長岡郷(読み)ながおかごう

日本歴史地名大系 「長岡郷」の解説

長岡郷
ながおかごう

和名抄刊本には記載がない。高山寺本も訓はない。「続日本紀」延暦三年(七八四)五月一六日条に、「勅遣中納言正三位藤原朝臣小黒麻呂、従三位藤原朝臣種継、左大弁従三位佐伯宿禰今毛人、(中略)陰陽助外従五位下船連田口等於山背国、相乙訓郡長岡村之地、為都也」とみえ、同年長岡京造営が着手された。同書延暦四年五月一九日条には、「今年田租、特宜全免、又長岡村百姓家入大宮処者、一同京戸之例」とみえる。同一三年長岡京は廃され平安遷都が行われたが、およそ九〇年後の元慶六年(八八二)一二月二一日、乙訓郡大原野おおはらの(現京都市西京区)などとともに長岡村も「樵夫牧竪之外、莫鷹追兎」の地とされた(「三代実録」同日条)

長岡郷
なかおかごう

「和名抄」所載の郷。東急本の訓は「奈加乎加」。同名郷は山城・近江・陸奥出羽美作・筑前各国にあり、近江国坂田さかた郡の長岡郷の場合も、東急本の訓に「奈加呼加」とある。「延喜式」神名帳には、礪波郡七座のなかに長岡神社がみえ、一〇世紀初めには長岡郷を代表する神社であったことが知られる。「郷荘考」が「糸岡郷七社村に延喜式内長岡神社あり」とするのに対し、「越中志徴」は、近世の糸岡いとおか(現小矢部市など)を長岡の転語とみるも、社地不詳とするが、「日本地理志料」や「三州地理志稿」などは、長岡神社の所在地を糸岡郷七社しちしや(現小矢部市)にあてる点で一致している。

長岡郷
ながおかごう

「和名抄」諸本に訓はない。吉井川の支流さら川下流域の段丘面に位置する、現津山市平福ひらふく・皿・高尾たかお福田ふくだ一帯と考えられる。皿川両岸の山塊にはおよそ二〇〇基の六―七世紀の小古墳が密集し、佐良山さらやま古墳群と総称されている。前方後円墳二基、帆立貝式古墳二基を含むが、径一〇メートル前後の小円墳がほとんどで、六―七世紀当郷域周辺に有力家族が存在したことがうかがえよう。

長岡郷
ながおかごう

「和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠く。他国では近江国坂田郡の同名郷に「奈加呼加」、越中国礪波郡の同名郷に「奈加乎加」(いずれも東急本)の訓を付す。郷域は未詳。「大日本地名辞書」は村山郡の他郷との関係からみて、北村山郡尾花沢おばなざわ大石田おおいしだ(現北村山郡大石田町)富並とみなみ(現村山市)一帯に比定し、天平九年(七三七)大野東人が開いたとする玉野たまの駅や古代の野後のじり駅を郷域内に比定する。

長岡郷
ながおかごう

「和名抄」東急本は「奈加呼加」(ナカオカ)と訓ずる。弘仁一四年(八二三)一二月九日の近江国長岡郷長解(林康員氏所蔵文書)によれば、長岡郷戸主軽継人の戸口の秦富麿が「大原二条三里廿五墓原」の地ほか合計一段を「浅井郡湯次郷戸主従六(位)下的部臣吉野戸中嶋連大刀自」に売渡している。

長岡郷
ながおかごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。「和名抄」の越中国礪波となみ郡長岡郷の訓「奈加乎加」(東急本)などを参考にして「ながおか」と読む。

長岡郷
ながおかごう

「和名抄」諸本とも訓を欠く。「日本地理志料」「大日本地名辞書」ともに現古川市長岡の地をあげる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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