藩
はん
江戸時代、将軍から石高(こくだか)1万石以上の土地を宛行(あてが)われた大名の支配領域、およびその支配機構をいう。
藩という公称は、江戸時代にあったのではなくて、1868年(明治1)明治新政府が旧幕領に府・県を設置したのに対して、旧大名領には藩の呼称を用い、ここに藩は公称として用いられるようになったが、1871年の廃藩置県によって藩の実態は消滅し、以後大名領をさす場合の通用語となった。したがって、藩が日本で一定の行政区域の表現とされたのは、厳密にいえば明治維新当時だけである。
[泉 雅博]
藩=大名の数は、江戸時代を通じて260前後に上る。これを藩成立の事情から分類すると、旧族大名、織豊取立(しょくほうとりたて)大名、徳川取立大名の三つとされ、一般には前二者を外様(とざま)大名とした。
徳川取立大名は親藩(しんぱん)と譜代(ふだい)に分かれ、親藩はさらに御三家(ごさんけ)(尾張(おわり)、紀伊、水戸)、御三卿(ごさんきょう)(田安(たやす)、一橋(ひとつばし)、清水(しみず))、家門(かもん)、連枝(れんし)などに分けられる。
また、大名は、城地の有無、領域の規模にしたがって、国主(こくしゅ)(国持(くにもち))、準国主(国持並(なみ))、城主(城持(しろもち))、城主格(城持並)、無城に分けられ、あるいは江戸城中の詰間(つめのま)により大廊下(おおろうか)、溜間(たまりのま)、大広間(おおひろま)、帝鑑(ていかん)間、柳(やなぎ)間、雁(かり)間、菊間などに分ける場合もあり、さらに官位や石高の大小によっても分けられた。
1792年(寛政4)の『大成武鑑(たいせいぶかん)』によると、大名領の石高は約1800万石であったが、親藩・譜代大名の石高と外様大名の石高はほぼ折半されていた。なお、全国の総石高のうち藩によって占められる石高の比率は約71.5%となっていた。
この『大成武鑑』による大名数は256藩で、うち親藩は12藩、譜代大名は144藩、外様大名は100藩となるが、大名の主体は帝鑑、雁の両間に詰める譜代の106家で、その1家当り平均石高は5万石前後であった。
[泉 雅博]
藩は将軍と大名との関係を前提として成立する。この両者は、基本的には、武家諸法度(ぶけしょはっと)を基準とする支配と服従の関係にあった。大名は武家諸法度を遵守することを、将軍の代替りごとに誓約した。つまり、忠誠の誓約としての誓詞血判の式である。したがって、将軍の交替ごとに、大名は給付を受けた所領をいったん将軍に返還し、改めて新将軍の法度の発布とそれに対する遵守の誓約をまって、所領の再給付を受けた。しかし、実質的には知行(ちぎょう)の世襲が認められ、ここに藩政のそれぞれの展開をみることになる。
織豊政権のもとで統一された全国的な土地制度を継承し、これを基礎とした江戸幕府は、17世紀前半を通じてその組織を整備してきたが、諸藩もまたほぼ同じ時期に藩制の確立をみた。
藩制確立の主要な指標の第一は、領内における大名領主権の集中と、その機能の確立にある。戦国期までは、大名家臣が自己の領地をもち、館(やかた)を構えて土地・人民を直接支配しており、大名はそれを知行権として認めていたが、近世大名は家臣を城下に集住させ、その知行権をしだいに限定して領主権のなかに吸収し、彼らには知行高に応じて蔵米(くらまい)を支給することにした。そして、下級家臣を含めて軍役編成を行い、行政機構を整備した。これを俸禄(ほうろく)制の確立とよぶ。
第二には、検地・刀狩(かたながり)による農民の一斉統制である。戦国期までは郷(ごう)・庄(しょう)に居住し、武器をもち、族縁的な共同体を形成していた農民を、直接生産者を基準として検地帳・人別(にんべつ)帳に登録し、転出転業を禁止した。そして、本百姓(ほんびゃくしょう)身分を設定して、村ごとに年貢・諸役を課し、これを徴収する体制を確立するとともに、村役人制度をもってこれを支配した。
第三には、城下町の設定と領国経済の確立である。武士階級に奉仕すべき商人・職人を城下町に集めて統制を加えつつ、生産物地代として徴収した米穀を全国市場に供給して、津留(つどめ)政策によって領内自給体制を整えながら、藩財政を確立することが藩制の円滑な運営を助長させた。しかし、このようないくつかの政策は、藩独自のものとしてではなく、幕府への臣従を前提として行われた。
[泉 雅博]
各藩は年貢増徴のため勧農に努め、藩政の安定的運営を志向したが、藩財政の圧倒的部分を年貢米の収納に依存している経済基盤のもとでは、いずれの藩も財政難は避けえなかった。領内統治のための行政費用に加え、幕府より命ぜられる勤役や、参勤交代に要する費用は莫大(ばくだい)なものであり、18世紀に入ると藩財政の窮乏は覆いがたいものとなった。また、このころより農村へと浸透し始めた商品経済によって、農民層分解が進行し、藩経済の基盤を根底から脅かし始めた。
