三田尻(読み)みたじり

改訂新版 世界大百科事典 「三田尻」の意味・わかりやすい解説

三田尻 (みたじり)

周防国(山口県)佐波郡港町。海上交通の要衝で,長州藩水軍の根拠地,塩の積出港として栄えた。1371年(建徳2・応安4)同所はすでに塩浜が開かれ(今川了俊《道ゆきぶり》),89年(元中6・康応1)将軍足利義満の下向の際に〈御旅所〉が設けられた(《鹿苑院殿厳島詣記》)。防長両国へ移封後,毛利氏は1600-14年(慶長5-19)に御船倉を下松(くだまつ)から三田尻へ移し,水軍の根拠地とした。28年(寛永5)藩直営の開作がはじめて行われ,以後沖合は次々と開作されていった。なかでも塩田の開作はめざましく,99年(元禄12)古浜87町歩,1717年(享保2)中浜20町歩,48年(寛延1)江泊浜67町歩,52年(宝暦2)鶴浜38町歩,67年(明和4)大浜127町歩,87年(天明7)前ヶ浜60町歩などが成立し,三田尻近辺は年産30万石に達する大規模な塩の生産地となった。三田尻港には塩を積み込む廻船が出入りし,瀬戸内海屈指の港町となった。1654年(承応3)藩主毛利綱広は三田尻に御茶屋(藩の公館)を設け,1783年毛利重就が大改築をして三田尻御殿と改称した。1898年山陽鉄道が開通して近代産業発展し,1902年防府町,36年防府市となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三田尻」の意味・わかりやすい解説

三田尻
みたじり

山口県中南部、防府(ほうふ)市の中心地区。旧三田尻村。室町時代から瀬戸内の鞠生松原(まりふのまつばら)の景勝地に臨む良港として知られた。近世初頭には萩(はぎ)藩御船倉(おふなぐら)が置かれて、舸子(かこ)町、船頭町などができ、毛利(もうり)水軍の根拠地となった。本陣、御茶屋、川口番所、勘場(かんば)(代官所)も置かれ、広大な塩田を控えて、三田尻塩や防長米の積出し港として発達し、内海沿岸第一の要津であった。現在は化学工場を中心とする臨海工業地区を形成。

[三浦 肇]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三田尻」の意味・わかりやすい解説

三田尻
みたじり

山口県中南部,防府市の佐波川河口に発達した中心市街地の一部。江戸時代には長州藩の御船倉があり,毛利水軍の根拠地として繁栄し,米,塩などの積出港としても栄えた。現在重要港湾に指定され,周南工業地域の一角を形成,合成繊維などの化学工業が発展。酒の醸造のほか,かまぼこなどの水産加工も盛ん。

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百科事典マイペディア 「三田尻」の意味・わかりやすい解説

三田尻【みたじり】

山口県防府市の一地区。江泊山半島と向島に囲まれた三田尻湾頭にある港町で,萩藩の軍港,米や塩の積出港として発達。現在は埋立地を中心とする化学工業地帯で,港は重要港湾。水産加工が盛んで,かまぼこを特産。

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世界大百科事典(旧版)内の三田尻の言及

【防府[市]】より

…その鳥居前の町としてにぎわった宮市は,近世には中国路の宿駅として栄え,本陣の兄部(こうべ)家は中世より周防相物(あいもの)座の長をつとめたと伝える。三田尻には長州藩の御船倉が置かれ,毛利氏水軍の根拠地であるとともに,塩の積出港として瀬戸内の要港であった。現在,三田尻湾岸の干拓地には鐘紡,協和醱酵の工場があり,また西浦(にしのうら)塩田跡地にはマツダが自動車工場を建設した。…

※「三田尻」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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