、西南の板屋いたや町に続く。町の長さ二町五八間・幅三間。岡崎宿伝馬役町である。天正一九年(一五九一)岡崎に入封した田中吉政が、翌年から岡崎城西の沼沢を埋立ててつくった町と伝えられる。「岡崎古記」に「今年岡崎城ノ西沼田を埋メ町屋ニ成ル、今ノ田町是也」とある。伝馬てんま町とともに古くから塩座が置かれ、塩専売の特権を有していた。

田町
たまち

[現在地名]下館町こう 田町

台地東下を東西に通るした町の中心町筋。おお町と金井かない町を結ぶ城下本通りをなす。水谷氏時代からの町とされ(下館町郷土史)、寛永一六年(一六三九)の下館城図(田宮家蔵)に町名があり、「下館日記」抄の正保元年(一六四四)に「廿七日、まちへいでぬ、(中略)東下りに田町・かない町・さくら町、三すじ」とある。

田町
たまち

[現在地名]前橋市本町ほんまち一―二丁目・表町おもてちよう一丁目

近世の町人町田町・田新たしん町を明治六年(一八七三)合併して田町と改称した。田町は北の連雀れんじやく町と直交する東西の通りで、東は相生あいおい(白銀町)へ続き、北は城内である。西の外れから南へ折れて田新町が続く。この辺りは武家との雑居地で、明治以降堀川ほりかわ町となる。貞享元年(一六八四)の「前橋風土記」に田町があり、「西に折るれば則ち真正の道路に到る」とあり、真政さねまさ(真正)渡へ至る城下の外れであった。「直泰夜話」に「田町の水車は宝永年中に出来にて御搗屋の代りに諸方へ渡る米を搗けるが享保の半より町人の持に成申候」とある。また同書に、前橋の天気の予報は浅間山の煙のなびき具合と田町の樋の音によって知ると記される。

田町
たまち

[現在地名]米沢市堀川町ほりかわちよう林泉寺りんせんじ二丁目

城の南西、堀立ほつたて川東の下級家臣屋敷町。堀立川に橋が架かり、北は三の丸内の五十騎ごじつき町。享保一〇年(一七二五)の城下書上によれば町の長さ三町三〇間・道幅九尺・屋敷数四八。付紙に「今程開地ニ成屋敷無之」とある。ほかに長さ二九間・道幅二間・屋敷数一三の横町、長さ三五間・道幅九尺の願生がんしよう寺門前横町がある。当町西裏、無足むそく町から続く南北の道の西側に長さ三五間・道幅二間・屋敷数四の鳳台ほうだい寺門前町があり、西端に鳳台寺がある。弘化三年(一八四六)の屋敷割帳によれば屋敷数一〇(足軽・手明衆)。なお当町裏を五十騎鉄砲組が鉄砲の練場としていたが、安永二年(一七七三)以後はその他の諸組とも明神堂みようじんどう町の追廻馬場のみを練場とすることになった(三重年表)

田町
たまち

[現在地名]宮古市向町むかいまち大通おおどおり一丁目

向町の西にあり、それと並行して山口やまぐち川の岸から南に延びた町。山口川には土橋が架かってあら町と結ばれる。元禄五年(一六九二)の町屋鋪表口改帳(伊香文書)によると道幅二間四尺、町の長さ五六間四尺ほど(ただし一間は六尺五寸)で、家数一九。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では宮古村に属し、家数三二。町民には大工・桶屋・鍛冶屋・鋳物師などの職人が多かった。南端を浜街道から分れ八幡前の野を横切って小山田こやまだ村に向かう小山田道が通る。この道は横山よこやま八幡宮の参道にもあたり、町の西角には一の鳥居が建っていた。

田町
たまち

[現在地名]上田市中央ちゆうおう三丁目・五丁目

蛭沢ひるさわ川にかかる原町の土橋の北側で直角に折れ、東に向かう町並。町の長さ二町五〇間(長野県町村誌)。町名は、当初水田が散見されたことからと伝える。仙石氏時代の古地図は、原町側を下田しもた町、鍛冶かじ町側を上田かみた町と記す。

原町の発展に伴い商家・職人などが住み、また東隣の馬場ばば町の武家屋敷も延びるなどして、しだいに町がつくられた。寛文三年(一六六三)家数二三、人数一五八人(原文書)、延宝五年(一六七七)の五人組改に田町本家貸家合わせて五八戸を記す(上田市史)

