山城国(読み)ヤマシロノクニ

デジタル大辞泉 「山城国」の意味・読み・例文・類語

やましろ‐の‐くに【山城国】

山城

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日本歴史地名大系 「山城国」の解説

山城国
やましろのくに

北は近江国・若狭国、東は近江国・伊賀国、南は大和国、西は河内国・摂津国・丹波国に接し、海には面していないが、中心部の低地に巨椋おぐら池があった。

国名は「和名抄」が「山城夜万之呂」とするように「やましろ」である。表記は山代(古事記)・山背(日本書紀)・開木代(万葉集)・山城が知られるが、のちに述べるような時代による相違が認められる。国名の名義は、本居宣長が「古事記伝」に「稲の苗を蒔生する田を苗代と云如く、かの山の樹の継苗を生ずる地を山代と云なるべし」とするが、谷川士清は「倭訓栞」に「大和国の北にあるをもて名とす。(中略)山代とも書るは訓を借る也」とするのに従うべきであろう。奈良なら山を大和国との境界とし、政権の所在地の大和からみて山(奈良山)のうしろであったために名付けられたと思われる。

古代

〔国勢〕

国の等級は「延喜式」では上国。田数は「和名抄」は「田八千九百六十一町七段二百九十歩」、「伊呂波字類抄」は「本田八千九百六十二町一反」と記し、五畿内国中では大和・摂津・河内より少ない。律令制下では乙訓おとくに葛野かどの愛宕おたぎ・紀伊・宇治・久世・綴喜・相楽の八郡を管轄する。葛野郡・愛宕郡・紀伊郡の全域、宇治郡・乙訓郡・久世郡の一部は現京都市域で、他が府下に該当する。

国府の位置は明確ではないが、「律書残篇」には「山代国、(中略)去京行程半日」とあって、京(平城京)から半日行程の地域に存在したらしく、相楽郡域に比定される。次いで「日本紀略」延暦一六年(七九七)八月二五日条に「遷山城国治於長岡京南、以葛野郡地勢狭隘也」とあるから、ある時期に葛野郡へ移り、それから旧長岡京の南郊に場所を移したことになる。また「三代実録」貞観三年(八六一)六月七日条には「山城国司奏言、河陽離宮、久不行幸、稍致破壊、請為国司行政処」とあるから、さらに河陽かや(現乙訓郡大山崎町)に転じたことになる。

全郡域が現京都市域に含まれる三郡を除いた各郡の郷名は、「和名抄」高山寺本に次のように記す。

<資料は省略されています>

「和名抄」刊本の郷名は、このうち乙訓郡に長岡・石川がなく、久世郡に奈美・宇治・羽栗、相楽郡に蟹幡・祝園・下狛が加わる。「延喜式」神名帳にみえる神社は山城国全体で一二二座、内訳では乙訓郡一九座、葛野郡二〇座、愛宕郡二一座、紀伊郡八座、宇治郡一〇座、久世郡二四座、綴喜郡一四座、相楽郡六座である。畿内国では大和に次いで多い。

税の面では、畿内国として多くの特典をもっていた。

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改訂新版 世界大百科事典 「山城国」の意味・わかりやすい解説

山城国 (やましろのくに)

旧国名。山州。城州。現在の京都府南部の地。東は近江,伊賀,南は大和,西は河内,摂津,丹波に接し,四方ともに山で,周辺山地からの木津川,宇治川,鴨川(賀茂川),桂川,淀川などが平野部に流れる。人文のうえでは,中央にある巨椋池(おぐらいけ)(干拓事業で消滅)の北の京都盆地・周辺山地と,南山城地域とに区分できる。

