菅江真澄(読み)すがえますみ

精選版 日本国語大辞典 「菅江真澄」の意味・読み・例文・類語

すがえ‐ますみ【菅江真澄】

江戸後期の国学者、紀行文作者。本名白井秀雄。通称、英二。三河国愛知県)の人。信濃、越後、奥羽、蝦夷(北海道)などを遊歴。約三〇年にわたる旅行中の見聞記は、当時の各地の民俗・生活などを知る上での貴重な資料となっている。著に「真澄遊覧記」など。宝暦四~文政一二年(一七五四‐一八二九

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デジタル大辞泉 「菅江真澄」の意味・読み・例文・類語

すがえ‐ますみ【菅江真澄】

[1754~1829]江戸後期の国学者・旅行家三河の人。本名、白井秀雄。生涯の大半を信州・奥羽地方の旅に過ごし、民俗学上貴重な資料を多数著した。著「真澄遊覧記」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「菅江真澄」の意味・わかりやすい解説

菅江真澄 (すがえますみ)
生没年:1754-1829(宝暦4-文政12)

江戸時代後半の傑出した旅行家で,紀行文を多数残した。本名白井秀雄,通称英二。菅江真澄は晩年の雅号である。生地は三河国渥美郡(現,豊橋市近辺)といわれ,のちに三河国乙見荘(おとみのしよう)(現,岡崎市近辺)に移住した。国学,本草学の素養があり,その紀行文には各地の民俗資料についても細かな記述がなされている。28歳の1781年(天明1)より家を出て各地を旅するようになるが,とくに83年以後,諸国への長い旅に出た。信濃,越後,奥羽を経て,蝦夷の松前に至り,1811年(文化8)の夏に秋田の久保田城下に住むようになった。その生涯の大半は,東北日本の旅に過ごし,見聞した記録は,《真澄遊覧記》などにまとめられている。記録は,ほとんど旅日記と地誌の体裁をとっている。注目されるのは,文中に挿入されている彩色絵であり,対象物を正確に写生している点が評価されている。11年秋田藩主佐竹義和(さたけよしまさ)(1775-1815)の依嘱を受け,出羽6郡の地誌作製に従事した。この地誌は,未完成に終わったが,約46巻にわたる大著であった。早くから日本民俗学の創始者である柳田国男が関心をもち菅江真澄の研究に意を注いでいるが,近年内田武志が未発見史料の探索に努め,その成果を著している。

 菅江真澄の生涯は,なぞに包まれている部分が多い。たとえばいつも彼はずきんをかぶり通していたため,〈常冠り(じようかぶり)の真澄〉というあだ名があったという。それが伝説ともなっていて,秋田藩主と会うとき,ずきんのままでなら参上するといったといわれ,無理にずきんをとらせようとしたら,刀にかけて断ったという話や,76歳で病没し,いよいよ入棺に際して,若い弟子たちがずきんをとろうとしたら,老人たちが反対して,ずきんのままで葬った等々枚挙のいとまがない。真澄は旅先で,薬草を採取したり,和歌を教えたり,さまざまな知識を人々に伝授していた。また現地に長期滞在すると,世話になったお礼として,紀行文の写本を置いていくという習慣もあった。彼の貴重な観察記録が各地によく保存されているのもそのためである。著述は《菅江真澄全集》に集成されている。
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朝日日本歴史人物事典 「菅江真澄」の解説

菅江真澄

没年:文政12.7.19(1829.8.18)
生年:宝暦4(1754)
江戸中期から後期にかけての執筆家。生年には宝暦3年説も。姓は白井,本名英二。文化の半ばから「菅江真澄」の姓名を使う。名を知之,秀超,秀雄などという。家職は祈祷施薬,白太夫の家筋であった。父の名は秀真。三河国岡崎(愛知県岡崎市)に生まれ育ったが,長じてからは定住の地はなく,行脚に明け暮れる一生を送った。少年時代は岡崎城下成就院の稚児となり,植田義方に和学の階梯を示された。思春期に尾張へ移り,国学者で熱田神宮の祠官粟田知周の知遇を得,また名古屋藩の薬園で薬草栽培にたずさわり,本草学を修めるという経験をつんだ。安永6(1777)年に,尾張の儒者丹羽謝庵から漢学を学んだ。 天明3(1783)年三河を発ち,はじめて東北地方を訪ね,蝦夷へ渡った。行脚すること3年,本土へ戻ったのは寛政4(1792)年であった。同7年,津軽藩領へ入り,合計7年間の津軽逗留を終えるまでには,採薬御用を勤めたりもしたが,ついに行動不審を問われて日記や紀行を押収され,軟禁に処された。やがて享和1(1801)年に秋田領内に移ってからは,終身,同地の外に旅することはなかった。藩主佐竹義知に注目され,秋田藩の地誌作成を計画したが,藩士たちに阻止される向きもあって,文化11(1814)年の義知急死以後は,7年間の断筆を強いられた。文政5(1822)年から執筆再開,考証随筆『筆のまにまに』などの著述をものするとともに,藩命の下に,現地踏査に基づいた地誌『雪の出羽路平鹿郡』および『月の出羽路仙北郡』に着手した。しかし地誌の業は終えないうちに当地で逝った。概ね擬古和文によって綴られた紀行日記は,膨大な枚数上り,著者の筆によって添えられる写生図とともに,江戸後期東北の歴史地理を浮き彫りにする精細な総図鑑である。<参考文献>内田武志・宮本常一編『菅江真澄全集』

(ロバート・キャンベル)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「菅江真澄」の意味・わかりやすい解説

菅江真澄
すがえますみ
(1754―1829)

