日本大百科全書(ニッポニカ)「羽織」の解説
羽織
はおり
長着の上に着る和服の一種。防寒、礼服、おしゃれなどを目的として用いられる。
現在の羽織の形は、丈は腰の下から膝(ひざ)の上くらい。表身頃(みごろ)は裏に折り返し、前身頃の幅を、衿(えり)肩あきから裾(すそ)までまっすぐに切り落としたところに衿をつける。前裾には前下がりがつく。着用のとき、衿肩回りで、衿を外側に二つ折りにし、前身頃では衿幅をそのまま表に返す。男物は袖丈全部を袖付けにするため、襠(まち)の上部は細くとがった三角形である。女物は振り八つ口、身八つ口があき、襠の上部は2センチメートルくらいで裾広がりの台形である。衿付けの胸の部分に乳(ち)布を縫い付け、それに羽織紐(ひも)をつけて左右を結び留める。羽織の丈は流行により左右されるが、現在の標準によると、中羽織は身長の2分の1ぐらいである。本羽織はこれに3センチメートル加えたものにし、茶羽織は中羽織より10センチメートルほど短くする。紋付類は本羽織丈とし、しゃれ着や街着、普段着は短くする。羽織の用布は従来一反物を用いて本羽織に仕立てたが、第二次世界大戦後は、袖丈、身丈ともに短くなり、羽尺物(はじゃくもの)(9.1メートルから9.6メートル)が普通となった。茶羽織は半反(5.5メートル内外)でつくる。羽織と着物のアンサンブル地は20メートル内外に織られている。
羽織の種類を用途別にみると、男子の場合、黒羽二重(はぶたえ)(単(ひとえ)は平絽(ひらろ))染抜五つ紋付羽織は礼装、無地の紬(つむぎ)やお召(単は絽、紗(しゃ))に三つ紋または縫いの一つ紋をつけた羽織は略礼装に用いる。礼装、略礼装ともに袴(はかま)を着ける。しゃれ着にはお召、紬など長着と同じ材質のものを用いる。色は紺、茶、鉄色が一般的で、長着と対(つい)にすることが多い。日常着には木綿、ウールのアンサンブルなど。女子の場合は、黒染抜三つ紋、一つ紋、または一つ紋の縫い紋の羽織(袷(あわせ)は縮緬(ちりめん)、紋綸子(もんりんず)、単は紋紗、絽縮緬)は慶弔を表す略装となり、地紋にどちらにも向くものを選べば両用となる。一つ紋の色無地(生地(きじ)は黒紋付に同じ)や、古典的な柄の黒絵羽羽織(略して絵羽織ともいう)に一つ紋をつければ慶事の略装となる。女子は帯付きの紋付が礼装で、羽織はあくまでも略装である。色絵羽羽織は華やかな雰囲気があり、しゃれ着、街着には絞り、小紋、ろうけつ、更紗(さらさ)などを用いる。日常着は木綿(縞(しま)、絣(かすり))、ウールなど。羽織は季節により冬は袷羽織、夏は単羽織と着分けるが、最近はウールの単羽織が冬にも用いられる。子供用は祝い着として、5歳男児の黒羽二重染抜五つ紋付熨斗目(のしめ)模様の四つ身羽織がある。ウールの着物に対の羽織は、正月などによく着られる。ちゃんちゃんこは、一つ身袖なし羽織で、綿入れや袷仕立てにする。袖なし羽織は防寒用に用いられる。
袷羽織には滑りのよい羽裏をつける。羽裏地は羽二重や綸子、化合繊などを用い、単の肩すべりには、洋服用裏地なども用いる。色柄は無地、ぼかし、小紋、縞などを選ぶ。男の羽織裏には額裏(がくうら)といって、絵羽柄にしたぜいたくなものもある。羽織は、長着や帯の色、柄、生地との調和がとれていることがたいせつである。羽織紐、帯締、帯揚などの小物との調和にも気を配るとよい。
羽織の起源については、小袖(こそで)の裾端(すそはし)や、塵(ちり)よけ用の道服(どうふく)の裾を短く端折(はお)り着たこと、帯を締めないで放り着たことなどからおこったとの説がある。また、十徳(じっとく)、道服、胴服(どうふく)などに由来し、16世紀後半に南蛮船で渡来した西欧人の服装の影響を受けたという説もある。
