超願寺(読み)ちようがんじ

日本歴史地名大系 「超願寺」の解説

超願寺
ちようがんじ

[現在地名]福岡町加茂

元取もとどり山東麓にある。宮尾山と号し、本尊阿弥陀如来。真宗大谷派。開基了信(俗姓桃井光信)本願寺八世蓮如より六字名号を付与され、蓮乗(蓮如次男、瑞泉寺住持)に付けられて、興正こうしよう(現京都市下京区)門徒となった。当寺三世了春は永正七年(一五一〇)山科本願寺で九世実如より本尊を下付された。当寺四世了善は花尾はなお村とふちたに村の間にあった宮尾みやお村に一宇建立し、天文一〇年(一五四一)に没した。

超願寺
ちようがんじ

[現在地名]西山町妙法寺

妙法寺みようほうじ集落の中央、長岡道沿いにある。真宗大谷派、寂定山と号し、本尊阿弥陀如来。天正一一年(一五八三)の創立といい、開基は織田信長の将戸次左近将監(法名法順)という(西山町誌)。寺伝によれば、戸次左近将監は教如の弟子となり、六字名号と上宮太子尊像を携えて赤田あかだ(現刈羽村)城主斎藤下野守のもとへ来て一宇を建立。慶長年間(一五九六―一六一五)教如から寺号を受けたとある。年欠五月一六日の上杉輝虎書状(超願寺文書)によると、小間左近将監に対し新春の祝儀海鼠腸」の礼を述べている。

超願寺
ちようがんじ

[現在地名]高岡市末広町

飛龍山と号し、本尊阿弥陀如来。真宗大谷派。親鸞直弟の横曾根性信が嘉禎元年(一二三五)に創建したという(大谷遺跡録)。明応三年(一四九四)証円の開基ともいう(貞享二年寺社由緒書上)。証円が本願寺九代宗主実如より下付された蓮如絵像は県内最古の蓮如絵像で、干支の「未」がみえるので永正八年(一五一一)・大永三年(一五二三)のいずれかに下付されたものとみられる。

超願寺
ちようがんじ

[現在地名]一宮町塩田

塩田しおだ集落のほぼ中央に位置する。真宗大谷派、山号は塩田山。本尊の阿弥陀如来は一説に恵信僧都の作。応永二年(一三九五)天台宗の僧尭昌が創立した昌願寺が前身と伝え、文安四年(一四四七)本願寺八世蓮如が甲斐を遊化した折、当寺四世了善がその教えに深く帰依して七字名号を授かり改宗、さらに現寺号に改めたという。七世喜西は織田信長と本願寺の抗争にあたり石山本願寺に籠城し、天正八年(一五八〇)信長と顕如が講和した折にも徹底抗戦を主張した子の教如に従ったという(甲斐国志・寺記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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