田町
たまち

[現在地名]弘前市田町一―四丁目・八幡はちまん町一―二丁目

城の東側に位置し、東は田茂木たもぎ町に接し、大久保おおくぼ堰を挟んで八幡宮・熊野宮の宮地に入る道筋の町並。南は土淵つちぶち川を挟んで北横きたよこ町と接する。

「平山日記」宝永四年(一七〇七)に「此年弘前北横町より八幡之宮迄家立申候、後、田町と申」とあり、町内が形成された。明和元年(一七六四)の藩律に、城北の商街として町名がある。宝暦六年(一七五六)の弘前町惣屋鋪改大帳(市立弘前図書館蔵)によれば、亀甲かめのこう町支配の町として三四軒の町屋があった。

田町
たまち

[現在地名]姫路市飾磨区玉地しかまくたまち飾磨区玉地一丁目

飾万しかま津の浦手うらて六町のうちの一つで、東堀ひがしぼり町の北、野田のだ川河口部入江の最奥部に位置する。池田輝政時代に前面の入江に向島と称する島が築かれ、姫路藩の船役所が置かれた。以後人家が増加し、幕末期には河岸に市場もできて紀伊国の蜜柑船・西瓜船や小豆しようど(現香川県)の芋船が出入りして賑わい、飢饉救済用の五穀を貯えておく固寧倉も設けられたという(以上「飾磨町志」)。元文五年(一七四〇)の地子銀高三〇五匁余(姫路町飾万津町地子銀控)

田町
たまち

[現在地名]金沢市天神町てんじんまち二丁目・暁町あかつきまち桜町さくらまち

吹屋ふきや町の南に続く両側町で地子町。東は田町新道たまちしんみち。町名はかつて当地が田井たいの村地であったことにちなむとか、水田であった所に町立てされたことに由来するなどと伝える(金沢古蹟志)。万治三年(一六六〇)に町名が確認できるとされるが(同書)、寛文五年(一六六五)金沢城下町続き百姓地の城下への繰込みが行われた際、田井組村々の三九三軒が対象となっており(改作所旧記)、当町の町立てもこの頃になされたものと考えられる。

田町
たまち

[現在地名]能代市檜山字星場台ほしばだい

赤館あかだて町から東、母体もたい村へ向かう途中にある。享保一三年(一七二八)の檜山一円御絵図(秋田県庁蔵)では、赤館町との間に足軽屋敷がある。天保二年(一八三一)の檜山絵図(秋田県庁蔵)では足軽町がなくなって田地となっている。赤館町の北側は檜山川が流れ、南側は檜山城跡の山地となっている。町の長さは九五間。享保の絵図では二七軒の松野組下の直臣と一五軒の足軽屋敷がある。天保の絵図では二五軒の松野組下の直臣と五軒の足軽屋敷があり、赤館町と田町の間の足軽九軒が新屋敷しんやしきへ移住したと思われる。

田町
たまち

[現在地名]烏山町中央ちゆうおう一丁目・愛宕台あたごだい

なか町南寄りから西へ延びる喜連川きつれがわ町へ通じる街道沿いに町並を形成し、北に並行するもと町とは、中央付近から延びる横町で結ばれた。西端は城下西入口にあたり、木戸と辻番所が置かれ、城主が参勤交代で帰国する際、町役人は木戸前に整列し出迎えた。町の長さ二〇五間、横町東方は両側町、西方は南側の片側町、仲町境には田町中木戸があった。正徳期(一七一一―一六)と推定される町絵図(烏山町郷土資料館蔵)では家数三九、享保一六年(一七三一)の人数一四五(「宗門人別帳」同館蔵)

田町
たまち

[現在地名]臼杵市臼杵 田町

臼杵川の河口右岸、城下の南西端に位置し、北は畳屋たたみや町、東は仁王座におうざ村、南は福良ふくら平清水ひらそうず。寛永四年(一六二七)臼杵城外郭の要害を整えるために菊屋きくや町を廃した代りに、仁王座村の内に町立てし町人を移したのが当町の始まり(臼杵藩旧貫史)。元和七年(一六二一)以来菊屋町で町年寄を勤めていた筑前屋泊氏は、当町成立とともに移転し当町の町年寄を続けた。同氏は町人では唯一正月の門松を許されている(「桜翁雑録」、「役屋先祖書」臼杵藩政史料)