五畿内の上国(《延喜式》)。《和名類聚抄》に田数8961町余とある。乙訓(おとくに),葛野(かどの),愛宕(おたぎ),紀伊,宇治,久世(くぜ),綴喜(つづき),相楽(さがら)の8郡から成り,畿内国ではあったが当初の順位は大和,河内,摂津につぐ4位で,836年(承和3)にようやく1位とされた。国府ははじめ大和に近い木津川市の旧山城町にあったと思われるが,平安京遷都ののち葛野郡(右京区),長岡旧京の南(長岡京市),さらに河陽(かや)(乙訓郡大山崎町)へと三転している。国名は政治の中心地であった大和からみて山のうしろであるという〈やまうしろ〉が転訛したものと考えられているが,はじめ〈山代〉と記し,のち〈山背〉,さらに山城へと改められた。山代から山背への改称の時期は明確ではないが,《古事記》はすべて山代,《日本書紀》は山背を使用しており,701年(大宝1)1月の記事にはまだ山代と記されていて,この直後に山背の表記が一般化するところから,701年3月の大宝令の施行期に山背と公称されるようになったと思われる。

 政治の中心地である大和から近く,開発の手は早くから及んでいた。木津川,桂川の流域には弥生時代の遺跡も多く,また4世紀築造の椿井(つばい)大塚山古墳(木津川市の旧山城町椿井)は三十数面の魏鏡を出土していることで著名である。仁徳天皇の時代に栗隈大溝(くりくまのおおうなで)が掘られたといい,また山背国造,鴨県主,栗隈県などの国造(くにのみやつこ),県主(あがたぬし)もみえ,さらに深草屯倉(みやけ)の名もあるところから,早くに大和朝廷の支配下に入ったことが知られる。当国の風土記には鴨神が大和の葛城(かつらぎ)から奈良盆地を北上し,木津川を下って京都に至ったとあり,おそらくは4世紀ごろにこの地域は飛躍的に発展したらしい。やがて5世紀後半には新羅系渡来氏族の秦(はた)氏が京都盆地に定住し,南山城には上狛(かみこま)(木津川市の旧山城町),下狛(相楽(そうらく)郡精華(せいか)町)の地名が残り,また高麗寺(こまでら)があるように高句麗(こうくり)系渡来氏族の狛氏が住んでいた。この両氏によって大陸,朝鮮半島の先進的技術がこの地域にもたらされた。継体天皇は筒城宮,弟国宮を営んだといい,これは綴喜,乙訓の郡名にちなむものであるが,遺跡は確認されていないものの宮都が設けられても不自然でないほどの地域の発展があったことを物語る。奈良時代相楽郡に恭仁(くに)京が営まれるのもそのためである。恭仁京は数年で廃都となるが,やがて784年(延暦3)乙訓郡に長岡京が,ついで794年葛野郡に平安京が営まれるにいたって,山背は山城と改められた。山背道(やましろじ)と呼ばれた古北陸道,丹波道(たんばじ)と呼ばれた古山陰道が通過していて,かなり先進的な地域としての性格をもってはいたが,これ以後は古代の政治,経済,文化の中心地となったのである。
執筆者:

中世の山城国は,その中心である京都が,奈良とともに多くの荘園領主の集住地であったために,諸国からの物資がさかんに流入し,そのために街道や河川運送の発展が見られた。また,京都は一貫して王朝政権の中心地であり,室町時代には公武両政権の政庁をかかえたことによって,人口の集住を支える商工業の発達をみた。政治の中心地であったために,保元・平治の乱(1156,1159)以来,戦国の争乱まで,治承・寿永の内乱,南北朝内乱,応仁・文明の乱というように,多くの内乱の主戦場となり,そのために多くの民衆が戦乱や兵粮米(ひようろうまい)の徴発に苦しむという側面もあった。また,山城国の荘園は小規模なものが多く,開発領主に代表されるような有力な在地領主が存在せず,早くから村落の自治的な結合が発達し,それを基盤として,荘園領主に年貢減免や井料の下行(げぎよう)を要求する荘家の一揆(しようけのいつき)が頻発した。一方,京都や奈良の影響によって貨幣経済の浸透も早く,貨幣の貸借を前提とする土地移動も激しく,その影響によって,徳政令(とくせいれい)を要求する一揆がさかんに起きた。応仁・文明の乱後,諸国の荘園からの年貢が納まらなくなると膝下荘園への依存度が高まり,室町幕府が全国への段銭(たんせん)などが賦課できなくなると,山城国への臨時課税が増加するなど,中世末の山城国は都市京都を支える重要な基盤となった。

