賀茂郷(読み)かもごう

日本歴史地名大系 「賀茂郷」の解説

賀茂郷
かもごう

「和名抄」は訓を欠く。天平六年(七三四)七月二七日付優婆塞貢進解(正倉院文書)鴨県主黒人の所属を記して「山背国愛宕郡賀茂郷岡本里戸主鴨県主呰麻呂戸口」とある。賀茂・賀茂川などの地名、また賀茂神・鴨県主などの語も「山城国風土記」逸文・「延喜式」・「続日本紀」などに多くみえているが、郷名については天平六年が初見。平安時代中期には

<資料は省略されています>

という官符(類聚符宣抄)が出されて、蓼倉たでくら栗野くるすの上粟田かみあわた出雲いずも四郷が御祖みおや(下鴨神社、現左京区)領に、小野おの錦部にしごり大野おおの郷とともに本郷が別雷わけいかずち(上賀茂神社、現北区)領となっている。

賀茂郷
かもごう

「和名抄」伊勢本・東急本は「加毛」と読む。長岡京跡出土の二枚の木簡に「阿波国名方郡加毛郷庸米六斗」「阿波国名方郡加茂郷庸」とあるのが初出である。「阿府志」は名西みようざい郡境に接する東桜間ひがしさくらま敷地しきじ池尻いけじり井戸いど日開ひがい高輪たかわ花園はなぞのの諸村(旧南井上村域の一帯、現徳島市)に比定する。「阿波志」は「西郡有鴨野村」として郡境を越えた名西郡加茂野かもの(現名西郡石井町)に注目するが、「日本地理志料」はそれを踏まえて花園・川原田かわはらだ黒田くろだの諸村(のちの旧南井上村の一部、現徳島市)でないかとする。そして幕末期、多田直清は「村邑見聞言上記」の名西郡加茂野村の項において、気延きのべ山山頂から名西郡の石井いしい村と白鳥しろとり(現石井町)の境と吉野川沿いの名東郡第十だいじゆう(現同上)佐野塚さのづか(現徳島市)の境を見通したその線より東を名東郡桜間郷と賀茂郷、西を名西郡土師はじ郷と高足たかし郷とする説を出し、賀茂郷を名東郡の芝原しばはら黒田くろだ佐野須賀さのずかの諸村(のちの旧北井上村一帯、現徳島市)に比定する。

賀茂郷
かもごう

芦田あしだ川流域の賀茂盆地を中心とする地域で、津口つくち庄内の郷。建武三年(一三三六)七月一八日付の山内観西軍忠状写(山内首藤家文書)に「津口庄内賀茂郷」とみえ、観西は当郷の一分地頭。同年一〇月一一日の大田佐賀寿丸代藤原光盛軍忠状写(同文書)によると、賀茂郷にあった観西の住宅は南朝方に焼払われている。当郷は津口庄が鎌倉時代に下地中分されたとき地頭方となった。郷内は幾つかの名に編成されており、浄土寺文書に地頭方乙丸おとまる名、地頭方仍利のり二郎丸じろうまる、地頭方頼俊よりとし名、田総文書に包末かねすえ名・末平すえひら名などの名田を記す。

郷内には早くから山内氏一族が勢力を張り、延文四年(一三五九)の沙弥浄通、明徳五年(一三九四)の志津河源信の寄進状(浄土寺文書)によると、これらの土地は累代相伝領とされ、明応五年(一四九六)一〇月二一日にも山名俊豊から所領安堵を受けている(山内首藤家文書)

賀茂郷
かもごう

「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓はない。古来からその所在地について異説のある郷である。「大日本史」国郡志では「今加茂村、在豊川東、属八名郡」とし、「日本地理志料」はこれをうけて豊橋市旧賀茂村の隣に賀茂社領小野田おのだ庄のあることから「属八名郡、盖河道変遷入彼也」といい、豊川の河道の変遷で八名やな郡に移ったとする。郷域は賀茂・西川にしがわ小野田平野ひらの萩平はぎひら中山なかやま馬越まごしの豊橋市の北部一帯に比定している。

これに対して、河道変遷は認めるが、八名郡の賀茂村は賀茂社領となってから生じた名称であり、また同村は養父やぶ郷に属すべきであるとの説もある。

賀茂郷
かもごう

「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠く。

「続日本紀」和銅元年(七〇八)九月二二日条に元明天皇岡田おかだ離宮に行幸したことがみえ、「免百姓調、特給賀茂・久仁二里稲卅束」とある。この賀茂里がのちの賀茂郷であろう。郷としては宝亀三年(七七二)一〇月二三日付上馬養優婆夷貢進文(正倉院文書)に「相楽郡賀茂郷」がみえる。下って承和三年(八三六)二月五日付山城国高田郷長解案(平松文書)によれば、高田たかだ(現京都市右京区)内の土地の売人として相楽郡賀茂郷在住の「大初位上秦忌寸広野」の名がみえ、その郷戸主も秦姓であることが知れる。高田郷に住む買人も秦姓であり、保証刀禰もすべて秦姓である。

