高尾村(読み)たかおむら

日本歴史地名大系 「高尾村」の解説

高尾村
たかおむら

[現在地名]青山町高尾

種生たなお霧生きりう両村の南に位置し、伊賀国の東南端にあたる。村の南部は室生むろう火山群地帯の東端を形成し、あまヶ岳(九五七・七メートル)をもって伊勢国八知やち村・太郎生たろお(現一志郡美杉村)と境する。尼ヶ岳北麓の渓流は前深瀬まえふかせ川となって村中央部を北北西に貫流する。集落はおおむねこの川に沿ってあり、下流から出合であい床並とこなみ原池はらいけ中出なかで鳥岡とりおか・さかむら(現酒屋)鈴又すずまた奥出おくで上出かみでとよばれる地区を形成する。古田ふるた地区のみ村の東端の高原部にある。阿保あお村よりの道は前深瀬川に沿い、長瀬ながせ(現名張市)よりの道をさかむら地区で合して尼ヶ岳北方でさくら峠となり伊勢国八知村に続き、阿保越参宮道の枝道の一つであったと考えられる。

戦国時代には北畠氏の家臣に高尾城主伊賀国加番結城左近将監・同半蔵の名がみえる(「伊勢国司諸司系図」上野市沖森直三郎氏蔵)酒屋さかやにある岩脇氏城跡は六〇メートル四方の規模をもち、その南東下方に岩脇氏の屋敷跡が残り、岩脇家の墓地に大永七年(一五二七)銘の五輪塔がある。結城氏は岩脇家の元祖(年代欠の「八幡祠棟札」岩脇孝氏蔵)であるので、この城主が結城左近将監である可能性が強い。

高尾村
たこうむら

[現在地名]金沢市高尾町たかおまち・高尾一―二丁目・高尾台たかおだい一―四丁目・高尾南たかおみなみ一―三丁目・ひかりが丘二―三丁目

くぼ村の南西、高尾山の西麓に位置する。「たこ」あるいは「たかお」ともよび、多胡・田胡・高雄・高生などとも記した。高尾山に長享二年(一四八八)の一向一揆で、加賀守護富樫政親が自刃した高尾城跡がある。同山には平安期高尾山寺があったと伝え(加賀志徴)、山中には経塚があって、「ごん堂・ごま堂」という地では石仏や金皿などが出土したという(亀の尾の記)。また、かつて長久ちようきゆう寺という日蓮宗の寺院があり、同寺は高尾城落城の折、ともに焼亡、廃寺となったと伝え(加賀志徴)、「皇国地誌」には高尾城やこれらの寺院と関係が深いと思われる城上じようのかみたち寺下てらのした城谷じようだに天神堂てんじんどう的場まとば馬場ばんば長土塀ながどへ城山じようやまなどの字名が載る。

高尾村
たかおむら

[現在地名]富岡市上高尾かみたかお下高尾しもたかお

ほし川が村央を北東流し、東は白岩しらいわ村・藤木ふじき村、西は黒岩くろいわ村、南は君川きみかわ村・星田ほしだ村、北は碓氷うすい上間仁田かみまにた(現安中市)と接する。「和名抄」小野おの郷は当村一帯に比定される。承和二年(八三五)京都高尾山神護じんご寺の真済が関東諸国で一切経を書写し鎮護国家を祈祷した折、当地に庵を営み写経、以来高尾と称するようになったと伝える。鎌倉幕府滅亡後、高尾小太郎入道跡の「高尾村地頭職」は熊谷直経に与えられ、知行分を主張する在地の瀬下与一入道らと相論となっているが、暦応三年(一三四〇)夏に熊谷氏に安堵されている(同年一〇月二二日「和田基業請文」熊谷家文書など)

高尾村
こうのおむら

[現在地名]宇治田原町大字高尾こうの

宇治川の支流田原川の東山中、大峰おおみね(五〇六・四メートル)の西南麓に位置する。標高二六〇メートルほどの高地にある孤立した村で、近代以前は久世郡に属したが、村への入口が田原盆地の西端ごうくちであるため、明治二二年(一八八九)田原村に編入された。

