塩田村(読み)しおたむら

日本歴史地名大系 「塩田村」の解説

塩田村
しおたむら

[現在地名]北区道場町塩田どうじようちようしおだ

道場河原どうじようがわら村の東にある有馬ありま郡の村。村域を長尾ながお川が東流し、北西部で北流する有馬川と合流する。地内の小字になかつぼはやしつぼつかつぼがあることから条里の施行が推測される。慶長国絵図には塩田村・小井口こいのくち村・八幡はちまん村ほか一村(判読不能)が合せて高付され、高九八〇石余。元和三年(一六一七)の摂津一国高御改帳には丹波福知山藩領で同高の塩田村がみえるので小井口以下三村は小村とみられる。正保郷帳には「塩田村小村五つ有」とみえ、高一千四三八石、うち幕府領七五一石余・三田藩九鬼領二七三石余・武蔵岩槻藩阿部領四一二石余。

塩田村
しおだむら

[現在地名]一宮町塩田

かね川の扇状地に位置し、東は神沢かんざわ村など、南は金川を越え下黒駒しもくろこま(現御坂町)。枝郷に町屋まちやがある(甲斐国志)。慶長古高帳に塩田とみえ高五二九石余、幕府領。ほかに国立くにたち領二石余・伊勢領一石余・大明神四石余。貞享二年采地簿(臆乗鈔)には旗本神尾氏がみえ、元禄郷帳でも同家領。宝永二年(一七〇五)以降の領主の変遷は東原ひがしばら村に同じ。天保八年(一八三七)の村明細帳(越山昌造家文書)によると、享保二年(一七一七)甲府藩の検地高五八五石余、うち五三石余が新検出、総反別四三町余。

塩田村
しおたむら

[現在地名]佐伯町塩田

吉井川が蛇行し、東から大前おおまえ川が流れ込む氾濫原北岸にある。東は奥塩田おくしおた村、西の吉井川対岸は福田ふくだ(現赤磐郡吉井町)片上かたかみ往来が通り、福田村とは渡船で結ばれた(備前記)。天平神護二年(七六六)美作国勝田かつた郡塩田村の百姓が、郡家に遠く課役の運送が難儀だとして、備前国藤野ふじの郡に編入されることを申請して許されており(「続日本紀」同年五月二三日条)、塩田村は当地一帯のことと考えられている。

塩田村
しおたむら

[現在地名]大垣市静里町しずさとちよう

杭瀬くいせ川右岸、静里輪中の南部に位置し、南西は綾野あやの村。村内を美濃路が通る。中世には尼寺あまでら庄のうちの郷名で、建久三年(一一九二)三月日の後白河法皇院庁下文(大徳寺文書)に「美濃国尼寺得満塩田神護寺院御領」とみえ、後白河法皇の妃高階栄子の知行地であった。のち山科家領となっている(「教言卿記」応永一七年一月三〇日条)。慶長郷帳には増田村とみえ、村高三二二石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳には塩田村とみえ、徳永昌重(高須藩)領。

塩田村
しおたむら

[現在地名]山崎町塩田

揖保いぽ川の支流菅野すがの川の最上流域に位置し、南は青木あおき村。中世には柏野かしわの庄に含まれていたとみられる。天文年間(一五三二―五五)末頃とみられる一二月一三日の難波備前守宛の宇野村頼請文(赤松春日部文書)に、赤松伊豆守の所領として「播州宍粟郡内塩田村・塩生野村・□村等」がみえる。これは長水ちようずい城主宇野村頼が赤松春日部家の所領を守護赤松氏に引渡した際のもので、郡代としての行動であろうか。年未詳三月五日の同じく難波備前守宛の宇野村春請文(岡山県立博物館蔵赤松春日部文書)には「塩田分三箇村」とあり、「三箇村」は前記の塩田村など三ヵ村とみて誤りない。