1185年(文治1)11月,源頼朝は北条時政を京都に送り,洛中の守護と近国の管轄にあたらせた。これ以降,承久の乱(1221)までは北条時政,平賀朝雅,伊賀光季が京都守護として山城国の支配にあたったが,鎌倉幕府の山城・京都への支配力は十分に浸透していなかった。そこで承久の乱後は,北条氏の一族が六波羅探題(ろくはらたんだい)として京都に派遣されることになった。六波羅探題は洛中の警固と西国(さいごく)の訴訟を所管した。このとき,山城国には守護を設置せず,その検断権を六波羅探題に兼帯させたのは,王朝権力の所在地である点を考慮して,直接一族の支配下に置こうとしたものである。

 足利尊氏は京都に幕府を開くとともに,革島荘(現,京都市西京区川島)の革島氏,寺戸(てらど)郷(現,向日(むこう)市寺戸町)の竹田成忍,大畠定覚一族,上久世(かみくぜ)荘(現,京都市南区久世)の大弐房覚賢,西七条(現,京都市下京区西七条)の越前房友快などの西岡(にしのおか),中脈(なかすじ)の地侍(じざむらい)に地頭職(じとうしき)を与え,御家人(ごけにん)に組織している。これは,新たに幕府を開いた山城国において,直轄軍事力の基盤を作る目的があったからである。この室町幕府の開幕初期には山城国に守護を設置しなかった。室町時代の守護は幕府裁許の結果を現地において実行する使節遵行(しせつじゆんぎよう)を重要な職務としているが,守護の設置がされなかった山城国では,在京の御家人2人がこの任にあたった。山城国を直接支配下に置こうとする幕府の意図にもとづくものである。

 ところが1353年(正平8・文和2)以降は,この両使による遵行がなくなり,侍所頭人(さむらいどころとうにん)が山城国の遵行を行うようになる。侍所頭人が山城国守護を兼帯することになったのである。その後,85年(元中2・至徳2)には山名氏清(やまなうじきよ)が守護に補任されることによって,はじめて単独の守護が成立した。明徳の乱(1391)に山名氏清が敗北したのちは,将軍の近習や侍所頭人が守護となっているが,いずれもが短期間で交替している。これも,山城国が特定の大名の領国化することを嫌った幕府の配慮であろう。その後,管領(かんれい)畠山満家が守護に補任されることによって,管領の兼帯する事例が生まれた。こののち,畠山氏が補任されることが多くなるとともに,畠山氏も山城国の在地武士を積極的に被官化する意図を示し,これが応仁・文明の乱(1467-77)の一原因となった。応仁・文明の乱後も,畠山氏の山城国への影響が大きかったが,1485年(文明17)に山城国一揆が成立すると上(南)山城3郡(相楽,綴喜,久世)では93年(明応2)までの8年間,惣国の組織が自検断を行う国持体制が続いた。山城国一揆の崩壊後は,細川氏の山城国支配がしだいに定着していった。

山城国に存在したことが明らかな荘園の数は,現在のところ約150荘である。そのうち,山城最南部に位置する相楽郡の荘園は興福寺,東大寺など南都寺院の所領であり,綴喜,久世両郡には石清水(いわしみず)八幡宮領の荘園が多かった。その他の地域は京都の寺社や公家の所領で占められていたが,室町時代になると小規模な武家領も成立する。山城の荘園は,その開発の事情を反映して,総じて小規模なものが多い。また京郊の地域では,荘園の間に零細な官衙田が散在していたために,複雑な様相を呈していた。1村落が数ヵ荘に分かれていたり,一荘の耕地が数村落に散在していたりする事例が多く,農民の日常生活の組織である村落と荘域とが必ずしも一致しないところに山城国の荘園の特色がある。

 山城国の荘園は,直接的に荘園領主の日常生活に必要な物資を供給する必要があったことから,農村への貨幣経済の浸透が早かったにもかかわらず,代銭納の成立はおそかった。大部分の荘園が中世末まで現物納を要求されていた。ことに,応仁・文明の乱後になり諸国の荘園からの年貢が納められなくなると,山城国の荘園は,その重要度を増した。久我(こが)家の久我荘,伏見宮家の伏見荘,九条家の東九条荘などは,名字の荘園と呼ばれるようになった。