養和元年(一一八一)一一月二一日付禅定寺領四至注進状案(禅定寺文書)の四至を記した記事に「西限高尾小イチ井谷峯ヒラキカ尾ト申ス」とある。北に宇治川、西に田原川を望む景勝の地でありながら、絶壁によって隔絶した隠れ里的様相を呈していたため、平家の落人集落とも、近江源氏佐々木氏が織田信長に追われて隠れ住んだとも伝える。また天智天皇の第七子で田原天皇と諡号された施基皇子が居住した地とも伝えられ、村内に御邸おやしき小院馬場こいんのばば大院馬場おいんのばばなどとよばれる地がある。

江戸時代は全村幕府領で、幕府の茶壺道中の際に使役される人夫を出す、宇治郷付雇村の一とされていた。

高尾村
たかおむら

[現在地名]北本市高尾・西高尾にしたかお一―二丁目・同六―八丁目

下石戸上しもいしとかみ村の西にあり、西は荒川を隔てて横見よこみ高尾新田(現吉見町)など。下石戸上村や南の荒井あらい村と村域が錯雑し、大小合せて二〇ヵ所近い飛地がある。足立郡石戸領に属する(風土記稿)。田園簿では田五六石余・畑三二一石余、旗本牧野領。以後幕末まで同領。荒川沿いに上沼かみぬま新田・高尾村新田とよばれる幕府領の持添新田がある(風土記稿)。天保六年(一八三五)の名寄帳(新井家文書)によれば本村の田七町七反余・三〇六筆、畑一三六町余・一千二一二筆。上沼新田は畑二九町七反余・一千五七筆、田二町六反余・一二四筆。

高尾村
たかおむら

[現在地名]高柳町高尾

岡野町おかのまち村の南と西、南は漆島うるしじま村・門出かどいで村、西は黒姫くろひめ山。集落は高尾と鯖石さばいし川支流黒姫川沿いに下流から坪野つぼの磯之辺いそのべがある。元和二年(一六一六)から同四年に長峰藩牧野忠成に属した時を除いて高田藩に属し以後幕府領、慶応元年(一八六五)頃から長岡藩領。正保国絵図に高尾村高一三〇石余、坪野村高三三石余、磯信村高二一石余とみえる。天和三年(一六八三)の越後中将御領覚では高一四九石四斗余(うち山高二斗・青苧高二石四斗余・漆高七斗)のほか新田一ヵ所高七石余がある。同四年の検地名寄帳(高柳町史)では田九町六反余・畑一〇町七反余・柴山一三町三反余などである。

高尾村
たかおむら

[現在地名]新見市高尾

新見村西部の北に位置し、南西は高梁たかはし川に限られる。村域は南北に狭長で東は下熊谷しもぐまたに村、北は馬塚まづか村。小川おがわ弓削ゆげ大仁子おおにご岩倉いわくら石指いしさし古部ふるべ明智あけち中組なかぐみ奥組おくぐみ高尾平たかおだいら向田むかいだの集落がある。中世には村社むらこそ郷に属しており、明応元年(一四九二)一二月吉日の曾原忠職等売券(竹田家文書)に「村社郷之内高生村小河分」とみえる。

高尾村
たかおむら

[現在地名]土成町高尾

阿讃あさん山脈の南麓、宮川内谷みやごうちだに川左岸の扇状地にある。東は糠丸ぬかまる山東の尾根筋をもって引野ひきの(現上板町)、南は五条ごじよう村・西条さいじよう(現吉野町)、北西は宮河内みやごうち村。板野郡に属する。中世には日置ひき庄のうちともいわれる。慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に高尾とみえ、同二年の分限帳では一六〇石余が益田覚右衛門、六〇石が小松原半六の各知行。益田氏は蜂須賀氏の縁戚で、のち兼松を称した。

高尾村
たかおむら

[現在地名]あきる野市高尾・小峰台こみねだい

あき川右岸にあり、西は留原ととはら村。南東は山が高く、畑地が秋川に向かって傾斜しているため日陰がちで、留原村・小和田こわだ村と合せて日陰三箇村といわれる。天正二年(一五七四)八月一一日の讃岐用人回状写(風土記稿)に高尾とある。田園簿に村名がみえ、田六石余・畑六九石余で幕府領、ほかに紙舟役永一四三文。以後幕末まで幕府領であったと考えられる。寛文七年(一六六七)の検地帳(五日市町史)では田一町一反余・畑一三町余・屋敷一町余、名請人六四のうち所持反別一―四反の者三二。

