華族
かぞく
明治以降の特権的貴族層を主としていう。明治以前は公卿(くぎょう)の摂家に次ぐ家格である清華家(せいがけ)の別称である。1869年(明治2)6月版籍奉還後、従来の公卿、諸侯の称を廃してすべて華族とし、新しい身分階層を設けた。このときの華族数は427家。1871年廃藩によって旧諸侯の藩知事は東京居住の華族となり、武家、公家(くげ)の華族の別がなくなった。そして皇族華族取扱規則を定めるとともに、四民の上にたち、国民の師表たることを諭達され、また家禄(かろく)も政府から支給されることになった。1874年6月には華族内部の団結と交友のため華族会館が創立されたが、廃藩後政治的実権を失った華族層の覚醒(かくせい)を促す意味もあり、子弟教育のために、1877年学習院を開校した。1884年に華族令が制定され、これにより従来の華族に加えて、国家に勲功のあったとされる政治家、軍人、官吏、実業家などが新たに華族の列に加えられた。爵位は、公、侯、伯、子、男の5段階に分かれているが、公家は旧来の家柄、旧諸侯は旧領石高をほぼ基準としてランクづけられ、勲功華族は薩長(さっちょう)など藩閥出身者が多く、しかも高位に叙爵された。華族令の制定には伊藤博文(いとうひろぶみ)らの尽力があったが、国会開設を控えて、華族を貴族院議員とする構想があり、そのためにも勲功新華族の創立が必要とされたのであった。明治憲法と貴族院令の制定により、公侯爵全員、および伯子男爵は互選で貴族院議員となると定められ、新たに政治的特権が付与された。そのほか華族の特権としては、家督相続人の爵位の世襲制、「華族世襲財産法」や華族銀行たる第十五国立銀行の創立による華族財産の特別保護と管理がある。また華族は「皇室の藩屏(はんぺい)」たるべき任にあるとされ、華族とその子弟の婚姻も宮内大臣の許可を要した。なお叙爵や昇爵は、勲功のあるごとに、とくに戦争ごとに行われた。1947年(昭和22)日本国憲法によって華族制度は廃止された。
[佐々木克]
『社団法人霞会館編・刊『華族会館史』(1966)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
華族
かぞく
明治以前には清華の別称であったが,明治2 (1869) 年6月 17日の版籍奉還の布告と同時に出された太政官達で,公卿,諸侯の称を廃して華族の称に改められたのに始る。さらに 1884年の華族令によって公侯伯子男の5爵が設けられ,従前の公卿,諸侯のほか明治維新およびその後国家に勲功のあった政治家,軍人などに与えられた。この華族令の施行は,やがて開設される帝国議会において,民選の衆議院を牽制する役割をになう貴族院の基盤を形成するところにねらいがあった。華族は世襲で貴族院議員となり,あるいはこれを互選する権利,その他の特権が伴い,皇族と並ぶ特殊な身分を形成した。第2次世界大戦後に廃止。日本国憲法 14条2項は「華族その他の貴族の制度は,これを認めない」と定めており,この制度が復活する余地はない。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
華族
かぞく
①公家の家格である清華 (せいが) 家の別称
②1869年から1947年にわたる特権身分
公家としては摂関家に次ぐ家柄で,最高の官職としては三公に任ぜられる。しかし左・右大臣は摂関家に独占されるので,ほとんど内大臣どまりである。久我 (こが) ・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門 (おおいごもん) ・菊亭・広播 (ひろはた) ・醍醐 (だいご) の9家がこの家柄である。
1869年版籍奉還の際,旧公卿・諸侯らに与えられた身分呼称で,士族・平民の上に位する新しい階層とされた。'76年華族を家系によって6部に分け,部長をおいて国家的に統轄した。'84年の華族令で特権的身分が確立し,華族会館を創設して華族内部の団結をはかった。第二次世界大戦後,日本国憲法で廃止。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
華族【かぞく】
