細川重賢
ほそかわしげかた
(1720/1718―1785)
近世肥後熊本藩54万石の第6代藩主。第4代宣紀(のぶのり)の第13子(五男)として、享保(きょうほう)5年(一説には3年)12月26日江戸藩邸に生まれる。幼名六之助(ろくのすけ)、のち民部(みんぶ)、主馬(しゅめ)と称す。諱(いみな)を紀雄(のりお)という。兄3人は早世、兄宗孝(むねたか)が第5代藩主を嗣(つ)ぎ、嗣子(しし)なきため紀雄はその養子となる。1747年(延享4)宗孝は江戸城で人違いから旗本板倉勝該(かつかね)に斬殺(ざんさつ)された。部屋住みの紀雄が第6代藩主になり、将軍徳川家重(いえしげ)の一字をもらい重賢と称した。当時の藩財政は困窮を極め、当時借金断りの家として三井高房(たかふさ)の『町人考見録』にも書かれ、参勤の費用にも窮乏するありさまであった。重賢は堀平太左衛門勝名(ほりへいたざえもんかつな)を大奉行(おおぶぎょう)(のち中老、家老)に抜擢(ばってき)、行政改革を断行、当時もっとも優れている刑法草書を編纂(へんさん)、藩校時習館(じしゅうかん)、医学寮再春館(さいしゅんかん)、薬園蕃滋園(ばんじえん)を設け、櫨(はぜ)・繭の統制、藩士の知行(ちぎょう)世減の法、検地(地引合(じひきあわせ))法により隠田畑の摘発、定免(じょうめん)制実施を企図するなど、当時紀州(徳川治貞(はるさだ))、米沢(よねざわ)(上杉治憲(はるのり))とあわせて名君と称せられた。これらは、当時の商品経済による階層分化に応じた中級武士改革派に支えられた改革で、宝暦(ほうれき)藩政改革という。重賢は江戸藩邸の白銀台(しろがねだい)の地名にちなみ銀台(ぎんだい)と称す。博物学への造詣(ぞうけい)深く遺品も多い。天明(てんめい)5年10月26日死去、墓は熊本市中央区の北岡自然公園内にある。
[森田誠一]
『森田誠一著「細川重賢」(『大名列伝 4』所収・1967・人物往来社)』
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細川重賢
ほそかわしげかた
[生]享保5(1720)
[没]天明5(1785).10.26. 江戸
江戸時代中期の熊本藩主。宣紀の子。幼名,六之助。名は紀雄。通称は銀治。兄宗孝の養子となり,延享4 (1747) 年襲封。執政 39年間中,質素倹約を旨とし,法制の改革,検地の実施,藩校時習館の創設,殖産に尽した。その政治は宝暦の改革と呼ばれ,同時代の和歌山藩主徳川治貞と並び称された。なお重賢の名は,9代将軍徳川家重の重を賜わって改名したもの。 (→堀勝名 )
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細川重賢 ほそかわ-しげかた
1721*-1785 江戸時代中期の大名。
享保(きょうほう)5年12月26日生まれ。細川宣紀(のぶのり)の5男。兄細川宗孝の養子となり,延享4年肥後熊本藩主細川家6代。堀平太左衛門を大奉行に登用し,殖産興業を奨励,藩校時習館を設置するなど,藩政刷新に成果をあげた。天明5年10月26日死去。66歳。初名は紀雄。幼名は六之助。号は銀台。
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細川重賢【ほそかわしげかた】
江戸中期の肥後(ひご)熊本藩主。1747年襲封。就任と同時に綱紀粛正を図り,治水開墾・植林・産業振興等民政に努め,財政困難にあえいでいた熊本藩を立ち直らせた。また藩校時習館,医学寮再春館を設置,名君と称された。彼の治世は儒者亀井南冥によって紹介されている。
→関連項目藩政改革
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細川重賢
ほそかわしげかた
1720〜85
江戸中期の肥後(熊本県)熊本藩主。「肥後の鳳凰」と称された名君
号は銀台。1747年熊本藩54万石を襲封。藩政の改革に意を尽くし,質素倹約の励行,養蚕・植林の奨励,租税の軽減などを行い,城内に藩校時習館を設立した。
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ほそかわ‐しげかた【細川重賢】
江戸中期の大名。熊本藩主。兄宗孝の養子となり襲封した。経済的な苦境に立っていた藩政の改革に着手し質素倹約を励行、重商主義的な政策を取り、効果をあげた。享保五~天明五年(一七二〇‐八五)
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デジタル大辞泉
