馬町(読み)うままち

日本歴史地名大系 「馬町」の解説

馬町
うままち

[現在地名]新宮市馬町一―二丁目・大橋おおはし通四丁目・新宮

新宮城下を南北に貫通する横町よこまち(現国道四二号)を挟む両側町。北は竜子りゆうこ橋を隔てて下横しもよこ町、南は宇井野地ういのじ

江戸時代初期頃の新宮古図(新宮木材協同組合蔵)には町名はみえないが、当町付近には多くの町家と在家が描かれ、ほかに百姓家と三ヵ寺(浄泉寺・妙体寺・加納院)を記す。街道筋に位置するため、伝馬所・旅籠屋・高札場などが設けられ、人馬の往来で賑った。

馬町
うままち

[現在地名]盛岡市肴町さかなちよう清水町しみずちよう南大通みなみおおどおり二丁目

十三日じゆうさんにち町の南西に沿って延びる両側町で、三町半ほどの町人町(「盛岡砂子」など)。南東は新穀しんこく町、北西は六日むいか町、西南は穀町、北裏は十三日町に接する。寛永城下図に新馬口労しんばくろう町とあるが、「雑書」慶安四年(一六五一)一二月一七日条に新馬しんうま町とみえ、五日市設定の訴えを認められている。元文城下図には馬町とみえ、文化九年(一八一二)馬喰ばくろ丁と改称されたというが(内史略本「盛岡砂子」)、「御家被仰出」によれば同年以後も馬町であった。


ばくろちよう

[現在地名]弘前市馬喰町

城の北側に位置し、西は若党わかどう町、東は座頭ざとう(現小人町)小人こびと町、北は大久保おおくぼ堰を挟んで春日かすが町と接する。

正保三年(一六四六)津軽弘前城之絵図(内閣文庫蔵)では、町屋として町割されている。慶安二年(一六四九)の弘前古御絵図(市立弘前図書館蔵)には博労町と記され、牢屋敷のほか一六軒の「はくらう」と一軒の侍屋敷があった。寛文一三年(一六七三)弘前中惣屋敷絵図(同館蔵)においても変化はなく、牢のほか馬喰と推定される町屋一五軒と侍屋敷一軒がある。

馬町
うままち

[現在地名]日光市本町ほんちよう安川町やすかわちよう

大黒だいこく山南麓、大谷だいや川北岸段丘上にある。東西に馬町通が通じ、東は山内賄さんないまかない坂、西は四軒しけん町を経て中禅寺ちゆうぜんじ道に至る。西は四軒町、南は山内五谷の一つ西にし谷、東は同じく善女神ぜんによじ谷。もともとは善女神谷の一部で山内に含まれると考えられるが、役所などが置かれたこの一画は馬町と称され、山内や日光町中とも性格を異にした。寛永一五年(一六三八)一月二七日、「馬町弥陀堂ノ辺」の町屋より出た火事は日光西につこうにし町・善養寺ぜんによじ(善女神)谷を焼いたという(旧記)。同一七年に山内から切離されて屋敷地となり、日光目代山口氏の役宅が置かれた。


ばくろうまち

[現在地名]沼田市 馬喰町

坊新田町ぼうしんでんまち筋の東、本町ほんちよう上之かみの町より南に延びる通りに面する。南端に馬喰町木戸があり木戸の外は東西の通りで丁字形となる。南の沼須ぬます村とははけた坂で、また同村上組を経て糸井いとい(現利根郡昭和村)とはいち坂で結ばれる。「沼田町記」延享五年(一七四八)写分では、寛永二〇年(一六四三)に本町の町家を半間ずつ詰め、荒町あらまち筋から南へ新道をつくり、新たに当町を割立てたとする。当町の通りは幅七間だが、本町通との交差点手前南北三七間は道幅一間と狭くなっていた。

馬町
うままち

[現在地名]長崎市馬町

炉粕ろかす町の南にある長崎そと町の一ヵ町で、陸手に属した。町並は長崎路の両側に東西に形成される。伝馬を供給していたことから馬町と称した。馬町口の堂門どうもん橋は長崎氏の代の架橋で、当時は郭門に相当したという(長崎名勝図絵)。元和八年(一六二二)のドミニコ会宛の長崎ロザリオ組中連判書付に「馬町」のキリシタン「安当仁与」「まちやす」「まりや」が署名している。寛永長崎港図に馬町と記される。寛永一九年(一六四二)の平戸町人別生所糺によれば、平戸ひらど町の長兵衛の女房は平戸生れで、同一〇年父母とともにはじめ「長崎馬町」に来たという。


ばくろうまち

[現在地名]福島市豊田町とよだまち

奥州道中に沿って南北に延びる両側町で、南端を西に折れると北南きたみなみ町。馬苦労とも記し、古くは町と称されたという(嘉永五年「聞書覚」穀三文書)。北端は福島城下の出口にあたり、仙台口と称されて枡形が設けられた。当町中ほど東側にはだい町口がある。町西裏の仲間ちゆうげん町には堀田氏福島藩時代に仲間が居住したという。延宝元年(一六七三)の福島町検地不納高反別帳写(福島市史)によれば、反別一町一反五畝余、高一一石五斗余。