明治維新後,華族令(1884年)によって旧諸侯,旧公卿,国家に勲功のあった者に与えられた世襲の特殊身分。華族はもともと清華(清華家)の別称であったが,1869年の版籍奉還により公卿・諸侯の身分を廃し併せて華族と称して士族の上に置いた。しかしこのときはまだ特権を伴わなかった。華族令によって公・侯・伯・子・男の5等の爵位に分けられ,貴族院議員の選挙・被選挙権を与えられた。皇族の〈藩屏(はんぺい)〉として天皇制維持の一基盤であったが日本国憲法(14条)で廃止。→学習院/十五銀行
→関連項目愛新覚羅浩|栄典制度|貴族|金禄公債|四民平等|爵位|臣籍降下|大名|知藩事|平民
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
デジタル大辞泉
「華族」の意味・読み・例文・類語
か‐ぞく〔クワ‐〕【華族】
1 公・侯・伯・子・男の爵位を有する者。明治2年(1869)旧公卿・諸侯の身分呼称として定められたが、明治17年(1884)の華族令で五等爵を制定、国家に功労ある者もこれに加えられ、種々の特権を伴う世襲の社会的身分となった。日本国憲法施行により廃止。
2 《古くは「かそく」とも》平安時代以後、清華家の別称。かしょく。
「―も英雄も面をむかへ肩をならぶる人なし」〈平家・一〉
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
かぞく【華族】
華族はもともと清華(せいが)(清華家)の別称だったが,1869年(明治2)の版籍奉還により,従来の公家と諸侯を合わせて華族と称し,士族の上位におかれて,天皇より四民の範となるよう諭された。71年の廃藩置県で華族は政治的特権を失った。また,海外へ洋行する者も多く,同年の岩倉使節団に同行した留学生には多数の華族が含まれていた。この使節団はヨーロッパの貴族制にも関心を払い,これは帰国後の岩倉具視や木戸孝允らの対華族策となった。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
世界大百科事典内の華族の言及
【階級】より
…維新以後,徳川幕府の下で支配階級であった武士は既得権益としての禄を安価な政府公債と引換えにとりあげられて支配階級の地位を失い,旧藩士はわずかに〈士族〉という戸籍上の称号だけを与えられたが,この名目的称号も1914年には消滅した。旧大名は公卿とともに華族の地位を与えられ,華族には華族令によって一定の世襲財産・特権・貴族院議員たり得る資格が付与されたが,1946年,憲法によってこの華族制度も三分の二世紀ほどの歴史を閉じた。日本において貴族制度がこのように根づかず,貴族文化といったものの発展もなく,またイギリスのパブリック・スクールやオックスフォード,ケンブリッジ両大学のような貴族の子弟のための学校もほとんど発達しなかった事実は,ヨーロッパ社会との対比において特徴的である。…
【貴族】より
…伝統的エリートとしての貴族の歴史的意義は,概して,君主政治の衰退,また工業化の進展,技術文明の発達とともに過去のものとなってゆくのである。貴族制爵位【成瀬 治】
【日本】
日本の近代華族制度は,直接的には平安時代の宮廷貴族に由来する。その平安貴族の形成には,四つの要素が考えられる。…
【四民平等】より
…明治維新期,従来の士農工商などの封建的身分制を廃した政策。しかしこれで身分制はなくならず,華族・士族・平民に再編成され,被差別部落民も残存された。その過程は,1869年(明治2)6月版籍奉還にさいし公卿・諸侯(旧藩主)を華族に,平士以上の藩士などを士族としたことに始まる。…
【爵位】より
…三位以上を〈貴〉,四位,五位を〈通貴〉としてこれらに貴族的な特典が与えられ,五位に叙されることを叙爵といった。 日本古代以来の位階制,勲等制は明治以後も存続するが,1869年(明治2)の版籍奉還によって公卿,諸侯の称が廃止されて華族が設けられ,士族の上に置かれた。この貴族の地位を示すものとしての華族は,84年の華族令により,公・侯・伯・子・男の5等の爵位に分けられた。…
【清華家】より
…摂関家につぎ,大臣家の上にあって,近衛大将を経て,太政大臣に昇進できる家柄。また,華族,英雄家などともいう。家格は平安時代末から徐々に形成され,鎌倉時代にほぼ固定して七清華といわれた。…
※「華族」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報