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デジタル大辞泉
「野村望東尼」の意味・読み・例文・類語
のむら‐ぼうとうに〔‐バウトウニ〕【野村望東尼】
[1806~1867]江戸末期の歌人。名はもと。号、招月・向陵。福岡藩士野村貞貫の後妻。夫の死後、剃髪して望東尼と称した。和歌を大隈言道に師事。勤王の志厚く、高杉晋作らと親交があったため、姫島に流された。歌集「向陵集」、著「上京日記」など。
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野村望東尼 (のむらもとに)
生没年:1806-67(文化3-慶応3)
江戸末期の女流歌人。〈ぼうとうに〉ともいう。名はもと。筑前黒田藩士浦野勝幸の三女。夫野村貞貫の没後,出家して望東尼と称した。平野国臣,西郷隆盛,高杉晋作らと交わったが捕らえられて玄海の姫島に流された。高杉らに救い出されて周防に移りその地で没した。和歌を大隈言道(おおくまことみち)に学んだ。佐佐木信綱編《野村望東尼全集》がある。〈灯火の影のほのかに見ゆるだに旅ゆく夜半は嬉しかりけり〉(《向陵集》)。
執筆者:竹下 数馬
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野村望東尼
のむらぼうとうに
[生]文化3(1806).9.6. 福岡
[没]慶応3(1867).11.6/13. 周防,三田尻
江戸時代後期の女流歌人。「もとに」とも読む。俗名,もと。黒田藩士浦野勝常の3女。野村貞貫の後妻となり天保3 (1832) 年大隈言道に夫とともに入門。安政6 (59) 年夫と死別後に出家。高杉晋作,西郷隆盛ら勤王の志士と交わり,慶応1 (65) 年に捕われて玄海の姫島に流されたが,2年後に救出され,まもなく没した。歌風は清新。家集に自撰の『向陵 (こうりょう) 集』があり,『上京日記』『姫島日記』『防州日記』『夢かぞへ』などの著がある。
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野村望東尼
のむらもとに
1806.9.6~67.11.6
江戸後期の歌人・勤王家。福岡藩士浦野勝幸の三女。名はもと・もと子。号は招月・向陵。郡利貫と離婚後,福岡藩士野村貞貫の後妻となる。夫とともに大隈言道(ことみち)に師事して和歌を学び,大田垣蓮月・千種有文らと交わった。夫と死別後,出家して向陵院招月望東禅尼と称した。勤王の志士と深くかかわり,1865年(慶応元)筑前国姫島(現,福岡県糸島市志摩)に流罪となるが,翌年救出。家集「向陵集」。
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野村望東尼
江戸時代終わりごろの歌人です。もともとは福岡の出身で、夫が亡くなった後、尼になりますが、天皇の力を重くとらえていたので、流罪になってしまいます。下関や山口に移り住んだ後に防府を訪れますが、防府で亡くなってしまいます。病気で寝こんだ高杉晋作[たかすぎしんさく]が「おもしろき事もなき世におもしろく」と上の句をよんだ後に、下の句「すみなすものはこころなりけり」とよんだと言われています。
出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報
野村望東尼
のむらもとに
1806〜67
江戸末期の女流歌人・勤王家
名はもと。福岡藩士野村貞貫の妻,死別後剃髪。和歌を大隈言道 (ことみち) に学んだ。平野国臣 (くにおみ) ・高杉晋作ら志士を援助したため,1865年捕らえられ,玄界灘の姫島に流されたが,翌年救出された。著書に歌集『向陵集』『姫島日記』など。
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出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
世界大百科事典(旧版)内の野村望東尼の言及
【野村望東尼】より
…和歌を[大隈言道](おおくまことみち)に学んだ。佐佐木信綱編《野村望東尼全集》がある。〈灯火の影のほのかに見ゆるだに旅ゆく夜半は嬉しかりけり〉(《向陵集》)。…
【姫島】より
…水田はなく,かつては女子が対岸の農村へ出稼ぎにいく慣習があったが,現在は若者の多くが島を離れ,夫婦乗船の漁業が行われている。近世は福岡藩の流刑地で,唐津や壱岐を望む南西岸には1865年(慶応1)に配流された幕末の歌人[野村望東尼]の流島の碑と,復元された獄舎がある。志摩町岐志(きし)から定期船が通じる。…
※「野村望東尼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」