江戸中期の国学者、紀行家、民俗学者。本名白井秀雄。三河国(愛知県)岡崎か豊橋(とよはし)付近の人。菅江真澄を称したのは、晩年秋田に定住してから。賀茂真淵(かもまぶち)の門人植田義方(うえだよしえ)(1734―1806)に国学を学ぶ。各地を旅行して、庶民生活と習俗を日記と図絵に記録した『真澄遊覧記』50冊余(1783〜1812)は、近世の民俗誌的価値がきわめて高い。真澄は、1783年(天明3)30歳で旅立ち、信濃(しなの)、越後(えちご)、出羽(でわ)を経て津軽に入り、1788年松前に渡った。その後、下北(しもきた)に3年間滞在し、津軽では各地の文人・医師らと交わった。この間、弘前(ひろさき)藩の採薬掛となり、山野に入って薬草採集を行った。一方、秋田藩の地誌の編集にも従事した。津軽関係の著作としては『津軽の奥』『外浜奇勝』『津軽のをち』、南部(なんぶ)関係では『奥の浦うら』『おぶちの牧』『奥のてぶり』、秋田関係では『月の出羽路』『花の出羽路』などが代表的である。これらの紀行文によって、当時の各地の年中行事、伝承習俗や庶民生活の実際を詳しく知ることができる。秋田仙北(せんぼく)郡角館(かくのだて)で没し、秋田の寺内に葬られた。

[長谷川成一 2019年2月18日]

『内田武志・宮本常一編『菅江真澄全集』12巻・別巻1(1971~1981・未来社)』『内田武志・宮本常一編・訳『菅江真澄遊覧記』全5巻(平凡社・東洋文庫/平凡社ライブラリー)』『柳田国男著『菅江真澄』(1942・創元社)』


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百科事典マイペディア 「菅江真澄」の意味・わかりやすい解説

菅江真澄【すがえますみ】

江戸後期の国学者,旅行家。本名白井秀雄。賀茂真淵の門人植田義方(よしえ)〔1734-1806〕に国学を学び,1781年三河の郷家を出て信濃,越後,秋田,津軽,南部,蝦夷(えぞ)地を遊歴。数多くの紀行は和歌をまじえた和文に自筆の挿絵を添えたもので,《真澄遊覧記》などにまとめられている。貴重な民俗資料として早くから柳田国男が注目した。1811年秋田藩主佐竹義和(よしまさ)の依嘱を受け,出羽六郡の地誌作成に従事したが,未完。著述は《菅江真澄全集》全12巻,別巻2に集成されている。
→関連項目浅虫[温泉]岩手山鈴木牧之十和田湖古川古松軒

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「菅江真澄」の意味・わかりやすい解説

菅江真澄
すがえますみ

[生]宝暦4(1754).三河,岡崎
[没]文政12(1829).7.19. 出羽,角館
江戸時代後期の国学者,紀行家。白井秀真の次男。幼名は英二,のち秀雄,真澄と改め,文化7 (1810) 年菅江と改姓。賀茂真淵の門人植田義方に国学を,浅井図南に本草学を学んだ。旅好きで,天明3 (1783) 年家を出て信濃,越後を経て奥州に入り,死にいたるまで奥羽各地を巡遊漂泊し晩年は秋田藩領内に住んだ。その間の見聞が精密な彩画入りの紀行文に詳しく記され,『真澄遊覧記』として七十余冊を数えている。また藩の依頼で『秋田藩領地誌』編纂にも従ったが未完。著書は多く,『秋田叢書』別集,『菅江真澄集』6冊,『南部叢書』巻6に収められ,1971年からは『菅江真澄全集』の刊行が開始された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「菅江真澄」の解説

菅江真澄
すがえますみ

1754~1829.7.19

江戸後期の国学者・紀行家。本名は白井英二のち秀雄,1810年(文化7)に菅江真澄に改名。三河国生れ。本草学・和学などを修めた。1783年(天明3)遊歴に旅立ち,以後28年間東北各地を回って歩いたあと,秋田藩久保田城下にとどまり,藩主の意にこたえ出羽国の地誌編集に従事。領内の角館で没した。遊歴中の日記「真澄遊覧記」70冊は,挿絵とともに貴重な民俗資料。うち40冊は藩校明徳館に献納された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「菅江真澄」の解説

菅江真澄 すがえ-ますみ

1754-1829 江戸時代中期-後期の国学者,紀行家。
宝暦4年生まれ。三河(愛知県)の人。国学,本草学をまなび,天明3年より信濃(しなの),奥羽(おうう),蝦夷(えぞ)地などを遍歴。享和元年からおもに出羽(でわ)久保田藩(秋田県)領内に居住。旅先での地理,風俗を挿絵入りで記録した日記「真澄遊覧記」や,地誌,随筆をのこした。文政12年7月19日死去。76歳。本姓は白井。名は秀雄。

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世界大百科事典(旧版)内の菅江真澄の言及

【紀行文学】より

…なお,江戸期には,学者,文人の紀行作品が多数刊行されており,林道春(羅山)《丙辰(へいしん)紀行》,賀茂真淵《旅のなぐさ》,本居宣長《菅笠日記》あるいは貝原益軒《岐曾路之記》,橘南谿《東遊記》《西遊記》などがあり,井上通女《東海紀行》のように女性によって書かれたものもある。特に注目すべきは菅江真澄の1783年(天明3)から1829年(文政12)に没するまでの70冊におよぶ《遊覧記》と称せられる旅日記で,幕末期の東北地方の常民生活を類例をみないほど詳細に記している。【三谷 邦明】
[近現代]
 宿駅制度の改革と旅行の自由化,くわえて鉄道建設と海外交通とが近代の紀行文学の背景をなす。…

【鄙廼一曲】より

菅江真澄(すがえますみ)著の歌謡書。1809年(文化6)ころの成立。…

※「菅江真澄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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