諸国からの物資が京都や奈良に集められたために,交通の要衝には運送業者が発達した。木津の津には12世紀初頭に車借(しやしやく)の存在が知られ,鳥羽の車借も有名である。また,淀,山崎,木津などでは,馬借(ばしやく)が集住し物資の運送にあたっていた。これらは,淀川や木津川の諸津に発達したものであるが,諸港には問丸(といまる)が成立し中世を通じて活躍した。

 商工業の発達は,寺社を本所(ほんじよ)とする(ざ)の組織を多く生み出した。これらの座の構成員は,本所に出仕して労役を奉仕したり,野菜や魚鳥,薪炭などを貢進することによって,商工業の特権を認められていた。山城国には40以上の座の存在が知られているが,京都以外では大山崎(おおやまざき)油座,八幡の米座,大原の竹座,木津の塩座,材木座,火鉢作京座(ひばちつくりきようざ),糟糠(そうこう)座などが有名である。
執筆者:

京都および山城国の近世は,政治的には1568年(永禄11)の織田信長入京に始まる。それは,信長が戦国の争乱を終結させんとし,新たな統一国家を構想して,その統一国家の拠点として京都を位置づけたからであり,信長の位置づけの方向で京都は統一国家形成の核となり,山城国はその基盤として近世を歩んでいくことになるからである。信長は,天下統一のカリスマ的存在として京都朝廷をひきだし,公家や寺院などの伝統的勢力とも多くの妥協を見せながら新統一国家の形成の基礎がためを進めた。本能寺の変後政権の継承者となった豊臣秀吉も同じ路線を,その前半において遂行した。

後北条氏を平定してほぼ統一事業を完了した秀吉は,1590年(天正18)京都改造を行って,近世的統一国家の拠点都市として明確に京都を位置づけ,都市と農村の近世的構図を先駆的に示した。すなわち,近世社会の支配構造は農村からなるべく多くの年貢を生産物=米のままで収奪し,これを都市というマーケットで換金し,領主の軍事的政治的あるいは日常的需要をまかなうしくみであるが,秀吉の京都改造は,石高制(こくだかせい)をになう中央市場として京都を経済都市に育てあげるものだったのである。おそらく,94年(文禄3)からの秀吉による伏見城下町の建設も,中央市場としての京都を政治都市化して武家屋敷を林立させるわけにいかず,京都以外に新たな政治都市を必要としたからであると考えられる。また,伏見城下町の建設は,山城南部の景観を大きく変えた。伏見の城と城下の造成は伏見山周辺でくりひろげられたが,御香宮(ごこうぐう)をはじめ多くの寺社や村が立退きを命じられ,その跡地に新たな町割や堀の建設などの大土木工事が開始された。なかでも,槙島(まきしま)堤を築いて巨椋池から宇治川を分離北上させて伏見城下に引き入れ,さらに淀まで太閤堤を設けて宇治川を淀まで西流させて大坂から伏見への舟運を開いたこと,また宇治川に橋を渡して伏見からまっすぐ南下する新大和街道を設けたことや,伏見城下から東山沿いに北上して京都に至る伏見街道,大津から追分,山科,大亀谷を経て伏見へ入る大津街道,伏見から淀を経て山崎あるいは枚方(ひらかた)を通って大坂に至る大坂街道などの交通網が伏見を中心に開かれたことは,洛南の景観を一変させた。

 1600年(慶長5)の関ヶ原の戦で勝利をおさめた徳川家康も,いち早く京都および伏見と山城国の重要さを認めて政治的にこれを掌中におさめたが,幕府が江戸に開かれ,江戸および駿府が政治都市として重視されるようになるにつれ,伏見の政治的地位は低下した。しかし,京都は近畿および西日本支配の中心として所司代が置かれ,経済都市としての機能も随一であったこともあり,西日本の江戸という位置にあった。このため,京都市中はもとより山城国の民政も,所司代の直接的な支配下にくみこまれた。所司代からの御触(おふれ)の伝達は,京都四条室町の辻の東西南北線で区画された四つの持場ごとに,四座の雑色(ぞうしき)が担当した。