田町
たまち

[現在地名]大館市田町・さかえ

外町西北部の町人町。南北に走る羽州街道沿いに形成され、南はおお町に連なり、北端部は東から延びる川原かわら町と直角に交差する。元禄一七年(一七〇四)の大館城下絵図に「田町」とみえる。延宝三年(一六七五)大町・馬口労ばくろう町に居住していた百姓を移転させ再編した(六郡郡邑記)。町道は舌状台地と台地北麓を貫くため、北に低い地形をなす。町は大部分が北麓の長木ながき川沖積地を占め農業には便利であった。慶長以来歳代記(大館地方資料文書)に「享保十九寅年那可惣助様御検使石井徳右衛門様(中略)右五人御出被遊、十狐町欠屋敷下川原町後より田町渡り迄御普請被遊候」とあり、川の氾濫により被害があった。

田町
たまち

[現在地名]本荘市田町

南北に走る上横かみよこ町の西に直角に交差する東西に細長く続く町人町。かつてはしん町とよばれたというが(本荘郷土史)、その時期は不明。

北西部に隣接するさかな町がかつて西にし町と大工だいく町に分れていた時、西町と田町との間に境界争いがしばしば起きている。万用記によれば、万延元年(一八六〇)に「西町、田町地境論之節(中略)其治り方ハ浅香蔵土台より田町方ヘ七尺ノセキト相極リ(中略)田町ヘ年々人足軍役四拾〆文宛浅香より金三十両田町ヘ出金ニ相成」と一応は決着したが、「田町屋舗彼是六ケ敷候て右屋敷中ニ立て北原売人ニて相極り申候」とあり、全面的な和解に至っていない。

田町
たまち

[現在地名]高砂市高砂町田町

今津いまづ町の南にあり、高砂町方二八町の一つ。加古川対岸にある養田ようた村・池田いけだ村・長田ながた村・安田やすだ(現加古川市)などの百姓が移住して町が形成されたと伝える(高砂雑志)。元禄期(一六八八―一七〇四)の高砂町図(船津家蔵)によると、南堀みなみほり川から南へ二筋目の道沿いに東は南浜みなみはま町から西は南本みなみほん町までの東西に連なる町並。

田町
たまち

[現在地名]久留米市中央町ちゆうおうまち

魚屋うおや町の南にあり、町並は南北に連なり、南は庄島しようじま小路とつながる。東西に池町いけまち川が流れる。もとは西久留米村内で、「田の中」と称したという(石原家記)。寛永一六年(一六三九)山伏了貞が薬師仏を勧請したと伝える(寛文十年寺社開基)。寛文十年寺社開基に田町とある。天和三年(一六八三)閏五月水深三尺五寸の水入があった(古代日記書抜)。元禄九年(一六九六)の白石火事で全焼(石原家記)

田町
たまち

[現在地名]人吉市田町

人吉城下の南端、むね川沿いに南北に細長く続く商人町。東はとみ、西は胸川を挟んでみなみ町、南はあいだ村に接する。明治時代の「熊風土記」によれば、もと田であったための町名で、寛文一二年(一六七二)に「浜川橋より一ノ谷坂口迄町立」という。寛政元年(一七八九)の私領御巡見教令(相良家近世文書)によれば「田町弐町八間、道幅三間半、下水道加へ、但屋敷数五拾六軒」とあり、うち借屋一軒、町別当は作右衛門で、ほかに平戸ひらど(現長崎県平戸市)とも取引関係をもつ平川貞七らがいた。

田町
たまち

[現在地名]津和野町後田うしろだ

西にし町に続く南北道に沿う両側町。町人町だが家中屋敷も混在する。西裏は溝をへだてて中田なかた町、東裏はほんしもノ町および祇園ぎおん町裏、南はうお町、北西角に祇園社御旅所があり、北は祇園社御旅所前広場に接する。風呂屋ふろや町の東西道によりかみノ町・下ノ町に分れる。

田町
たまち

[現在地名]岡山市田町一―二丁目

外堀と西にし川の間に位置する郭外武家屋敷町。東は蓮昌れんじよう寺・仁王におう町、南は正覚しようがく寺・武家屋敷、西は西川、北は磨屋とぎや町・野殿のどの町。寛永城下絵図でも武家屋敷地帯。「備陽国誌」に「此辺都て八町」とある。西田町・東田町・田町袋町・下田町・田町裏町の五町があり、西田町は池田忠雄が前任地淡路時代の家臣を住まわせたことから、別名淡路あわじ町ともいったという。西田町に西川へ出る道があり、五の橋といい、南外れの道の橋を六の橋といった。

