行幸(ぎょうこう)(読み)ぎょうこう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「行幸(ぎょうこう)」の意味・わかりやすい解説

行幸(ぎょうこう)
ぎょうこう

「みゆき」とも読み、「幸」または「御幸」とも書く。天皇の出行をいう。天子の行く所、万民が恩恵に浴するので「幸」というと古書にみえる。平安中期以降、上皇の場合を御幸(ごこう)といって行幸と区別した。明治以後、行幸について鹵簿(ろぼ)(行列)や行在所(あんざいしょ)の制をはじめ、各種の規定がつくられたが、大宝(たいほう)・養老令(ようろうりょう)や『延喜式(えんぎしき)』にも、行幸の際は衛府(えふ)の官人らが儀仗(ぎじょう)を整え、列次を組んで警固し、駐泊所は行在所または行宮(あんぐう)といい、行幸に先だち官人を遣わして検察すべきことなどが定められている。奈良時代までは、遷都も含めて、畿内(きない)近辺の行幸の例は少なくないが、794年(延暦13)の平安奠都(てんと)以後は、安徳(あんとく)天皇の福原行幸や南北朝争乱期の諸天皇の遷幸などを除いて、ほとんど都下ないしその近郊の行幸に限られ、わずかに数度の南都春日社(かすがしゃ)行幸をみるだけである。なお上皇の場合は行動も比較的自由で、白河(しらかわ)上皇から後嵯峨(ごさが)上皇にわたる間の熊野御幸(ごこう)はとくに有名である。江戸時代に入ると、幕府朝廷に対する統制が強まり、京中の行幸すらほとんど行われなかったが、幕末孝明(こうめい)天皇が攘夷(じょうい)祈願のため石清水(いわしみず)・賀茂(かも)両社に行幸したのは、その制約を破棄する契機ともなり、1868年(明治1)の大阪親征行幸を皮切り旧慣は打破され、ついで東征と東京遷都が強行され、その後は行幸の足跡は全国に及んだ。ことに、72年の旧山口・鹿児島両藩地行幸を主目的とする中国・西国巡幸に始まり前後6回にわたった巡幸は、北は北海道から南は鹿児島に及び、分権的封建国家から中央集権的近代国家への転換を強力に推進した。また77年東京開催に始まり5回に及んだ内国勧業博覧会の行幸と、頻繁な大小陸海軍演習の行幸は、富国強兵国策を象徴するものであった。また第二次世界大戦後の戦災慰問と産業復興を目的とした行幸は、「昭和の巡幸」といわれ、1946年(昭和21)の神奈川県下行幸に始まって、54年の北海道行幸まで、全国各地に及んだ。さらに71年の欧州諸国歴訪と75年のアメリカ訪問は、史上未曽有(みぞう)の海外行幸であり、旧交戦国との和解と親善を達成する役割を果たした。

 皇后、皇太后、皇太子などの出行を行啓(ぎょうけい)と称することは、平安時代以来の慣例であったが、明治以降はこれが公称となった。行啓の範囲も明治に入って一挙に拡大され、とくに1907年(明治40)の皇太子韓国訪問は、韓国併合政策の一端を担い、21年(大正10)の皇太子欧州歴訪は、国際協調主義外交を推進する役割を果たした。さらに第二次大戦後も、皇太子・同妃の海外訪問は20回にも及び、国際親善に大きな成果をあげている。

[橋本義彦]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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