相楽郡(読み)そうらくぐん

日本歴史地名大系 「相楽郡」の解説

相楽郡
そうらくぐん

面積:二六一・六四平方キロ
南山城みなみやましろ村・笠置かさぎ町・和束わづか町・加茂かも町・木津きづ町・山城やましろ町・精華せいか

南山城の南部に位置する。北は綴喜郡と境し、東は滋賀県甲賀こうが郡・三重県阿山あやま郡、南は奈良県添上そえかみ郡・奈良市、西は同生駒いこま市と接する。郡東部に南山城村・笠置町・加茂町・和束町があり、西部に木津町山城町・精華町がある。東部は醍醐だいご笠置山地に属し、鷲峰山じゆぶせん(六八五メートル)から笠置山(二八八メートル)に至る一帯はほぼ四〇〇メートルの高原となり、明治初年に開拓された童仙房どうせんぼう集落(南山城村)がある。西部は京都盆地南の木津川河谷(城南平野南部地域)およびその周辺で、傾斜に従って木津川がほぼ中央部を西流し、木津町西部で流路を変え北流する。郡西端は生駒山地の東部甘南備かんなび丘陵が南北に横たわる。

相楽郡については「古事記」垂仁天皇の段に、「甚凶醜きに因りて」返された円野比売が「山代国の相楽さがらかに到りし時、樹の枝に取りさがりて死なむとしき。故、其地を号けて懸木さがりきと謂ひしを、今は相楽と云ふ」という話があり、地名の由来を記す。「日本書紀」欽明天皇三一年四月条に「相楽さがらか郡にして、館を起てて浄め治ひて、厚く相資け養へ」とあり、「続日本紀」大宝元年(七〇一)正月二三日条に「山代国相楽郡令追広肆掃守宿禰阿賀流為小位」とみえる。訓は「和名抄」高山寺本に「アヒラカ」、刊本に「佐加良加」、「延喜式」神名帳に「サカラカ」「サカナカ」とあって一定していない。大宝元年に郡名がみえるので郡の成立は七世紀後半と考えられる。

〔原始・古代〕

旧石器時代の刃器形石器が木津町岡田国おかだくに神社境内地で発見され、縄文時代の遺物は石棒が精華町大字下狛しもこま・関西本線加茂駅付近・木津町から、石鏃が加茂―笠置間などで発見されている。

弥生時代の遺物は山城町・精華町などに多くみられる。前期の土器片が木津町木津高校敷地から発見され、山城町の湧出宮わきでのみや遺跡は中期の土器などを多く出土し、南山城唯一の本格的弥生中期遺跡として知られる。同じく山城町の平尾城山ひらおじようやま古墳丘の弥生式土器の発見は山頂に集落跡が推定され、また有樋式石剣が笠置町笠置山頂から発見されている。山城町の椿井大塚山つばいおおつかやま古墳をはじめ木津川沿岸丘陵に多くの古墳がある。古墳後期の円墳も郡内各地にみられる。相楽郡の特徴として渡来系氏族の集住と開発が指摘される。狛(高麗)氏は山城町に高麗こま寺、精華町に下狛寺などを建て、いずれも白鳳期の創建といわれる。六世紀欽明天皇は高句麗からの使を「相楽館さからかのむろつみ」「こまひのむろつみ」に遇した(日本書紀)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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