五戸村(読み)ごのへむら

日本歴史地名大系 「五戸村」の解説

五戸村
ごのへむら

[現在地名]五戸町 上大かみおお町・下大しもおお町・しん町・しん丁・愛宕あたご丁・あら町・博労ばくろう町・川原かわら町など

五戸川の中流左岸の沖積低地右岸丘陵地に位置する。東は兎内うさぎない村、西は石沢いしざわ(現倉石村)、南は扇田おうぎた村、北は伝法寺でんぼうじ(現十和田市)に接する。

寛元四年(一二四六)の北条時頼下文(常陸宇都宮文書)に「糠部五戸」とみえ、平盛時が地頭代職に補任されている。建武二年(一三三五)には足利尊氏により三浦介平高継に「糠部内五戸」が恩給されているが(「三浦介高継知行状」同文書)、これらは藩政期の五戸村を含む総称地名で、五戸郷にあたる地域をさすものであろう。鎌倉時代の中心集落は永仁五年(一二九七)の五戸郷検注注進状(新渡戸・岩大文書)にみえる「せきふくろのかう」の比定地である古堂ふるどう油出あぶらで付近と推定されるが、室町時代末期には古堂地区の北の山麓の根岸ねぎしやその東隣の銀杏木いちようのき付近に移動したとみられる。この地域は天正初年頃には新田にいだ村とよばれるようになったといわれる(五戸町誌)

戦国時代より三戸南部氏の支配下に入り、ふる館、五戸館には木村氏が居館していた。天正一六年(一五八八)と推定される九月一七日付の木村杢宛南部信直書状(木村家文書)に「津軽へ者むさと越候由言候間 其方之町へも可至候」とあり、同じく九月二二日付の信直書状(同文書)には「町ニ屋敷何ほと有へく候哉わり候て可申越候」とあって、津軽より引揚げてくる者のために町並を整備することが命じられている。この頃から慶長初年にかけて五戸川右岸の丘陵地に街地が築造され、集落は再度移転したとされる(五戸町誌)。慶長二年(一五九七)高雲こううん寺が下根岸しもねぎしより現在地に移転し、木村氏の旧館の兎内館(古館)には同年より館番が置かれたとされており(同書)、五戸館もこの頃に完成したものとみられる。

参考諸家系図(岩手県盛岡市中央公民館蔵)や木村系図(木村家文書)などによると、一二代勝秀の代に三子が分立し、長男と三男は戸来へらい(現新郷村)又重またしげ(現倉石村)に移住したが、次男秀清は五戸にあって五戸木村氏の祖となったと伝える。天正一七年秀清の子秀勝は南部信直の使者として豊臣秀吉との接触を図るため前田利家に派遣され(「前田利家書状写」盛岡南部文書)、慶長八年には「糠部郡五戸之内上新田」に一五〇石余を給されている(「南部利直知行状」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報