このような事態のなかで諸藩は、領内検地の実施や徴租法の変更を通じていっそうの年貢増徴を図るとともに、商品生産の広がりに対応するため国産奨励や専売制を展開、また一方で、農民層分解を抑制するための土地改革を断行した。しかし、こうした政策も財政の回復、藩政の安定には結び付かなかった。
商人資本と結び、藩政を独占する門閥層に対する下士層の不満は改革派の結成を促し、貢租の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)に対する農民の怒りは百姓一揆(いっき)、打毀(うちこわし)となって激発した。こうした状況下で、幕府もしだいに藩に対する統制力を失っていき、とくに1853年(嘉永6)ペリー来航以後の対外危機の深刻化は、国内の矛盾をいっそう浮き彫りにし、政争の嵐(あらし)のなかで幕府を無力化した。1867年(慶応3)徳川慶喜(よしのぶ)は大政を朝廷に奉還し、江戸幕府は倒壊する。ここに至って藩の本来の意味もなくなり、廃藩置県によって藩は消滅した。
[泉 雅博]
『金井圓著『藩政』(1962・至文堂)』▽『山口啓二・佐々木潤之介著『幕藩体制』(1971・日本評論社)』▽『藤野保著『新訂幕藩体制史の研究』(1975・吉川弘文館)』▽『佐々木潤之介著『幕藩制国家論』上下(1984・東京大学出版会)』
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藩
はん
江戸時代,1万石以上の領地を与えられた大名の支配する領域とその支配機構。「藩」の名は幕府による公称ではなく,江戸時代中期頃に漢学者が中国,周の封建制度になぞらえて大名を藩屏 (はんぺい) としたことに由来する。公称とされたのは,明治になってからで,維新政府が諸侯を知藩事として任命したときの行政区域がそれである。江戸時代を通じてだいたい 250藩があり,徳川氏との縁故によって親藩,譜代,外様 (とざま) に分け,親藩はさらに御三家 (尾張,紀伊,水戸) ,家門,連枝に分けた。そのほか,城地の有無,領域の広さによって国持,国持並,城持,城持並,無城に分れ,また江戸城での詰の間,石高などの組合せによって格式序列を形成した。だいたい自給自足体制をとっており,農民の統制は厳重をきわめ,年貢徴収を目的とする体制は強固であった。明治4 (1871) 年廃藩置県により消滅したが,藩閥,藩風は残った。 (→幕藩体制 )
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はん【藩】
〘名〙 (かきね、かこいの意)
① ある地方を鎮撫して、朝廷の
護衛となるもの。藩屏。
※大鏡(12C前)一・
裏書「予在
レ藩之時、以
二天慶三年四月
一配合」 〔詩経‐大雅・板〕
② 諸侯の領地。大名の封土。特に、江戸時代、大名の支配する領地および支配機構の
総称。
※
福翁自伝(1899)〈
福沢諭吉〉幼少の時「田舎役者が芸をする其時には藩
(ハン)から布令が出る、〈略〉藩士たるもの決して立寄ることは相成らぬ」
③
明治元年(
一八六八)旧幕府領に
府県制が施行された際の旧大名領の名称。藩内は諸侯の自治に委ねられた。
④ 明治二年(
一八六九)の
版籍奉還から同四年の廃藩置県までの行政区画の一つ。藩知事の管轄区域、すなわち、旧大名領。
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藩【はん】
江戸時代将軍より1万石以上の領地を与えられた大名の領地,あるいはその統治機構などの総称。王室の藩屏という中国古代の諸侯の称から出た用語。江戸時代を通じ一定の政治的・経済的独立性をもち,大名が家臣を城下町に集め,農民からの現物貢租をおもな財源とした。当時の大名領は〈領知〉あるいは〈知行所〉とよばれ,藩という語が用いられたのは幕末から。
→関連項目家産国家|幕藩体制
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藩
はん
江戸時代,大名の支配した領域およびその支配機構の総称
幕藩体制下の行政単位。諸藩は幕府に服属したが,一定限度政治的・経済的に独立した主体性をもっていた。その成立には相異があるが,共通した藩政組織をもち,城下町を中心に集権的政治を行った。藩の財政的基盤は,農民から徴収された現物貢租が主要なもの。明治維新後,版籍奉還・廃藩置県を経て解体された。
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デジタル大辞泉