近世の所領配置は,京都近郊に公家・社寺領が多かったことや,政治的意味の大きな知行割がなされたことなどから,政治的動揺の多かった17世紀にはめまぐるしい所領編成がみられたが,1679年(延宝7)の幕領総検地を経て18世紀に入ると一応の安定がみられた。1729年(享保14)の史料《山城国高八郡村名帳》によると,山城国総石高は22万1081石余,これを郡別にみると,最大は相楽郡で3万7131石余,最小は宇治郡の1万5048石余である。

 領主別の所領配置における各郡の特色をみると,京都をとりまく愛宕,葛野,乙訓,紀伊,宇治の5郡では朝廷,公家,社寺,町人などの所領が大部分を占め,武家の領地はきわめて少ない。これら5郡の非武家領の占める割合は愛宕85%,葛野87%,乙訓83%,紀伊56%,宇治86%である。紀伊郡の比率が低いのは,特殊な意味をもつ。伏見町および周辺農村が幕府領にくみ入れられ伏見奉行預りとなっているからである。山城南部に位置する久世,綴喜,相楽の3郡は,北部5郡に比して武家領の占める率が高い。幕府,大名,旗本らのいわゆる武家領は,久世郡85%,綴喜郡45%,相楽郡61%である。綴喜郡では石清水八幡宮領など神社領が22%と禁裏御料(皇室領)が20%,相楽郡でも禁裏御料が27%も設けられているという特殊事情で,武家領の比率が両郡は久世郡に比して低くなっている。以上のような非武家領と武家領との存在状況から,北部山城と南部山城とでは,所領配置が逆転していることがわかる。この北部と南部は宇治川によって分断されているが,一般の武家領が宇治川以北にほとんど見あたらないのに対し,幕府領のみは全郡に所在すること,宇治川以南にも非武家領はまんべんなく散在することなどは,山城国の所領配置の特色といえよう。朝廷,公家,社寺など伝統的勢力の所領は合わせて13万5373石余で山城総石高の61%にあたり,武家領合計は8万1397石余で総高の37%にあたるが,このうち幕府領が5割弱を占めている。

 大名領は,淀を本拠とする淀藩で1万8438石余があり,そのほかに大和の小泉藩と柳生藩および伊勢の津藩と久居藩が数百石から数千石を南部3郡のなかで知行している。このほか,近世初頭には,1593年から1607年まで1万3000石で封じられた御牧(みまき)藩,07年から17年(元和3)まで7万石で松平定勝が封じられた伏見藩,33年(寛永10)まで永井直清が2万石で封じられた長岡藩などが山城国内に本拠を置いたが,いずれも廃藩となって,淀藩のみが廃藩置県まで唯一存続した。

産業

江戸時代の京都は,すでに朝廷や公家だけで語れる都市ではなくなった。そのことは洛中洛外図や京都案内記などの絵画や書籍にも庶民が主役となって登場することでも判明するが,まさに京都は商工業都市として17世紀には人口30万をこえる大都市に発展していた。京都市中は西陣織や友禅染など織物や染物の産地として著名であったが,金工,木工をはじめ小間物細工などの生産からさまざまな問屋商,糸割符(いとわつぷ)商などまで,全国に冠たる経済力と技術とによって都市型の商工業が発展していた(ケンペル《江戸参府紀行》)。一方,京都近郊の農村では,近郊型の蔬菜(そさい)栽培において,聖護院大根,鹿ヶ谷南瓜,内野蕪菜,堀川牛蒡(ごぼう),壬生菜,九条の真桑瓜(まくわうり)など多くの地名を冠した特産物を産したし,陶器や切石,扇骨,酒造,抹香など加工品の生産も盛んであった。詩歌によまれるほど名の知られた名産が17世紀初頭の山城国内には数多かったが(《毛吹草》),このことは商品化を前提とした特産品生産が早くから行われており,京都はその特産品の市場として村との交流を深めており,人と物品を通じた独自な文化を“花の田舎”として誕生させていた。