賀茂郷
かもごう

洲本川北岸、現下加茂しもがも・上加茂地区一帯に比定される。「和名抄」所載の津名つな郡賀茂郷の系譜を引くとみられる。貞応二年(一二二三)の淡路国大田文に津名郡の国領として賀茂郷がみえ、田二五町六反二〇歩(除田三丁六反一二〇歩・残田二一丁九反二六〇歩で三斗代六丁二反二〇歩)、畠九町五反一二〇歩(除畠一丁・残畠八丁五反一二〇歩)からなる。同大田文では、地頭左馬允経範は承久の乱の際宮方として動員を受けたが、「所労」により合戦に参加せず、淡路に戻ったとされている。

賀茂郷
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「和名抄」高山寺本に載る。東急本は賀美郷と記すが誤り。訓はない。「備陽国誌」以来、現玉野市に含まれる近世の大藪おおやぶ田井たいつちはら宇藤木うとうぎ用吉もちよし木目もくめ広岡ひろおかたき長尾ながおたま利生おどう日比ひび渋川しぶかわ各村の地域に比定されている。推定郷域内には式内社かも神社(長尾)がある。

賀茂郷
かもごう

「和名抄」所載の郷で、諸本とも訓を欠くが、上総国武射むしや郡などの同名郷では加毛の訓を付す。郷名は大和国葛上かずらきのかみ上鳧かみつかも・下鳧郷を本拠とする鴨君または山城国愛宕おたぎ郡加茂郷を本拠とする賀茂県主の氏名にちなむと考えられている。長狭郡の中央部を加茂かも川が流れ、河口には加茂川湊の地名もあることから「日本地理志料」「大日本地名辞書」ともに、その下流域から海岸部にかけての現鴨川市前原まえばら横渚よこすか貝渚かいすか磯村いそむらなどの一帯に比定している。

賀茂郷
かもごう

「和名抄」高山寺本・流布本ともに「賀茂」と記し、訓を欠く。「続日本紀」天平宝字二年(七五八)三月一一日条に「神野郡人少初位上賀茂直馬主」、同書神護景雲二年(七六八)四月二八日条に「神野郡人賀茂直人主」の名があるのはこの郷の住人であろう。

賀茂郷
かもごう

「和名抄」諸本とも訓はない。吉井川の支流広戸ひろど川上流の沖積平野を中心とする地域、現勝田郡勝北しようぼくはら安井やすい付近が郷域と考えられる。藤原宮跡から次の木簡が出土している。

<資料は省略されています>

郡名表記なので大宝元年(七〇一)以後のものであり、備前国に属しているので和銅六年(七一三)の美作分国以前のものである。「備道前国」は「キビノミチノクチノクニ」と読み、古風な国名表記が注目される。

賀茂郷
かもごう

「和名抄」諸本にみえる郷名。訓を欠くが、淡路国津名つな郡賀茂郷および阿波国名方なかた郡賀茂郷の訓「加毛」と同じであろう。天平五年(七三三)一〇月の平城宮跡出土木簡(「平城宮木簡概報」一七―一四頁)に「賀茂郷□□里」とある。現南伊豆町上賀茂かみがも・下賀茂を遺称地とし、その一帯に比定される。郡名郷であり、郡家が上賀茂・下賀茂付近にあったとする説もある。下賀茂には式内社加毛かも神社に比定される加畑加茂かばたかも神社があり、弥生時代後期から平安時代の大集落跡である日詰ひづめ遺跡が青野あおの川の近くにある。

賀茂郷
かもごう

「和名抄」高山寺本・刊本には訓がない。「三河国古蹟考」「大日本史」国郡志・「作手村誌」「日本地理志料」はいずれも南設楽郡作手つくで村中の旧かも村を遺称地として、作手村の南半、または全域をその郷域とする。「愛知県史」はこれを疑い、不詳とする。同じ作手村中の旧田原たばら村を多原たはら郷と考えるからである。「大日本地名辞書」は「今詳ならず、諸郷の位置より推せば千秋村・西郷村・新城町等にあたる如し」として無根拠ながら新城しんしろ市の中・西部に比定する。

賀茂郷
かもごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに「賀茂」と記すが訓を欠く。「芸藩通志」は「賀茂は丁保余原村の内に、鴨田といへるあり、都志見村に賀茂堤といへるあり、是等の所やも知る可からず」とする。「日本地理志料」も都志見つしみ(現山県郡豊平町)賀茂堤かもづつみの地を遺名とし、中原なかばら西宗にしむね上石かみいし・下石(現豊平町)溝口みぞぐち(現山県郡芸北町)の諸村に及ぶとする。