塩田村
しおたむら

[現在地名]大和町大字塩田

石城いわき山の北側に広がる山村で、岩田いわた村の東に位置する。南部を田布施たぶせ川が西流、流域に集落が点在する。熊毛宰判に属した。

伊勢神宮の御師が守札の配布先を記した中国九州御祓賦帳の享禄五年(一五三二)分に「しほ田」がみえる。村名は弘治三年(一五五七)八月二八日付の八木源左衛門家文書(「閥閲録」所収)に「熊毛郡塩田村公文名」とみえる。

塩田村
しおだむら

[現在地名]須賀川市塩田

つつみ村の南東、阿武隈川東岸の阿武隈高地中の山間に立地。東端の宇津うづ(六七六・九メートル)に南北朝期南朝方の拠点であった宇津峰城跡(国指定史跡)がある。「奥陽仙道表鑑」に天正八年(一五八〇)二階堂氏方と小山田おやまだで合戦し、敗れた田村清顕勢が小倉おぐら・塩田へ敗走したとある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に塩田とみえ、高五五六石余。江戸時代初め会津領、寛永四年(一六二七)白河藩領、寛保元年(一七四一)から越後高田藩領。

塩田村
しおたむら

[現在地名]高梁市宇治町穴田うじちようあなだ

丸山まるやま村の西、塩田川の上流部に位置する。寛永備中国絵図に村名がみえ、高三五七石余、松山藩領。正保郷帳では高三五〇石余で幕府領。松木山少・草山中とあり、枝村に大平村・赤井田村・広間村をあげる。元禄郷帳でも幕府領。「備中誌」は中野なかの村の条に塩田村庄屋兼帯伊右衛門に安永二年(一七七三)に奇特者として褒美が与えられたとある。「備中村鑑」では高三七四石余で幕府領。

塩田村
しおだむら

[現在地名]いわき市小川町おがわまち塩田しおだ

南東流する夏井なつい川右岸にあり、南東は高萩たかはぎ村、対岸は福岡ふくおか村。正中元年(一三二四)二月九日の小河義綱寄進状(長福寺縁起)に「長福律寺江付進、塩田之村并山境事」とみえ、下小川村長福ちようふく寺に寄進されている。永享一一年(一四三九)三月七日の小河道弘川得分売券(同縁起)によれば、「しをたのむらのうち、おうひらのちしりよりかみゑむけ候て、なるさわのおちあいをかきり、一すて一しやくよけす」の川の得分を、本直三貫五〇〇文で長福寺に売渡している。磐前いわさき郡に属した。磐城平藩領から寛永一一年(一六三四)泉藩領、元禄一五年(一七〇二)幕府領、寛延二年(一七四九)常陸笠間藩領、安永六年(一七七七)幕府領、翌七年磐城平藩預、寛政二年(一七九〇)以降笠間藩領。

塩田村
しおだむら

[現在地名]駒ヶ根市東伊那ひがしいな 塩田

高烏谷たかずや山より西南に流れる天竜川の支流の塩田川を南の境とし、東は火山ひやま村、西は大久保おおくぼ村、北は山地をもって田原たはら(現伊那市)に接する。北に山を背負い緩やかな山麓斜面が南に開けている。

大永四年(一五二四)に諏訪社上社の磯並宝殿及び御柱造宮の課役を務めたが、「磯並造宮料請取日記」(御造宮日記之写)には「しお田之分」として「正物七斗一升、御ほこの本籾二斗、数籾七升ニ一升ずつ、さんくの白米一升、くき代弐十二文、同米三升、大豆三升、朝夕にあわせて已上一斗二升、くさ三(そ)く、これも合て六束也、人数不定候、請所実正状如件」とある。

塩田村
しおだむら

[現在地名]市貝町塩田

見上みあげ村の南西に位置し、あら川支流の塩田川がほぼ東流する。慶安郷帳には村名が記されないが、元禄一一年(一六九八)の芳賀郡内郷村高帳(大畑文書)によれば、当村の幕府領二一六石余が旗本岩瀬に引渡された。元禄郷帳では高二五三石余で岩瀬と旗本野呂の相給。改革組合村では家数一七。正徳五年(一七一五)徳川家康百回忌法会の際、壬生みぶ通鹿沼宿の増助郷を命じられ、勤高二五三石(「鹿沼宿増助郷定」鹿沼市立図書館蔵)