ばくろちよう

上京区御前通今小路上ル下ル

北野天満宮きたのてんまんぐうの鎮座地。町の東寄りを御前おんまえ通が南北に、南を今出川いまでがわ通が通る。北隣の北町域に二ヵ所の飛地がある。

寛永以後万治以前京都全図に「馬喰丁」とある。明治維新前は北野天満宮領で、御前通の東側には宮仕が集住し、陰陽師も居住。また上七軒遊郭に隣接し、宝永四年(一七〇七)には六軒の茶屋があった(京都御役所向大概覚書)。「京羽二重織留」には「名酒屋、北野経王堂前 この花 津国や」とある。


ばくろちよう

[現在地名]西区天神山てんじんやま

北はやなぎ町、東は巾下白壁はばしたしらかべ町、南は押切おしきり村、西は鍛冶屋横かじやよこ町に接する南北の町筋。もと押切村のうちで、下級武士の屋敷が多かった。町名は昔この辺りが馬喰(伯楽)の居住地であったためといわれる。町の中央を南北に道路が通り、その南端にある一本の古い榎は中世の土豪大屋佐渡守の城跡の木と伝えられる(金鱗九十九之塵)。町の北西一帯は広大な志水甲斐守の下屋敷で、その車寄(市指定文化財)を改造したと思われる門が児玉こだま町大屋邸に現存し、志水家の臣で儒学と蘭学に詳しく、また舞楽の大家と称された小川守中の居宅もあった。

馬町
うままち

[現在地名]五戸町 博労ばくろう

五戸町の南東に位置し、北西はおお町、南西はしん町に接する。享和三年(一八〇三)の仮名付帳に馬町とあり、家数は四八。藩政期末の北奥路程記(岩手県盛岡市中央公民館蔵)の絵図では下大しもおお町の南東にみえる。うえ町に属する。駅場の新町に隣接し、馬喰宿があったものとみられる。


ばくろうまち

[現在地名]黒石市弥生やよい

黒石陣屋の東北にあたり、鍛治かじ町とてら町の東端を南北に結び、南は清右衛門せいえもん派に接する。享保(一七一六―三六)頃の黒石府家之図(浅瀬石川郷土誌)には、馬喰町はみえないが、黒石神明宮のことを記した御宮伝記神職由緒留書(黒石地方誌)の享保一四年の記事に「馬喰町名主 巳之助」とある。


ばくろうちよう

[現在地名]新庄市大町おおまち

羽州街道に沿い、南は清水川しみずがわ町、北は南本みなみほん町に続く。幕末の新庄城下町絵図(松山町資料館蔵)によれば、南本町との境は鉤形に折れており、見通せないようになっている。延享三年(一七四六)の家数五〇、宝暦一一年(一七六一)の家数五〇、天明八年(一七八八)の家数四五・人数一四五、馬七、天保九年(一八三八)の家数四三・人数一六九、馬一(新庄城下町の研究)

馬町
うままち

[現在地名]滑川市馬町

北陸街道の南に位置し、南は寺家じけい村、北はあら町。おお町にあった本陣(桐沢家)の馬屋敷が正保二年(一六四五)に荒町の北陸街道南側に移転し、元禄三年(一六九〇)の大火後に跡地に人家が立並ぶようになったのが成立の端緒といわれる(滑川町誌)


ばくろうちよう

[現在地名]松本市本庄ほんじよう一丁目

松本城下町の枝町一〇町の一。ほん町の南に続く町で、江戸時代初めは、町割だけできたが空白の個所があった。博労町とも書く。また馬町ともいう。「信府統記」に、「馬喰町 南北ノ町ナリ、長サ二町半、或ハ二町二十七間共、都テ家数八十四軒、町幅四間、橋二ケ所、南木戸入口東ノ方ニ二間九尺番所アリ、西ノ方ニ町番所アリ、両脇ニ邑囲柵、左右土手列樹松アリ、堀堰幅一間三尺石橋アリ、長二間幅九尺、同所入口東側十王堂常念仏、町中ノ橋ヨリ南ヲ茶屋町ト云フ、東側作場ヘノ通路アリ幅二間木戸アリ、暮六ツ切出入ナシ、長沢川橋 長三間一尺、木戸口番所アリ、馬喰町木戸ヨリ本町木戸マデ拾五間三尺橋共ニ、此間ニ高札東向ニ建、東西作場道アリ、円乗院 東ノ方ニアリ羽黒山行人ナリ」とある。


ばくろまち

[現在地名]長野市松代町馬喰町

紙屋かみや町の西続き、清野きよの村分の新馬喰町に続いて谷筋道が城下町から抜けるところにある町人町。初めは博労町と記されていたというが、伯楽渡世の者が居住し、もっぱら伝馬の用を務める者が多かったことからこの称となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報