鋳物師町(読み)いもじまち

日本歴史地名大系 「鋳物師町」の解説

鋳物師町
いもじまち

[現在地名]姫路市京口町きようぐちまち

姫路城東にある外京そときよう口門の東、西神屋にしかみや町の北に位置する町人町野里のざとの鋳物師町に対して京口鋳物師町とか神谷鋳物師かみやいもじ町とも称した。鋳物師棟梁職の居住地といわれる(大正八年刊「姫路市史」)。慶長六年(一六〇一)の町割により町場化するまでは津田つだ(津田野)村域であった。惣社(射楯兵主神社)梵鐘に永正三年(一五〇六)一一月一二日の津田村の大工内記石根丸・小工内記四郎左衛門の銘があり、播磨府中めぐり(智恵袋)にも「鐘をいたりし大工あり、津田野石松丸と承及ける」とあるように、鋳物師が早くから住していた。また津田(津田野)村は窪手くぼて川の東にあって二〇軒の家数があったという(→国衙庄

鋳物師町
いもじまち

[現在地名]出石町宵田よいだ

宵田町の東に位置する町人町。南はほん町。端町で、庄屋は八木やぎ町名主が兼帯。出石封内明細帳などによると、竪町は宵田竪町の東に続く長さ三〇間・幅三間半の東西路の両側町で、道の中央を幅二尺三寸の溝が流れ、東は谷山たにやま川を境に魚屋うおや町に続いていた。文化七年(一八一〇)城下絵図では町内に釜屋(鋳物製造)六・鍋屋(鋳物販売)八がみえる。町名のとおり鋳物関連業者が集住、鍋・釜・五徳のほか梵鐘・半鐘・風呂釜なども製造していた。「諸国鋳物師名寄記」などによると、当町の鋳物師は慶長年間(一五九六―一六一五)に越前国から移住したと伝え、江戸時代には当地が但馬国の鋳物産業の中心地であった。

鋳物師町
いもじまち

[現在地名]小倉北区鋳物師町

小倉城の北西に位置し、北は海(玄界灘)に臨む。西曲輪の大門の西、溜池口門から石畳を渡って入る町並で、東西に連なる不断ふだん町と合せて帯曲輪ともいう。細川忠興の小倉城築城に伴い、むらさき川沿いに点在していた鋳物師を当地に集住させたという。当初は梵鐘の鋳造も行われ、小倉城の漏刻の鐘が破損して祇園社の鐘を代用していたが、享保九年(一七二四)これを鋳造した(「忠雄公年譜」県史資料六)。のちおもに鍋・釜などを製造、幕末には高島流大砲などを造った(小倉市誌)。江戸後期の町屋敷図によると、町家は町筋の北側に三八軒、南側に一七軒、町の突当りの祇園社の北側に一〇軒で、うち釜屋一〇軒・鍋屋四軒・鍛冶屋七軒。

鋳物師町
いものしちよう

[現在地名]静岡市伝馬町てんまちよう横田町よこたまち

華陽院門前けよういんもんぜん町から南東に続く東海道の両側町(町方絵図)。町名は鋳物師が居住したことに由来し、天正一五年(一五八七)の古牒に「よこたいもし衆」とみえ、のち鋳物師は庵原いはら江尻えじり(現清水市)に移ったという(駿河記・駿河志料)。貞享三年(一六八六)の時之鐘鋳直集銭帳(県立中央図書館所蔵文書)によると、家数は丁頭家二・本家二二・借家八。

鋳物師町
いもじまち

[現在地名]福知山市字鋳物師

福知山城下最北端に位置する町で、京街道に沿う。城下一五ヵ町の一であるが、城下を囲む総堀より外側、丹後口たんごぐち門外にあった。主として鋳物などを製造する職人の居住区で、火事の危険を考慮したためと思われる。土地も低湿で洪水の時は最も早く浸水した。

有馬豊氏時代(慶長―元和)の福智山城之絵図には、丹後口門外は「和久市」と記され町名がみえないが、これは省略されたとも考えられ、城下形成当初からの町といわれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報