田町
たまち

[現在地名]島原市田町

島原城の東、みやノ町の北に位置し、東部は海に面する。同城の田町門より東に東西に縦町を形成する。江戸詰の家臣が帰郷し、集住したという。江戸前期の島原城廻之絵図(熊本県立図書館蔵)に「田町」とみえる。宝永四年(一七〇七)検地とある島原領内村明細帳では三会みえ町別当の管轄四ヵ町の一つとしてみえ、島原村内の城内用地として「鉄砲町先蒐田町船倉奉公人屋敷」などと記される。また門外の田中に清水があり、穀止番所が置かれていた。寛政四年(一七九二)の島原大変以前の島原城下図(荒木家蔵)でも「鉄砲町田町先蒐船倉柏野奉公人屋敷」とある。

田町
たまち

[現在地名]岐阜市加納天神町かのうてんじんまち

加納二六町の一。壱町目から九町目の本町ほんまち(中山道筋)北の裏道筋東端にあたり、東西に延びる両側町。寛延二年(一七四九)の加納宿絵図によると、清水しみず川が北側を流れ、東は七軒しちけん町、西は東天神町。元禄八年(一六九五)頃の町絵図(太田家蔵)に町名はみえず、東天神町から東に延びる道は途中で消えている。貞享五年(一六八八)の間口裏行覚帳(三宅文書)には町名がみえ、町の長さ五二間、家数二八。

田町
たまち

[現在地名]相馬市中村なかむら 田町

慶長一六年(一六一一)に中村城下に設定された市廛四坊の一つ。西はうわ町に並行し、南はおお町に連なる南北二町二五間、幅四間の両側町(「奥相志」など)。「宇多郡村誌」には南北一三六間・東西三六間とある。南北に走る浜街道が当町北端から小泉こいずみ村に向かう所に枡形があった。天保年間(一八三〇―四四)まで大町と月交替で中村宿の駅務を担当したことによって発達し、渡部(二戸)・志賀・立谷(二戸)・横山各氏といった有力商人が軒を連ね、彼らは准士・郷士に取立てられていた。

田町
たまち

[現在地名]笠間市笠間

町口まちぐち門から城内の弁天べんてん坂までの武家屋敷町。町の長さは約八町五〇歩。慶長年間(一五九六―一六一五)城主蒲生氏の時に田を埋め、おお町と結ぶ橋(思案橋)を架けてつくられた。上級武士の屋敷町で、町の中ほどに会所や馬屋があり、藩主浅野氏の時には大石良雄の祖父も居住していた。延享四年(一七四七)の戸数は二二(「御家中屋敷并長屋割覚」笠間稲荷神社蔵)、弘化三年(一八四六)には鍵奉行以上七戸、給人以上五戸、徒士並以上三戸、坊主以上一戸で藩士二五名が居住した(「笠間名前帳」榎並家蔵)

田町
たまち

[現在地名]山口市中央ちゆうおう五丁目・旭通あさひどおり一丁目の各一部

山口町の西方、石州街道沿いの町で、東は荒高あらたか町、西は中讃井なかさない町に続く。

町の北方には朧の清水おぼろのしみずとよぶ名水があるが、これは湧水で小池をつくり、西方に流れて灌漑用水ともなっている。京都大原おおはら(現京都市左京区)の名水にちなんでの命名であるという。

田町
ひえだまち

[現在地名]加賀市大聖寺鉄砲町だいしようじてつぽうまち

鉄砲町の南東に続く地子町で本来は村方の山田町領やまだまちりように含まれたらしく、明治四年(一八七一)の大聖寺領巨細帳(加賀市史料)山田町領のなかに「平田町」とあるのが当地で、「へえだ」と訛ったようである。天明六年(一七八六)の大聖寺絵図には鉄砲町までしか記載されていない。しかし享保一三年(一七二八)の洪水之節助船定(後藤文書)には「三枚橋・専称寺・ひへた町・十一町」に対し塩屋しおや村から船一艘を出して救助にあたることになっており、文化七年(一八一〇)に「平太町」から出火した記録(「清水長勅日記」大聖寺藩史)がある。