京都は幕末に至って再び政治の舞台となって浮上するが,それは京都朝廷が幕末政局の台風の目として,内外に注目されたことによる。この京都朝廷の監督を名目に幕府は京都守護職を京都に設置し,有力諸大名はみずからの発言力の強大化を求めて京都朝廷と接近するために多くの志士を京都へ送りこんだ。このため,京都は幕末に至って町人の都市から武家の都市へと変貌し,武家の京屋敷が林立し,政治的な主義主張による暗殺,天誅(てんちゆう)が市中に横行した。しかし,1867年(慶応3)になると新しい日本の形成は京都朝廷を中心とする方向へと動きはじめ,同年12月9日の王政復古の宣言により,幕藩体制としての京都,山城支配は崩壊し,1868年(明治1)閏4月,戊辰戦争のさなか京都府が成立,山城一国が京都府の管轄下に入ることとなったが,各藩領はそのまま各藩の支配にまかされていた。府は8郡に郡会所代を設けて官員を派遣したが,民政の実態は急激には変わらなかった。1871年,廃藩置県を経ていったん淀県が立庁されたが,同年11月の府県統合で山城は全域京都府となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「山城国」の意味・わかりやすい解説

山城国
やましろのくに

旧国名。現在の京都府南部の地域。山(さん)州、城(じょう)州。東は近江(おうみ)・伊賀(いが)、南は大和(やまと)、西は河内(かわち)・摂津(せっつ)・丹波(たんば)の国々と接していた。盆地の周辺の山々から、高野(たかの)川、賀茂(かも)川(鴨川)、桂(かつら)川、宇治(うじ)川、木津(きづ)川などが流れ出し、合流して淀(よど)川となる。これらが合流する中央低地部分に巨椋(おぐら)池があった。

 古くは「山代」「山背」と記された。古代政治の中心地である大和からみれば、当地は山の後ろ(背後)にあたることから、このように名づけられたとされている。平安京へ都を移した794年(延暦13)の桓武(かんむ)天皇の詔(みことのり)に、「此(こ)の国の山河襟帯(きんたい)にして自然に城を作(な)す。斯(か)の形勝に因(よ)りて新号を制すべし。宜(よろ)しく山背国を改め山城国となすべし」とあり、これ以後「山城」に改められた。

 五畿内(きない)の一つで、『和名抄(わみょうしょう)』には、「田八千九百六十一町七段二百九十歩」とある。乙訓(おとくに)、葛野(かどの)、愛宕(おたぎ)、紀伊、宇治、久世(くぜ)、綴喜(つづき)、相楽(さがら)の八郡に分けられていた。国府は当初、南山城の相楽郡にあったが、その後葛野郡に移され、さらに797年には長岡京の南の地、そして河陽(かや)離宮へと移っている。古代豪族として、葛野を本拠とする賀茂氏のほか、渡来氏族の秦(はた)氏や狛(こま)氏などが著名である。大和に隣接しており、早くから開発が進んでいた。奈良時代に数年間ではあるが、相楽郡に恭仁(くに)京が営まれた。平安遷都以前のおもな道としては、大和から奈良坂を越え木津川の右岸を北上する山背道(やましろじ)(古北陸道)と、木津川左岸を北に上る丹波道(たんばじ)(古山陰道)があった。平安遷都後は、政治・経済・文化の中心地として発展し、人々の往還や物資の流入も盛んとなり、東海道をはじめとする道路や、淀川、木津川などの水運も大いに利用された。

 京都とその周辺には、貴族や大社寺などの荘園(しょうえん)領主が集中しており、全国各地の荘園から年貢など多くの物資が運ばれてきた。そのため早くから商工業が発達し、中世都市京都は目覚ましい発展を遂げる。当国の荘園は、京都の貴族や寺社の膝下(しっか)荘園が多く、また南山城には南都興福(こうふく)寺の荘園があったが、大規模なものはほとんどなく、そこから強大な在地の武士を生み出すこともなかった。むしろ当地は、村落の惣(そう)結合を軸にした農民諸層の活発な活動の舞台となっている。そのため彼らが耕作活動を行うなかで起こってくる水利をめぐる結び付きや村落間の争い、また土一揆(つちいっき)などの動きを示す史料が数多く残されている。

