薬師堂村(読み)やくしどうむら

日本歴史地名大系 「薬師堂村」の解説

薬師堂村
やくしどうむら

[現在地名]弘前市薬師堂

大館おおだて山西北麓にあり、北は高畑たかはたけ村・吹上ふきあげ(現南津軽郡平賀町)、南は乳井にゆうい村、西は岩館いわだて村・原田はらた(現平賀町)に接する。

薬師堂の地名の由来は、室町時代に日照田ひでりた(現薬師堂字日照田)にあったという薬師堂によると推定される。永享五年(一四三三)六月一二日の修理亮家行知行状写(福岡田中館文書)に次のようにある。

<資料は省略されています>

この文書によれば、日照田は浄法寺じようほうじ(現岩手県二戸郡浄法寺町)天台てんだい寺に寄進されており、薬師如来造営の記事があり、薬師堂が建立されたと思われる。「津軽一統志」にも、日照田村の薬師如来は行基の作とみえ、別当は乳井村福王ふくおう寺であったが、地蔵院に替わったとあり、日照田の薬師堂は室町時代福王寺の支配を受けていたと思われる。

薬師堂村
やくしどうむら

[現在地名]本荘市子吉こよし 薬師堂

本荘ほんじよう城下町の南約一里、子吉こよし川西岸の平野部に位置し、子吉川の東対岸は三条さんじよう村、同じく東北対岸は廿六木とどろき村、西は天井てんじよう坂を境として海士剥あまはぎ(現由利郡西目町)、南は埋田うめた村。村内矢島やしま道が通る。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に子吉郷の内に記される。近世には本荘藩に属した。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に四六三石とあり、元禄一一年(一六九八)の出羽国由理郡之内村高帳にも四六三石二斗七升五合と変わらない。天保郷帳には子吉村として六ヵ村をまとめて記すため村高は不明。明治五年(一八七二)には一千二二石余で子吉郷中最大(旧高旧領取調帳)

薬師堂村
やくしどうむら

[現在地名]東淀川区柴島くにじま一―二丁目、大淀区天神橋てんじんばし八丁目・長柄西ながらにし二丁目

淀川本流から分岐する中津川の湾曲部北側に位置し、西ははま村。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図に薬師堂とみえ、村高一三五石余。以後幕末まで変化はみられない。元和元年(一六一五)から五年までは大坂藩松平忠明領、次いで幕府領、延享三年(一七四六)から田安領となり幕末に至る。村の南東にあたる地に亀山かめやま街道の長柄渡があった。渡しの長さ一町二〇間(淀川両岸一覧)。村名は字夕陽にあった薬師堂にちなむとされるが、薬師堂は天平年間(七二九―七四九)行基の開創と伝え、もと乗宗じようしゆう寺と称したという。

薬師堂村
やくしどうむら

[現在地名]弘前市元薬師堂もとやくしどう

弘前城下の西北にあり、北は独狐とつこ村、南は土堂つちどう村、東は石渡いしわたり村、西は蒔苗まかなえ村に接する。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の鼻和はなわ郡の新田に村名があり、村高二二三石。しかし寛文四年(一六六四)の高辻帳に村名はない。「平山日記」および享保一一年(一七二六)検地帳によれば、独狐村よりこの時新たに取立てられた。村高三〇八・一五一石、うち田方二九五・〇九七石、畑方一三・〇五四石、田位は上田から下々田まであり、斗代は上田が一・三石と高く、村位は上と推定される。

薬師堂村
やくしどうむら

[現在地名]金沢市薬師堂町

若宮わかみや村の西に位置する。正保郷帳では同村および若宮出わかみやで村と併記され、三村合せて高八二八石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高二二四石・免五ツ八歩(三箇国高物成帳)。寛文年間の家高数三・百姓数五(高免付給人帳)。慶安元年(一六四八)総検地で大分の出高となったために、翌年には半納にも及ばぬ未進となった石川郡一四ヵ村の一で、同四年に、この一四ヵ村などで「ゆり直し検地」が行われ、改作仕法の嚆矢となったともいう(「改作所旧記」など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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