田町
たまち

[現在地名]秋田市中通なかどおり四丁目・南通亀みなみどおりかめの町の各一部

亀の丁かめのちよう曲輪の北、川尻かわしり口を出た東根小屋町ひがしねごやまち堀の南にある。外郭としては早く侍屋敷があったためか、「梅津政景日記」元和四年(一六一八)九月一六日条に田町の名がみえる。田町はまた「太町」とある。正保(一六四四―四八)の出羽国秋田郡久保田城画図によると、田町の背後は一面の田である。

田町
たまち

[現在地名]大館市十二所 十二所町

十二所じゆうにしよ町の東端部に位置する給人町。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に「玉町今田町と云」とある。幕末期の十二所士族屋敷図でも「田丁」とある。うわ町に続く道路の南部一帯に形成され、西は鹿角かづの街道と交わり上町と連続。

田町
たまち

[現在地名]長野市松代町田町

中級・下級武士の町で、上田町・中田町・下田町・馬場ばばの四つに分れていた。城下町の東にあり、関屋せきや川に沿った町で、付近には最近まで水田が残っていたほどでこの名称となった。馬場は寛文(一六六一―七三)頃馬場があったことによると伝える。

田町
たまち

[現在地名]土浦市城北じようほく

土浦城の北東に位置する。慶長九年(一六〇四)頃に整備された町屋で、元文年間(一七三六―四一)の東崎町分戸別図(土浦市立図書館蔵)には「田町橋本より横町真中迄百十一間」とあり、よこ町境を除いて三方を堀で囲まれ、横町境には番所が描かれている。

田町
たまち

[現在地名]赤穂市加里屋かりや

細工さいく町から橋本はしもと町までの八一間の町筋(宝永元年加里屋町絵図)。池田氏時代に前川道可が干拓した田地を、慶安四年(一六五一)と承応二年(一六五三)に屋敷地としたもので(「赤穂由来記」吉栖家蔵)、家数二三、うち借家九(加里屋町絵図)

田町
たまち

[現在地名]豊橋市みなと

ふな町に続く表町。寛延三年(一七五〇)の吉田二十四町差出帳(橋良文庫蔵)によると高七八石余。伝馬一〇〇匹のうち七匹の割当であった。戸口は七六軒・三二六人、うち男一六五・女一六一である。

田町
たまち

[現在地名]湯沢市田町一丁目・同二丁目

羽州街道に沿い、南は用水路を挟んで吹張ふつぱり町、北は用水路でおお町と接する。

享保一三年(一七二八)湯沢町絵図(秋田県庁蔵)に「長サ弐百拾六間四尺七寸」とあり、同一五年の「六郡郡邑記」に家数一〇三軒、慶長一九年(一六一四)の検地の時以来の呼称とある。

田町
たまち

[現在地名]飯田市通り町三丁目

堀端の西、番匠ばんしよう町・池田いけだ町の西に続く商業の町筋。慶長元年(一五九六)に田地を埋め立てて作られた。

宝永七年(一七一〇)の戸口は、「町方役用記録」に、人数三五二人、家数三六軒とある。

田町
たまち

[現在地名]桑名市田町

殿との町の東にあり、南北一条の町屋敷地。江戸時代以前は田地で、「久波奈名所図会」には「慶長年中町割の時、田地を築上ケ町とす、よつて町名に残れり」とある。元禄家帳(「桑名市史」所収)では家数三八。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「田町」の意味・わかりやすい解説

田町
たまち

東京都港区東部、JR京浜東北線・山手(やまのて)線田町駅付近の旧地名。かつての水田地が町屋になったことが地名の由来。現在は芝および芝浦の新地名に変わった。芝側はかつての町屋、武家屋敷地で、現在は商工業地である。芝浦側は倉庫、工場地となっている。なお、田町の地名は、同区赤坂にもあり、料亭街の赤坂1~3丁目の地名に変更した。さらに文京区の旧田町は都営地下鉄三田(みた)線春日(かすが)駅付近である。

[沢田 清]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「田町」の意味・わかりやすい解説

田町
たまち

東京都港区東部の旧町名。東海道にのぞむ古くからの市街地であった。現在の芝5丁目と三田3丁目の一部。 JR田町駅周辺の第一京浜 (国道 15号線) 沿いはオフィスビルが多い。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android