 この王朝権力の中心地に、鎌倉幕府は初め京都守護(しゅご)を置いた。承久(じょうきゅう)の乱(1221)以後は、洛中(らくちゅう)の警固と西国の訴訟を管轄するために六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置し、それが当国内の治安維持にもあたることとして、守護は置かれなかった。次の室町幕府も、当初は守護を置かず、のちに侍所頭人(さむらいどころとうにん)の兼帯するところとなった。南北朝時代末期に至って山名氏清(やまなうじきよ)が守護となったが明徳(めいとく)の乱で滅び、以後はいずれも短期間の守護で、他の国々の守護のように国内の武士を組織して領国化するという傾向はあまりみられない。応仁(おうにん)の乱では、当地は東西両軍の主戦場となった。1485年(文明17)戦乱が続く南山城で、地侍(じざむらい)と農民が両畠山(はたけやま)軍の撤退を求めて立ち上がり、「国中掟法(くにじゅうおきて)」を定め、8年間にわたって国一揆の自治体制が維持された。山城国一揆の崩壊後は、細川氏が山城全域に支配を及ぼした。

 1568年(永禄11)の織田信長入京以後は、その有力な家臣たちの支配下に入り、また豊臣(とよとみ)秀吉は伏見(ふしみ)城と城下町を建設し、城州検地を実施した。江戸時代の当国内には淀藩以外に大きな藩がなく、ほとんどが朝廷、公家(くげ)、寺社の所領で、武家領は南山城に集中していた。京都は江戸、大坂と並ぶ大都市で多くの人口を抱えており、近郊の農村は、宇治の茶、山崎の油、伏見の酒、淀の川魚、八幡(やわた)の筍(たけのこ)をはじめ果物や野菜などの供給地となっていた。

 1868年(慶応4)淀藩領を除いて京都府が設置された。71年の廃藩置県で淀県が成立したが、これものちに廃止され京都府に入った。

[酒井紀美]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山城国」の意味・わかりやすい解説

山城国
やましろのくに

京都府の南半部の旧名。畿内の一国。上国。奈良時代には山背国,山代国と書いた。奈良京から「山のあなた」とされたところ。古くから文化が開け,秦氏狛氏(高麗氏)らの渡来人が住んだ。京都市太秦広隆寺秦河勝聖徳太子から授かった仏像を安置した寺と伝え,木津川市に高麗寺跡があることはこれを物語る。古来の氏族としては賀茂氏があり,『山城国風土記』逸文にみえる賀茂伝説で知られ,賀茂神社(賀茂御祖神社賀茂別雷神社)はこの祖神をまつった神社である。国府の所在地については異説があり明らかでない。国分寺は木津川市の加茂にあり,ここに聖武天皇は天平12(740)年からしばらく恭仁京を置いたこともあった。『延喜式』には乙訓(おとくに),葛野(かとの),愛宕(おたき)など 8,『倭名類聚抄(和名抄)』には 77,田 8961町を載せている。延暦3(784)年には桓武天皇が乙訓郡長岡に新都を造営(→長岡京),同 13年にはさらに葛野郡宇太の地に遷都して平安京と呼んだ。これを機会に国名も山城国と改められ,五畿(→五畿七道)内の序列も大和国に代わって首位となった。権門勢家,神社,寺院などの勢力も強くなって,他国とは大きな相違がみられた。鎌倉に幕府が開かれてからは他国にみられる守護は置かれず,文治1(1185)年北条時政京都守護に任じられたが,承久の乱以後は六波羅探題を設置,これにあたった。建武中興以来再び政治の中心となり室町時代にいたったが,室町幕府の所在地として特殊な地域であった。商工業は全国にさきがけて発達し,ことに室町時代以降には京都に多数の酒屋,土倉が繁栄。その反面,これらの大商人に対する反抗がいわゆる一揆として発生し,さらに室町時代の後期には幕府の権威失墜とともに応仁の乱が起こり,京都市街の大半は焼失した。江戸時代には京都所司代の支配下に置かれ,藩では淀藩に稲葉氏 10万石が置かれた。明治1(1868)年閏4月京都府が置かれ,同 4年7月に淀藩が県となり,同年 11月に丹波国とともに京都府に,さらに 1876年統合されて今日の京都府となった。