「細川重賢」の意味・読み・例文・類語
ほそかわ‐しげかた〔ほそかは‐〕【細川重賢】
[1721~1785]江戸中期の熊本藩主。倹約を奨励し、また、藩校時習館の開設や殖産事業に尽力して藩政の改革に努めた。
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細川重賢 (ほそかわしげかた)
生年月日:1720年12月26日
江戸時代中期の大名
1785年没
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ほそかわしげかた【細川重賢】
1720‐85(享保5‐天明5)
熊本藩主。細川家8代。6代藩主宣紀(のぶのり)の五男。幼名紀雄。兄宗孝の仮養子であった1747年(延享4)宗孝が江戸城で旗本板倉勝該(かつかね)に斬られて不慮の死を遂げ,にわかに封を継ぎ8代藩主となった。当時熊本藩は連年財政困難にあり,参勤交代・江戸藩邸の費用にも事欠くありさまであった。重賢は藩主に就任すると堀勝名を大奉行に抜擢(ばつてき)して藩政改革にとりかかった。まず綱紀粛正を図り,行政機構の整備,刑法草書の制定,財政再建に向けての地引合(じびきあわせ)(検地の一種)による隠田の摘発と定免(じようめん)制(農民の反発により延期),櫨(はぜ)・楮(こうぞ)の専売,藩士に知行世減法を行ったほか,藩校時習館を建てて人材の育成を図り,農商人の子弟でも俊秀の者には門戸を開放した。
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世界大百科事典内の細川重賢の言及
【熊本藩】より
…肥後国飽田郡府中(現,熊本市)に藩庁を置いた外様大藩。1587年(天正15)佐々成政が隈本城に封ぜられたのが起りで,領域は球磨郡を除く肥後国12郡であった。成政は翌年起こった肥後一揆の責を負って尼崎で切腹,肥後国は豊臣秀吉子飼の加藤清正(北半国19万石)と小西行長(南半国14万石)に分与された。この間秀吉の上使衆によって球磨郡を除く肥後国検地がなされ,肥後54万石の表高が確立した。ついで1600年(慶長5)清正は関ヶ原の戦で西軍に属した小西行長の旧領を合わせ,さらに同年天草郡と豊後国直入,大分,南海部3郡内との替地を許され,ここに肥後国の大半と豊後3郡にまたがる熊本藩領54万石が確定した。…
【博物学】より
…享保年間(1716‐36)には幕府の殖産興業政策によって物産学が盛んになり,博物学のすそ野が拡大された。この時期には田村藍水,平賀源内,小野蘭山,宇田川榕菴らの学者のほか,《目八譜》の武蔵石寿,《毛介綺煥(もうかいきかん)》《昆虫胥化(しよか)図》の肥後藩主細川重賢,《雲根志》の木内石亭,木村蒹葭堂(けんかどう)などのアマチュア博物学者も活躍した。 一方,17世紀からは断片的ではあるが西洋博物学の知識も入りはじめ,中でもドドネウスの《草木誌》とヨンストンの《動物図説》は当時の本草学に大きな影響を与えた。…
【藩政改革】より
…だから,大名を補佐する執政に恵まれるとき,藩政の再構築を目ざす藩政改革がみられることになる。この典型としては,肥後熊本藩54万石を受け継いだ第6代細川重賢(しげかた)と家老堀勝名の関係,陸奥会津藩28万石の第5代松平容頌(かたのぶ)と家老田中玄宰との関係,そして,出羽米沢藩15万石の第10代上杉治憲(はるのり)(鷹山)と改革派を代表する竹俣当綱(たけのまたまさつな)との関係をあげることができよう。 上杉治憲が名君の典型であったことはよく知られているが,彼は日向国高鍋藩主秋月氏の次男として生まれ,部屋住上がりの辛酸をなめていた。…
【肥後国】より
…旧国名。肥州。現在のほぼ熊本県に当たる。
【古代】
西海道に属する大国(《延喜式》)。古くは火の国の一部。《日本書紀》持統10年(696)条に,〈肥後国〉とあるので,このころまでには火の国は,火(肥)の前(さき)の国と火(肥)の後(しり)の国に分国したと思われる。大化前代,肥後国の地方には,玉名郡の菊池川流域に日置氏,阿蘇地方に阿蘇君,宇土半島の基部より氷川流域を中心に火(肥)君,八代市南部の葦北君,熊本市の白川下流域に建部君などの豪族が蟠踞(ばんきよ)していたが,その最大の豪族は火君であった。…
※「細川重賢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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