高尾村
たかおむら

[現在地名]南山城村大字高尾

北流する名張なばり川の西岸、笠置かさぎ山地に続く標高二〇〇―三〇〇メートルの高原地帯に位置。村の中央を東西に名張街道が通り、東方の田山たやま村と名張街道広瀬ひろせ渡で、北方南大河原みなみおおかわら村とは恋志谷こいしだに越で結ばれる。また大和国つき(現奈良県添上郡月ヶ瀬村)に至る月ヶ瀬道もある。枝村に法華ほうが(花)平尾しろ村があり、明治一〇年代の「京都府地誌」は「元禄中又本村ヲ割キ法ケ平尾村ヲ置ク」と記す。

高尾村
たこうむら

[現在地名]新田町高尾たかお

木崎きざき台地とその西方の沖積地帯にあり、石田いしだ川が西境を南東へ流れる。東は中江田なかえだ村、北は上江田村、西は小角田こずみだ(現尾島町)。南を日光例幣使街道が東西に走り、元禄(一六八八―一七〇四)以前の銅山あかがね街道が北から交わる。西方の水田は湛水田であり、用水は石田川水系による。「和名抄」の新田郡淡甘たこう郷を当地にあてる見解もある。仁安三年(一一六八)六月二〇日付の新田義重置文(長楽寺文書)に空閑郷々一九ヵ郷の一つとして「たこう」とみえ、義重の庶子らいわう(世良田家の祖義季)の母へと譲られている。

高尾村
たかおむら

[現在地名]櫛形町高尾

曲輪田くるわだ村・平岡ひらおか村の西、櫛形山の標高八〇〇メートル前後の山腹に位置する。西は奥仙重おくせんじゆう、北は彼蒿かこう山に続き、南が低くなり東方に眺望が開ける。南を深沢ふかさわ川、北を高室たかむろ川が東流する。鷹尾山たかおさん権現(現増穂町氷室神社)が櫛形山南の中腹に位置する平林ひらばやし(現増穂町)の真言宗鷹尾寺を南鷹尾というのに対して、村内の御崎みさき明神(現穂見神社)を北鷹尾と称したという(甲斐国志)

高尾村
たかおむら

[現在地名]大内町高尾

いも川支流の小関こせき川右岸にあり、村の東で高尾川が小関川と合する。東は中野俣なかのまた村、西は中帳なかちよう村に接する。「梅津政景日記」寛永二年(一六二五)八月一五日条に「田尾村」とある。

寛永二年の油利之内修理大夫様御知行御検地帳免定之目録写に一七五石七斗五升八合、納米一〇五石四斗五升五合、免六ツとあり、正保三年(一六四六)の出羽国油利郡内高目録(秋田県庁蔵)には一六八石三斗二升二合とあり、「はへ山有 水損所」と記される。明治二年(一八六九)には二二三石一斗六升六合、戸数三三軒、人口二一四人、馬四九匹とある(「郷村高戸数人口租税書」岩谷村史資料篇)

高尾村
こうおむら

[現在地名]西城町高尾

ねこ山の南西麓に位置し、南西は八鳥はつとり村、東は小奴可おぬか(現東城町)と接する。小奴可村との境界をなすまきたおは西城川支流の高尾川と東城とうじよう川との分水嶺にあたる。八鳥村二重坂ふたえざかから通じる東城路(伯耆路)は、村の南西端を通る。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳では高九二石余。広島藩領明知・給知入交じり。耕地が標高六〇〇メートル前後にある高冷地のため、裏作の麦作もほとんど行われず、鉄山業に関連する炭焼や砂鉄・ずくの駄送などが農閑期の重要な稼ぎとなった。当村の鉄穴は奴可郡村鉄穴帳(真安家文書)によれば五ヵ所、「郡務拾聚録(小田家文書)所収の嘉永年間(一八四八―五四)の鉄穴持主水筋御運上口数調では本口五ヵ所とある。

高尾村
たかおむら

[現在地名]佐賀市巨勢町こせまち大字高尾

高保村とも書く(天保郷帳・肥前国佐嘉領村々目録)

長崎街道は佐賀城下から牛島うしじま村の巨勢神社の前を通って巨勢川にかかる高尾橋を渡りこの村の高尾宿に入る。正保絵図に村名がみえる。文化一四年(一八一七)の郷村帳によれば「宿、南小路、北小路、井手小路、竈王院小路」などの集落があって、長崎街道と巨勢川の水運という恵まれた位置にあり、「高尾のお蔵」とよばれる鍋島藩の米蔵や高尾郷蔵といわれる備荒用の囲米保存の蔵が並んでいた。