賀茂郷
かもごう

「和名抄」高山寺本に「賀茂」、東急本・刊本は「賀美」と記す。「大日本地名辞書」「岡山県通史」「岡山県百科辞典」は「賀美」、「日本地理志料」は「賀茂」をとる。諸本とも訓はないが、「和名抄」に多くみえる同名郷の読みから「カモ」と考えられる。

賀茂郷
かもごう

「和名抄」諸本に訓はない。郷域は現御津みつ加茂川かもがわ町全域と久米くめあさひ町の江与味えよみ地区を含めた地域と推定されている。加茂川町上加茂かみがもに鎮座するかも神社が式内社に比定されている。「大日本地名辞書」「岡山県通史」は、「新撰姓氏録」右京皇別下の笠朝臣条の説話に基づき、当郷地域を「日本書紀」応神天皇二二年九月一〇日条の、鴨別(笠臣の始祖)が封じられたとある「波区芸県はくぎのあがた」にあてる。

賀茂郷
かもごう

「和名抄」諸本に訓はみえない。境域は加茂湖の北半を囲む加茂歌代かもうたしろ潟端かたばた秋津あきつ横山よこやま長江ながええびす(現両津市)とされる。この域内の加茂歌代・長江に賀茂郡衙が比定される。康永三年(一三四四)一一月一六日の足利尊氏寄進状(園城寺文書)に、近江園城おんじよう寺に対し飛騨国高原たかはら(現岐阜県吉城郡)ほか二ヵ所と替地に「加茂保」など六ヵ所の地頭職が寄進されている。

賀茂郷
かもごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに「賀茂」と記すが訓を欠く。郡名の訓に従う。「芸藩通志」は「賀茂は今の竹原なるべし、竹原東野村、下野村に皆賀茂社あり」とする。「日本地理志料」も郡家の所在地として、竹原東野たけはらひがしの・竹原西野・新庄しんじよう仁賀にか下野しもの下市しもいちの六村(現竹原市)をあげる。

賀茂郷
かもごう

「和名抄」諸本に訓はない。「日本地理志料」は「東作誌」の公郷くごう郷、すなわち加茂かも川左岸の現苫田とまた郡加茂町の下津川しもつがわから河井かわいにかけての地に比定する。これに対し「大日本地名辞書」は、明治二二年(一八八九)成立の東加茂ひがしかも・西加茂両村(現加茂町)とし、加茂川両岸の地とする。

賀茂郷
かもごう

「和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠くが、カモであろう。藤原宮跡出土木簡に「次評鴨里伊加」「次評鴨里鴨止□身軍布」とみえ、平城京二条大路跡出土木簡に「賀茂郷宇良里雀部鳥男」とみえる。鴨里から賀茂郷へと二字好字化がなされている。

賀茂郷
かもごう

「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓はない。「三河国古蹟考」では「賀茂方廃、今碧海郡有鴛鴨村、或是」と記して豊田市鴛鴨おしかも町とし、「大日本地名辞書」では「今詳ならず、野見、寺部の辺ならずや、即本郡の名の起因地とす、矢作川の東岸也」とし、豊田市街地東北の矢作川左岸の地に比定している。さらに「日本地理志料」では後の足助あすけ庄の地として東加茂郡足助町の中心部から西北および豊田市東北部をその故地としている。

賀茂郷
かもごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本は訓を欠くが、伊勢本・東急本は「加毛」と訓ずる。郷域は現洲本市上加茂かみがも・下加茂一帯の地。「延喜式」神名帳所載の賀茂神社(小社)は当郷にあり、現上加茂にある賀茂神社に比定される。平城京跡出土木簡に「(表)淡路国津名郡賀茂里人」「(裏)夫 中臣足嶋庸米三斗 同(姓カ)□□(部庸カ)米三斗并六斗」とあり、賀茂里の人夫の庸米について記される。

賀茂郷
かもごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本・東急本・名博本とも訓を欠く。「丹波志」は現市島いちじま町の鴨庄かものしよう地区とするが、高山寺本で同郷を西県のうちとする点と合わない。「大日本地名辞書」は「和名抄」の記載順が伊中いなか郷と氷上郷の中間であることから、加古川流域に南北に位置する両郷の比定地の中間、油良ゆら村の賀茂すなわち現氷上町賀茂付近に当てる。

賀茂郷
かもごう

「和名抄」所載の郷。諸本とも訓を欠くが、カモであろう。「出雲国風土記」に記載はないが、意宇おう郡内に神戸の一つとしてあげる賀茂神戸である可能性が高い。同書によれば、郡家の南東三四里にあり、地名はもと鴨で、大和国葛城かつらぎ(現奈良県御所市)の阿遅須枳高日子命を祀る賀茂社の神戸であったことに由来するという。

賀茂郷
かもごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠く。天平神護二年(七六六)一〇月二一日付越前国司解(東南院文書)に郷名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報