文献としては永禄(えいろく)年間(1558~1570)の『室町殿日記』に具足(ぐそく)羽織うんぬんとあるのが最初である。これは鎧(よろい)の上から着た陣羽織で、武将が好んで用いた。当時の高級武士たちが防寒用に着始めた胴服は綿入れや袷で、身丈は小袖よりやや短く、裾は毛抜き仕立てであった。衽(おくみ)がつき、広衿の裏は共布や装飾的な染織物がつけられ、裏衿付けの位置には、三角形の乳布と絎(く)け紐がついている。また背割、裾脇(すそわき)あけがみられる。衿は衿肩のところで内側または外側に折って着たが、立てたままのこともあった。その後、衽が除かれ、衿下をつけず、身頃の裾まで垂直に衿がつけられた。また前下がりがつき、襠のように脇が広がっているものも現れた。衽付きの小袖形態は、上杉謙信所用のものにみられ、上杉家の家臣直江兼続(かねつぐ)の胴服は後世の羽織に近い(日光東照宮の伝徳川家康小紋羽織はこれに似ている)。袖形は袖のないもの、袖幅の狭いもの、広袖、角袖、丸袖と変化し、天正(てんしょう)(1573~1592)のころには茶人、医者の間で内着として着られ、町人にも及んだのは江戸初期からである。
元禄(げんろく)時代(1688~1704)には、遊廓(ゆうかく)に通う江戸銀座の人々の風をまねて、袖が長く、丈の短いものとなり、享保(きょうほう)(1716~1736)のころにはこの異様な風体が改まった。元文(げんぶん)(1736~1741)ごろには浄瑠璃太夫(じょうるりだゆう)の羽織丈の影響を受けて、文金(ぶんきん)風という長着と対丈のものが流行した。このように袖・丈の長短は、江戸末期まで変化が繰り返された。羽織の定紋は素襖(すおう)、大紋、武士の十徳の流れを受け、背、袖、胸の五つ紋を正式とし、略して背、袖の三つ紋、背の一つ紋がある。享保以来、黒地紋付羽織が礼装とされたが、庄屋(しょうや)、名主を除き、百姓は着用を禁じられた。武士の羽織袴は裃(かみしも)に次ぐものとされたが、明治になり裃が廃止されたのち、これが男子一般の礼装として今日に至っている。
女子の羽織は宝暦(ほうれき)(1751~1764)のころ、江戸・深川の芸者が着用したことに始まり、羽織芸者などとよばれたが、一般に用いるようになったのは、明治になってからである。
形態上から特殊なものを次にあげる。〔1〕陣羽織 室町時代よりおこり、武士が陣中で具足の上に着たので具足羽織ともいわれる。袖の有無、丈の長短はさまざまである。〔2〕袖なし羽織 表衣の上に着る袖のないもので、室町時代に発生し、丈の長いものは打裂(ぶっさき)形式で陣羽織に発展した。庶民の間では陣兵羽織、甚兵衛羽織として防寒用に普及した。〔3〕打裂羽織 背割羽織ともいう。帯刀や乗馬に都合がよいように、背縫いの腰から下を縫いあけたもので、桃山時代からみられる。〔4〕蝙蝠(こうもり)羽織 袖が長く、丈の短いもので、コウモリが羽を広げたようにみえるため、この名がある。寛永(かんえい)・正保(しょうほう)(1624~1648)ごろ武家若衆に流行した。〔5〕革羽織 なめし革でつくったもので防寒用であったが、明暦(めいれき)の大火(1657)のころより火事装束に用いられた。〔6〕火事羽織 火事装束用の羽織で、革、羅紗(らしゃ)、羅背板(らせいた)などでつくる。胸当て、当(あ)て帯(おび)をつけたものもある。〔7〕三斎羽織 細川三斎が考案した筒袖の打裂羽織で、幕末に官軍、幕府の兵士が着用した。
[岡野和子]