高尾村
たかおむら

[現在地名]大井町高尾

北に長篠ながしの山があり、南境を中村なかむら川が流れ、西はやなぎ村、東は鴨沢かもざわ(現中井町)と接する。天正一八年(一五九〇)四月日の豊臣秀吉掟書(県史三)に「高尾」と記す。「風土記稿」は古代の「足上郡高屋」を当村にあて、後に高尾に変わったとする。

近世は小田原藩領で、うち慶長三年―寛文四年(一五九八―一六六四)旗本米倉領、寛文九年まで幕府直轄領、宝永五年―天明三年(一七〇八―八三)幕府直轄領。

高尾村
たかおむら

[現在地名]仁多町高尾

湯野原ゆのはら村の南西に位置し、斐伊川の支流大馬木おおまき川とその支流高尾川流域の谷間に立地する。西は久月きゆうげつ村・小白おじろ村、南は小馬木こまき(現横田町)。永禄九年(一五六六)と推定される三月一二日の杉原盛重書状(横山文書)に「高尾」とみえ、富田とだ(現広瀬町)包囲に参加する毛利方の横山盛政は同地から種々の噂を杉原盛重に伝えているが、この高尾とは毛利勢の進路からみると三沢みざわ郷内の高尾とみられている。

正保国絵図には堅田かたた村の南東に向高尾むこうたかお村、その南に上高尾村がみえる。万治二年(一六五九)の高尾村検地帳では高二七四石余。元禄十年出雲国郷帳では上高尾村・向高尾村が並記され、合せて高三四五石余、寛文四年(一六六四)の本田高は上高尾村が一九〇石余、向高尾村が一三八石余、新田高は上高尾村一斗余。

高尾村
たこうむら

[現在地名]椎葉村下福良しもふくら

望田もちた村の北の山腹に位置する。下福良掛三九ヵ村の一つで、掛内五組のうち尾八重組に属する。日向国覚書に椎葉山之村形の一村として高尾とみえる。延享三年(一七四六)に検地竿入がなされ、畑一反余(高一斗余)が打出された(天明元年「椎葉山高反別取米一村限帳控」内藤家文書)。宝暦五年(一七五五)の下福浦村組焼畑見取御年貢米代銀上納帳(同文書)では「尾田ノ尾山」に焼畑一八枚・一町三反余があり、その年貢米三斗余・代銀一八匁余。文政一一年(一八二八)には焼畑高が本高に入れられ、天保九年(一八三八)の椎葉山村々高覚(相良家文書)では高一石六斗余。

高尾村
たかおむら

[現在地名]加賀市高尾町・豊町ゆたかまち

田尻たじり村の南にあり、大聖寺だいしようじから小野坂おのざか峠を越えて小塩辻おしおつじ篠原しのはら方面にいたる古い往還が村を縦断する。「源平盛衰記」巻三〇に寿永二年(一一八三)六月篠原の合戦に敗れた平家軍が敗走した所の一つに小野寺林おのでらばやしがみえる。「三州志」は小野寺は「白山之記」に白山五院の一つとしてみえる「小野坂」と同一とする。小野坂寺は小野坂峠付近にあったと推定され(加賀市史)、当地南西部の高尾廃寺との関連も考えられている。正保郷帳によると高五三一石余、田方二六町二反余・畑方七町余、物成高一七四石余、ほかに新田高九五石余(物成高二〇石余)、田方一町三反余・畑方六町余。

高尾村
こおむら

[現在地名]日野町高尾

根雨ねう宿の南に位置し、明地あけち(明智峠)を水源として北流する真住まなすみ川が板井原いたいばら川に合流する地点にある狭長な村。享保元年(一七一六)郷村高辻帳は「タカヲ」と訓ずる。板井原川沿いを出雲街道が通り、真住川沿いを南下して備中国へ至る往還との分岐点の茶屋付近に、寛政五年(一七九三)板井原宿の新屋忠右衛門が建立し、「右備中道、左上方道」と刻まれた高さ一メートル余の御影石製の道標があった(日野郡史)。拝領高は六三石余、本免は六ツ六分。