塩田村
しおたむら

[現在地名]夢前町塩田

古知之庄こちのしよう村の東に位置し、東は神西じんさいなか(現香寺町)古知之庄村の枝郷で、宝永六年(一七〇九)分村・独立した(「届書」清瀬家文書)。宝永年間の前之庄組高反別帳写(同文書)では高一三五石余、反別は田方四町三反余・畑方三町余、免五ツ五分、ほかに新田高三石余がある。天保郷帳では「古知ノ庄村枝郷」と注記され、高一四三石余。寛延三年(一七五〇)の村明細帳(塩田庄屋文書)によると夫米・口米・犬米のほか、小物成として草藁銀六八匁余・山役銀二八匁余・山伐札役銀一六匁・栗役銀六分余・御蔵筵藁代二匁余・鮎川運上金一〇両余があり、郷蔵一・池四・井堰五・橋四、家数二八(本百姓二二・水呑六)・人数一二六、牛一五・馬一、庄屋は宗左衛門であった。

塩田村
しおたむら

[現在地名]山東町塩田

磯部いそべ川を隔てて大内おおち村の南東にあたり、ノウジ・なか山・セツミ、タカクラなどの小山に囲まれた谷間に立地する。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に塩田と記される。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙では高一〇一石余。但馬国高附郡訳手控(岡田家文書)では高一〇六石余。熊野神社が鎮座。かつて但馬国三十三所観音霊場の第一七番札所来迎らいこう寺があったが廃寺となった。

塩田村
しおたむら

[現在地名]大東町塩田

上久野かみくの村の北西、あか川の支流阿用あよう川上流域に位置する。東は能義のぎ奥田原おくたはら(現広瀬町)正保国絵図に村名がみえる。承応二年(一六五三)の検地帳によると田方七町一反余・分米八六石余、畑方一町八反余・分米七石余。屋敷一〇(御蔵屋敷一・庄屋一・神主一・役人一・御役目屋敷六)。元禄十年出雲国郷帳では高一二〇石余、寛文四年(一六六四)には本田高一一三石余・新田高二石余。

塩田村
しおたむら

[現在地名]京北町大字塩田

弓削ゆげ一一ヵ村の一。大堰おおい川の支流弓削川右岸に開けた山間集落。北は矢谷やたに村、南は周山しゆうざん五本松ごほんまつ村、東は川を挟んで井崎いざき村、南西は山を越えると周山の熊田くまた村。

慶長七年(一六〇二)幕府領、寛文四年(一六六四)以降丹波篠山藩領となる。

塩田村
しおたむら

[現在地名]いわき市東田町あずまだまち

しぶ川下流東岸に位置し、南は佐糠さぬか村、北は石塚いしづか村。菊多きくた郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から寛永一一年(一六三四)以降泉藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録にしほた村とあり、高五三石余。

塩田村
しおだむら

[現在地名]鶴岡市寿、東田川郡櫛引くしびき丸岡まるおか

川口かわぐち村の東、北流する青竜寺川東岸にある。地名の由来については、小田しようだから塩田に転訛したとの伝承もあるが定かでない。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に丸岡町塩田中村共とみえ、高五四三石余。寛永元年庄内高辻帳に村名がみえ、高一五九石余、寛永三年庄内高辻帳では一四〇石余。

塩田村
しおだむら

[現在地名]矢板市塩田

片俣かたまた村の北に位置する。近世は初め宇都宮藩領、寛延二年(一七四九)下総佐倉藩領、明和元年(一七六四)再び宇都宮藩領となり幕末に至る。元和六年(一六二〇)の検地帳(矢板市史)によると田三二町四反余・畑三三町一反余・屋敷一町九反余。慶安郷帳では高三七〇石余、田方二五四石余・畑方一一五石余。元禄郷帳では高五〇一石余。

塩田村
しおたむら

[現在地名]八開村塩田

東は赤目あかめ村、西は木曾川に面する村。「徇行記」によれば、概高四四七石余は一円蔵入地。田は一四町七反余、畑は一二町八反一畝余。「寛文覚書」に戸数七〇、人数四一五とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報