「藩」の意味・読み・例文・類語
はん【藩】
1 江戸時代、大名が支配した領域およびその統治機構。「長州藩」
2 明治元年(1868)維新政府が旧幕府領に府・県を置いたのに対し、旧大名領をさす公称。
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はん【藩】
江戸時代,将軍より1万石以上の領地を与えられた大名の所領,あるいは,その所領支配の組織・機構を藩と呼ぶ。藩の呼称は,江戸幕府の大名領に対する公称ではなく,当時は〈領知〉あるいは〈知行所〉と呼ばれていた。藩が行政単位として公式に使用されたのは1868年(明治1),明治維新政府が旧大名領を藩と呼び,旧幕領に府県を置いたときから,71年の廃藩置県までのわずかの期間である。 江戸時代の中ごろから,漢学者たちが,中国において皇帝から領地を与えられた諸侯を藩王あるいは藩鎮といったのにならって,日本の大名領をそう呼ぶようになった。
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世界大百科事典内の藩の言及
【家中】より
…したがって家中とは,日本において封建的な家制度が完成したといわれるこの時代に,その家の構成員全体をよぶ場合に用いられた擬制的な同族呼称のことなのである。【鈴木 国弘】
[近世]
江戸時代には一藩内の城下居住の武士を,郷村居住の武士である郷士に対して,家中と称したが,広義には両者を合わせて家中と総称した。藩という公称を欠いた江戸時代には家中が藩または藩士の総称の意味にも使われた。…
【公儀】より
…例えば江戸時代の一人の農民にとって公儀とは幕府―大名―代官―村―家―家族という入子型の支配体系であったが,この体系の各項は,自分より上位の項に対しては私であり,下位の項に対しては公儀であった。藩は領民に対しては公儀であったが,幕府の裁判による処刑が公儀御仕置であり大名・旗本によるそれが自分仕置と呼ばれたように,大公儀(おおこうぎ)である幕府に対しては私であった。世間,世間体,世間のつきあいなど現在から見れば私的関係に属する分野にまで,公儀という言葉で表現されるようになったのも,公儀における公と私の上記のような関係から説明できるであろう。…
【国産会所】より
…国産方,産物方,産物会所ともいう。江戸中期以降,藩が領内で生産される国産の奨励または統制を行うために設けた機関。藩によっては統制の対象とした商品名をつけて木綿会所,砂糖会所などと呼んでいるところもある。…
【知行】より
…地方知行とは,家臣が直接給地を支配して年貢を収納する形態であり,戦国期の小領主の知行形態にならったものではあるが,江戸時代には大名領主権が強大となって裁判権などは吸収され,実質的には制限付きの年貢収納権だけが残されていた。蔵米知行とは,給地を名目上指定するものの藩の役人が一括して支配し,家臣には給地の年貢に相当する米・金を藩の蔵から支給する形態であり,給地支配から切り離されているところから擬制的知行ともいうべきものである。江戸時代初期には地方知行であっても,17世紀中葉に蔵米知行に転換した藩が多く,1701年(元禄14)の調査にもとづく《土芥寇讎記(どかいこうしゆうき)》の記事によると,全国243藩のうち地方知行は外様と大藩を中心に39,蔵米知行は譜代と中小藩を中心に204という分布を示している。…
【津留】より
…近世において諸藩が,藩外との米穀などの物資の移出入を統制あるいは禁止した政策。1635年(寛永12)の〈武家諸法度〉に幕府は〈私関所,新法の津留,制禁の事〉という一条を定め,新規の津留を禁じたが,以後諸藩の津留政策がなくなったわけではない。…
【幕藩体制】より
…江戸時代の,将軍を頂点とした封建的政治体制をいう。
[規定と特質]
幕藩体制は,兵農分離制を階級支配の原則とした純粋封建体制の一形態であって,石高制(こくだかせい)を土地所有体系の基本とした封建領主が,士・農工商・賤民の政治的編成を基本とした経済外強制によって民衆支配を行い,その支配体制の総体を鎖国制という民族的枠組みによって維持,固定している政治体制である。 兵農分離制はその封地との歴史的関係を断ち切って,将軍の恣意によって配置,移動させられる武士団を作り出し,これらの武士団は,兵農分離に伴う商農,工農の分離によって農村から切り離された商人,手工業者とともに,都市に集住して,都市民を形成した。…
※「藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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