高尾村
たかおむら

[現在地名]御調町高尾

公文くもん村の南に位置し、東は山田やまだ川で貝原かいがはら村に接する山村。綾目あやめ川流域に続く緩傾斜面に形成された谷々に立地し、中ほどを石見路(赤名越)が南北に通じる。川の水はほとんど田にかからず、干損に苦しんだといわれる。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳では、高一四四八・九六二石のうしかわ村に含まれている。寛永一五年(一六三八)高尾村御地詰帳(「御調郡誌」所収)に、田方七町一反余で高六七・九〇九石、畠方六町二反余で高三七・四二九石、屋敷三反余で高四・九六五石とあり、この頃分村したと考えられる。

高尾村
たかおむら

[現在地名]牧村高尾

東は朴木ほおのき(現安塚町)、北は高谷たかたに村と接する棚田地帯の集落で、古くから開かれたと伝える。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「田かわ村 下」とある。正保国絵図に村名があり、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では五〇石六斗余。天和三年郷帳では高七一石七斗余、うち山高二石二斗・漆高三石、反別田三町七反余・畑屋敷七町三反余・山林一一町、漆木三〇〇本、家数二一。安永九年(一七八〇)の新田検地では高五一石五斗余・反別七町三反余(牧村郷土誌)

高尾村
たかおむら

[現在地名]榛原町坂口さかぐち

高尾山南麓にあり、東は星久保ほしくぼ村。高尾山中腹に曹洞宗石雲せきうん院があり、高尾山は一山すべて石雲院の境内であった(掛川誌稿)。天文二四年(一五五五)七月六日の今川義元判物写(三浦文書)によると、三浦元政から買得した仁田にた村の知行を今川義元が遠藤楠鍋らに安堵した際、元政から高尾へ寄進されていた一石余は除かれたが、この高尾は石雲院をさす。天正一七年(一五八九)七月七日の徳川家七ヵ条定書(板倉文書)によると、徳川氏は高尾百姓らに対し七ヵ条の条規を定めている。

高尾村
たかおむら

[現在地名]福井市高尾町

篠尾しのお村の東南、吉野よしのヶ岳の南麓に位置する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では北宇坂きたうさか(下)(高四四五・一一一石)に含まれる。村名は正保郷帳にみえ、田方一一三石余・畠方四六石余。福井藩領。

天文元年(一五三二)朝倉孝景に招かれた、南都の医僧谷野一柏が著した医書「八十一難経」の奥書に「越前州一乗谷之艮位一里許有山、曰高尾、其麓有寺、人号曰高尾寺、有堂女以医王善逝尊像、(中略)時天文五年丙申九月九日 釈尊芸」とみえる。

高尾村
たかおむら

[現在地名]津山市高尾

北は古城ふるじよう村・暮田くれた村、東をさら川が流れ、西は錦織にしこり(現久米郡中央町)。元禄一四年(一七〇一)から宝永六年(一七〇九)まで甲斐甲府藩徳川綱豊領、その後幕府領となり、延享二年(一七四五)から宝暦一三年(一七六三)まで播磨国三日月藩預、同年から天保六年(一八三五)まで下総国古河藩領、同七年から同九年まで幕府領、同年以後再び古河藩領(美作国郷村支配記)

高尾村
たかおむら

[現在地名]八尾町高尾

さかした村の北方、室牧むろまき川右岸にある。元禄一一年(一六九八)の郷村高辻帳では坂ノ下村の枝村新田としてみえ、高二八石。幕末の高三〇石・免四ツ(古高免小物成銀等書上)

高尾村
たこおむら

[現在地名]岡山市山田やまだ 高尾

妹尾せのお村の北、山田村の東に位置し、「備中誌」によればもとは山田村の内であった。寛永備中国絵図・正保郷帳では高一三〇石、庭瀬藩戸川氏領。天和―元禄初期の国絵図(池田家文庫)では幕府領と旗本妹尾戸川領の二給。独立した村名として確認できるのは同絵図までで、元禄郷帳・元禄備中国絵図では妹尾村の枝村となっており、以後廃村となる。

高尾村
たかおむら

[現在地名]竹田市植木うえき

挟田はさだ川中流西岸に位置する。正保郷帳では長田ながた郷に属し、田方六一石余・畑方三三石余で、茅山有と注記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報