横田町(読み)よこたちよう

日本歴史地名大系 「横田町」の解説

横田町
よこたちよう

面積:一八九・三五平方キロ

仁多郡の南東部に位置し、北は能義のぎ広瀬ひろせ町、北から西にかけては仁多町、南は広島県比婆ひば高野たかの町・比和ひわ町・西城さいじよう町、東は鳥取県日野ひの日南にちなん町。東境に船通せんつう(一一四二・五メートル)、南境に三国みくに(一〇〇四・一メートル)烏帽子えぼし(一二二五・一メートル)吾妻あづま(一二三八・八メートル)などが連なり、大馬木おおまきの東方にはほとけ(一〇一二メートル)がそびえる。船通山北麓を水源とする斐伊川が町内を西流し、三国山北麓を水源とする支流室原むろはら川が北流し下横田で斐伊川に合流する。また烏帽子山・吾妻山の山麓付近を水源とする大馬木川は北流して仁多町で斐伊川に合流する。「出雲国風土記」の仁多郡に載る室原山は三国山に、遊託ゆた山は烏帽子山に、灰火はいび山は仏山に、横田川は斐伊川に、室原川は室原川に、阿伊あい川は大馬木川に比定され、灰火小はいびのお川は仏山から流れ出る金川かながわ川に比定される。また同書の阿志あしびえ山は当町と日南町との境に比定されている。中世は当町北東部は横田庄に、南西部は馬木まき郷に含まれた。戦国期高鍔たかつば山にふじ城が築かれると、その城下の斐伊川両岸に六日むいか市場・おお市場が開設され、急速に町場が形成されていった。江戸時代も仁多郡に属し、町域内の村はすべて松江藩領であった。関ヶ原の合戦後藤ヶ瀬城は廃されたが、六日市場・大市場は横田町として発展、六日市むいかいちには郡牢や代官屋敷が置かれた。

明治五年(一八七二)一一月以降は第二三区・第二五区に属した。同二二年の町村制施行により横田村鳥上とりかみ村・八川やかわ村・馬木村が成立。昭和一六年(一九四一)横田村が町制を施行。同二八年比婆郡八鉾やほこ村大字油木ゆき(現広島県西城町)の字三井野みいのの一部を八川村に編入。同三二年一町三村が合併して斐上ひかみ町となり、翌三三年町名を横田町と改称し現在に至る。明治三三年中国地方唯一の陸軍省直轄の島根種馬所が小八川こやかわに誘置され、軍馬改良の拠点となった。同年株式会社八雲銀行が創立、のち三成みなり(現仁多町)大原郡大東だいとう(現大東町)に支店が置かれ、県内の銀行では業績が優れていたが、大正五年(一九一六)松江銀行に合併、さらに昭和一六年山陰合同銀行に合併された。明治三四年当町に英国人牧師ナイトによって布教されたキリスト教は、素封家岡崎喜一郎が山室軍平救世軍に共鳴してから盛んとなり、大正一二年竣工したゴシック風の教会堂は宗教活動のほか社会奉仕・社会教育の拠点ともなった。一方、岡崎の私財は明治四四年に県下第二番目に開設された相愛幼稚園、大正四年に相愛裁縫女学校の創立へと注がれ、地方教育に大きな影響を与えた。

横田町
よこたまち

[現在地名]高岡市横田町一―三丁目・西町にしまち金屋町かなやまち

千保せんぼ川左岸、中島なかじま町の西に続く両側町。嘉永三年(一八五〇)の高岡輿地全図によると、千保川左岸に沿い、北は横田袋よこたふくろ町を経て金屋町、南は百姓ひやくしよう(横田村のうち)。北陸街道が通るほか、礪波となみ岩坪いわつぼ渡に至る道(一部サンマイ小路と呼称)があり、高岡町の西口にあたる。地子町で、寛文六年(一六六六)射水いみず郡横田村を請地して成立。その結果町続きの横田村にも高岡町人が多数居住し、住人の支配が錯綜した。翌一一年町人と百姓の雑居が禁じられ、当町内の百姓は横田村に移転した(高岡市史)。「不歩記」によれば歩数三五〇歩。天明五年(一七八五)の家数一七九(家数書上帳)。同七年当町の出火で六四軒を焼失(高岡沿革誌)。寛政七年(一七九五)横田橋が流失した(高岡市史)。明治五年(一八七二)の家数二六八(高岡史料)。当町は水陸の要衝であるため、大木戸や蹲踞場が設けられた。大木戸は長楽ちようらく寺の南方に置かれ(不歩記)、入用銀は横田町・中島町両町へ割符されていた(「高岡度々御検地ノ事」高岡市立中央図書館蔵)

横田町
よこたまち

[現在地名]松本市城東じようとう一丁目・二丁目・女鳥羽めとば一丁目・二丁目

松本城下町の和泉いずみ町・ひがし町の裏にあたる。「信府統記」はうら町と記録。「裏町 北ヲ上横田町、南ヲ下横田町ト云フ、都テ長サ七町二十八間三尺、又ハ七町六間余共、町幅三間、家数百九拾五軒、石橋一ケ所アリ、正行寺 下横田町東側ニアリ、浄土真宗ナリ、寺家四軒アリ、恵光院 下横田町東側ニアリ臨済宗ナリ、庄内蔵 下横田町東側ニアリ表二十五間、裏行町並ナリ、林昌寺 上横田町東ケ輪ニアリ、浄土宗ナリ、長称寺 上横田町ニアリ、浄土真宗ナリ、寺家二軒アリ」とある。

横田町
よこたまち

[現在地名]甲府市武田たけだ二―三丁目

広庭ひろにわ町の西に続く東西の通りの町人地で、上府中二六町の一町。南は三ノ堀を挟んで細工さいく町一丁目、西は大工だいく町と元柳もとやなぎ町の間に交差するまでの小規模な町。町名は慶安三年(一六五〇)の府中伝馬人足割帳(県立図書館蔵)にみえる。享和三年(一八〇三)の小間数書上帳(同館蔵)によると南側五二間・北側五五間。人数は寛文一〇年(一六七〇)二二人(「御用留」同館蔵)・宝永二年(一七〇五)四九人(「上下府中人数覚」同館蔵)・宝暦六年(一七五六)五六人(「宗門帳人数」同館蔵)・寛政一〇年(一七九八)二三人(「上下町中人別改帳」同館蔵)柳町やなぎまち宿へ勤める大助三二町の一町で人足高は四人(甲斐国志)

横田町
よこたまち

[現在地名]福江市福江町・武家屋敷ぶけやしき一丁目

福江城の南西、清浄寺向しようじようじむかえ町の北にあたる。寛永一一年(一六三四)福江直りに伴って町割が行われた武家屋敷町の一つで、同年の屋敷数七(五島編年史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報