日光山内(読み)につこうさんない

日本歴史地名大系 「日光山内」の解説

日光山内
につこうさんない

[現在地名]日光市山内さんない安川町やすかわちよう本町ほんちよう

大谷だいや川とその支流稲荷いなり川の川合の段丘上に位置し、北は恒例こうれい山、西は御堂みどう山・大黒だいこく山。北東は稲荷川を境に外山とやま村、西は日光西につこうにし町、東は大谷川を境に日光東につこうひがし町。日光山の中心地帯で、中世までは日光三社権現(現二荒山神社)満願まんがん(現輪王寺)の境内地、近世は東照宮、大猷たいゆう院および中世以来の諸堂社を含む社寺境内地をいう。天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉の日光山領寄進状(御代々御朱印写)には「当山」、寛永一一年(一六三四)の徳川家光の日光領寄進状(日光山御判物之写)には「山中」、慶安五年(一六五二)の梶金兵衛宛下知条々(日光山御堂方書物之写)にも「日光山中」とある。「桑都日記」同年六月一三日条には「御山内」とあり、天保八年(一八三七)刊の「日光山志」など江戸後期には「山内」の名称が多くみられ、幕末から明治初期には一般化した。

天平神護二年(七六六)大谷川を渡って山内に入った勝道が四本龍しほんりゆう寺を建立、大同三年(八〇八)下野国司橘利遠が同寺の南に本宮を建立、弘仁一一年(八二〇)空海が滝尾たきのお権現や(小)だま堂を、嘉祥元年(八四八)円仁が滝尾山麓に金堂(現三仏堂)常行堂法華堂の三堂を創建、同三年仏岩ほとけいわ(恒例山)麓に新宮(現二荒山神社本社)を建立したと伝える。しかし空海・円仁の来山は史実とは考えられず、これらの創建年代は伝承の域をでない。ただ久安元年(一一四五)と推定される常行堂の創建年代からすれば、平安末期には日光山の中核となる堂社がほぼ完備されていたと考えられよう。治承年間(一一七七―八一)那須氏出身の禅雲と小山一族常陸国大方氏出身の隆宣との間に座主職争いがあり、山内に籠る隆宣側を禅雲側数千騎が攻撃、隆宣は敗走した。この時、四本龍寺をはじめ多くの寺院・社殿が焼失し一時衰退したという(別当次第)。その後、鎌倉幕府の保護を受け、承元年間(一二〇七―一一)二三世座主となった弁覚により新宮・三仏堂をはじめとする堂社が再建され、仁治元年(一二四〇)には日光山の本院として四本龍寺に代わる光明こうみよう院が建立された。弁覚の時「僧舎増シテ三百坊ニ至ル」(晃山編年遺事)という繁栄をみた。建長三年(一二五一)山内の内紛により常行堂・法華堂・鐘楼ほか僧坊が焼失し、同七年には再興されたという(堂社建立記)。文保三年(一三一九)の「宴曲集別紙追加曲」補陀落霊瑞のなかに「山菅の橋の深沙王」「四本龍寺」「本宮」「小玉殿」「亀山てふ滝の尾」などの堂社や三月会、新宮の祭礼が歌われている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「日光山内」の解説

にっこうさんない【日光山内】


栃木県日光市山内にある地名で、日光山内とは日光東照宮(とうしょうぐう)・日光山輪王寺(りんのうじ)・日光二荒山(ふたあらやま)神社・家光廟大猷院(たいゆういん)などのある一帯をさす。日光市街とは大谷(だいや)川が境となり、市街から日光橋を渡ると日光山内に入る。2つの神社(日光東照宮、日光二荒山神社)と1つの寺(家光廟大猷院を含めた日光山輪王寺)を一般に二社一寺(にしゃいちじ)と呼び、建造物は国宝や重要文化財になっている。日光の開祖である勝道上人(しょうどうしょうにん)は、下野国芳賀郡(現在の栃木県真岡(もおか)市南高岡)の人で、735年(天平7)に生まれ、7歳のある夜、明星天子が夢に現れ、「仏の道を学び、日光山を開け」と告げたという。勝道上人と10人の弟子はこのお告げに導かれて782年(天応2)に二荒山(男体山(なんたいさん))の山頂をきわめ、日光を開いたといわれている。1998年(平成10)に国指定特別史跡・特別天然記念物に指定され、翌年には二社一寺が世界遺産に登録された。JR日光線日光駅、東武鉄道日光線東武日光駅から車で約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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