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百科事典マイペディア 「山城国」の意味・わかりやすい解説

山城国【やましろのくに】

旧国名。山州,城州とも。畿内の一国。現在の京都府南部。もと奈良山の背後の地ゆえ山背(やましろ)(山代)と書き,794年の平安遷都で山城と改字,全国の政治・経済・文化の中心となる。《延喜式》に上国,8郡。鎌倉時代は承久の乱まで京都守護が山城守護を兼任,以後六波羅探題が管轄,室町時代は幕府の侍所頭人(とうにん)が守護兼任。応仁・文明の乱後は諸勢力抗争の地となったが,織田信長が入京して制圧。江戸時代には京都所司代が置かれ,淀藩があった。→山城国一揆
→関連項目革島荘京都[府]近畿地方久世荘久我荘東山山荘平安遷都雍州府志

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藩名・旧国名がわかる事典 「山城国」の解説

やましろのくに【山城国】

現在の京都府中南部を占めた旧国名。大和(やまと)国(奈良県)の背後にあるところから山背(やましろ)と記したが、平安京遷都により山城と改定。律令(りつりょう)制下で畿内(きない)を形成する5国の一つで、「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)とされた。国府は現在の京都市、国分寺は木津川(きづがわ)市加茂(かも)町例幣(れいへい)におかれていた。古くから開発が進み、渡来系の秦(はた)氏、高麗(こま)氏の本拠地として、また木津川をはじめ交通網が集中していたため、政治的、経済的に重要な地となった。794年(延暦(えんりゃく)13)に桓武(かんむ)天皇が平安京を造営して以来、江戸時代末まで都がおかれた。その間、鎌倉時代京都守護(のち六波羅探題(ろくはらたんだい))がおかれ、室町時代には幕府を開設、山名氏、畠山(はたけやま)氏一色(いっしき)氏などが守護となった。国一揆(いっき)が頻発し、守護を国外に退去させたこともあった。戦国大名は全国制覇のため京都進出を争い、江戸時代、幕府は京都所司代をおき支配したが、淀(よど)藩のほかは大部分が天皇家、公家、社寺の支配地で占められていた。1868年(明治1)に淀藩以外の多くは京都府となり、淀藩地域も1871年(明治4)の廃藩置県で京都府に合併した。◇城州(じょうしゅう)、また雍州(ようしゅう)ともいう。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「山城国」の解説

山城国
やましろのくに

山代国・山背国とも。畿内の国。現在の京都府南東部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では乙訓(おとくに)・葛野(かどの)・愛宕(おたぎ)・紀伊・宇治・久世(くぜ)・綴喜(つづき)・相楽(さがらか)の8郡からなる。国府は相楽郡,葛野郡,乙訓郡の長岡京,同郡河陽(かや)宮と移った。国分寺・国分尼寺は相楽郡(現,木津川市)におかれた。一宮は賀茂別雷(かもわけいかずち)神社(上賀茂神社。現,京都市北区),賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨神社。現,京都市左京区)。「和名抄」所載田数は8961町余。「延喜式」では調は銭のほか広席(むしろ)・狭席・折薦(おりこも)など。740~744年(天平12~16)に恭仁京,784年(延暦3)長岡京が営まれ,794年平安京がおかれ,以後明治期まで政治・経済・文化の中心であった。鎌倉幕府は京都に六波羅探題をおき,足利氏は室町に幕府を開いた。豊臣秀吉は伏見城を築いた。江戸幕府は京都所司代を設置,淀藩もおかれた。1868年(明治元)京都裁判所は京都府と改称。71年淀藩も京都府に合併した。

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世界大百科事典(旧版)内の山城国の言及

【雍州府志】より

…江戸時代に刊行された山城国に関する最初の総合的地誌。著者は黒川道祐。…

※「山城国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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