粟野村(読み)あわのむら

日本歴史地名大系 「粟野村」の解説

粟野村
あわのむら

[現在地名]粟野町口粟野くちあわの中粟野なかあわの入粟野いりあわの

横根よこね山東麓から南東流する粟野川の長く深い谷に沿う。この谷一帯は古来粟野郷と称され、日光山往古社領六十六郷の一つとして郷名がみえる(日光山常行三昧堂新造大過去帳)。江戸時代の郷帳類では当村・中粟野村・入粟野村の三村をまとめ粟野村として把握されたが、実際はそれぞれ異なる給人に支配され、独立した村の機能を有していた。慶長一七年(一六一二)検地帳(小峰定光文書)が二冊残り、それぞれ皆川領都賀郡粟野村・落合郡皆川庄入粟野村と表書きがあり、従来の粟野村は検地に際して実質的には二村に分けられていたとみられる。入粟野村分の集落として奥から五月さつきざく・水沢みずさわ・滝ノ端・出口でぐち大栗おおぐり菅沼すがぬまなど、口粟野村と中粟野村にあたる粟野村の集落として小金沢こかねざわ板名いたな日渡路ひどろ三坪みつぼ筌場うけばなどがある。この検地は本多忠純によって行われたともいわれるが、粟野村分は皆川氏、入粟野村分は幕府によってなされたと考えられる。さらに寛永一〇年(一六三三)入・中・口の三村に分郷され、入粟野村は旗本本間(五〇〇石)、中粟野村は旗本高山(四五〇石)、口粟野村は旗本津田・平賀(各四〇〇石)・春日(高未詳)の各旗本領になったという(粟野の歴史)。なお慶長一七年の関東八州真言宗諸寺連判留書案(醍醐寺文書)に「皆川在郷粟野村」として正蔵院の名がみえる。

慶安郷帳には「西市野村」と誤記され、田三九二石余・畑一千二七七石余・山三一二石余・夫免一六八石余・延九石余、皆川藩領とある。輪王寺本には粟野村とみえる。元禄郷帳の高二千六〇三石余、旗本本間・高山・小坂・打越・水野・加藤・中条・伊沢の八給で、ほか妙見みようけん寺領があった。元禄一一年(一六九八)の粟野村差出帳(横尾勝右衛門文書)によると、各旗本の年貢米はもとは栃木河岸・壬生みぶ河岸から船で運送していたが、当時はすでに金納となっており、郷蔵敷地も荒地となっていた。小物成として麻・綿・漆・大豆・荏などがみられる。村稼に麻と薪の売出し、農間稼に紙漉を行う者がいた。

天保七年(一八三六)幕府勘定奉行により三村を併せた粟野村全域の検地が行われたが、入粟野・中粟野両村が反対運動を行っている。元来一村であったため、耕地が相互に入組み、入会の問題や境界・材木をめぐる対立も多く、検地が開始されたあとも、検地役人に対して中粟野村の百姓六〇人ほどが役人宿舎に直訴を行ったり、入粟野村の者が口粟野村の町並北側の中妻なかづま河原に屯集した。

粟野村
あわのむら

[現在地名]豊北町大字粟野

豊浦郡の最北部にあり、村の中央を粟野川が流れ、川沿いに赤間関あかまがせき街道(北浦道筋)が通る。南北に細長い地形で、東は伊上いがみ(現大津郡油谷町)、西はだけ山をもって阿川あがわ滝部たきべの各村に接する。北は油谷ゆや湾に面し、南は田耕たすき殿居とのい(現豊田町)の両村。長府藩領で豊浦郡田耕筋に属す。

「防長古文書誌」には元徳二年(一三三〇)に長門探題北条時直が、長府串崎くしざき(現下関市)若宮わかみや社に粟野村を社領として寄進した次の文書が載る。

<資料は省略されています>

「地下上申」は村名のいわれを「往古は深山にて松雑木等多く有之たる由、夫故諸国より材木買得に来り採用仕、日を重ね申に付、浴谷等を開き米穀はんたんの時節にてか粟・ひへ等を第一に作仕、おのづから此所に有付、妻子等呼寄せ自然と居宅を構へ申に付、村なりに成立申候故、猶以郷中山の浴谷も粟計夥敷作り付け、左様之いんゑん広野等も有之故、粟野村と申ならはしたるにて可有御座と地下人申伝候」と記す。また寛文三年(一六六三)の大津郡伊上村との境目争いの記録には、「長府領青野村」ともある。

小字には古殿ふるとの・土井畠・安土場あづちばなどがあり、中世のみようと思われるものに、なかみよう・新三郎・守政ノ田・藤三郎・兵治ひようじさこなどもある。

粟野村
あわのむら

[現在地名]九重町粟野

引治ひきじ村の北、玖珠川左岸にある。中世は山田やまだ郷の内としてみえる。近世当村の組頭を勤めた古後家は豊後清原氏の流れをくみ、玖珠川支流太田おおた川流域の古後こご(現玖珠町)が本貫地であった。永正一四年(一五一七)朽網親満の乱の勲功の賞として大友親安(義鑑)から牧口まきぐちの地四分の一を預け置く旨の感状を得ているが、同書状は字ユウジャク(用作)にある古後家の先祖の墓碑に刻まれる。大友家の改易により八幡松信やわたまつべら(現玖珠町)や古後の地を離れ、古後勘三郎のとき慶長六年(一六〇一)当地に移住した。同年の予州替地御知行所目録(佐伯藩政史料)に「あハの村」とあり、高九八八石余。

粟野村
あわのむら

[現在地名]梁川町粟野

梁川村の西に位置し、南は塚原つかはら村、西は二野袋にのふくろ村。村域は南北に長く、上粟野・中通り・下組しもぐみから構成されていた。村名の由来に関して、俗説として泡の地蔵説(粟野地蔵尊縁起)と粟作説があるが、伊達氏祖先の領地「若狭粟野」とのかかわりに求める考証もある。永正一六年(一五一九)三月二四日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)によれば、仁田方から購入した伊達東根だてひがしね「粟野の郷之内□後内」や、「上粟野郷之内、やヰは内在家」などが、蘆立彦松に安堵されている。天文七年(一五三八)の段銭古帳にも伊達東根のうちとして「あわの」とみえ、段銭は一貫五五〇文。同二二年の晴宗公采地下賜録では、太宰信濃が「いかの四郎さへもん」から購入した当地の「とひむかひ」のうち畠一貫文などを安堵された。

粟野村
あわのむら

[現在地名]鎌ヶ谷市粟野など

中野なかの(牧内にのちに初富村が成立)を挟んで鎌ヶ谷村・道野辺みちのべ村の北方に位置する。西方にも同牧が広がり、北は佐津間さつま村、東は印旛いんば軽井沢かるいざわ新田。中世には相馬そうま御厨のうち。年未詳の某歎願状(相馬文書、以下断りのない限り同文書)によれば相馬胤村の遺領のうち「薩摩・粟野」など五ヵ村のなかから二ヵ村を胤村後家分として配分したい旨の嘆願が幕府になされた。文永九年(一二七二)一〇月二九日薩摩さつま(佐津間)村、陸奥国耳谷みみがい(現福島県小高町)とともに当村は平松若丸(相馬師胤)に配分され、幕府はこれを安堵している(関東下知状)

粟野村
あわのむら

[現在地名]北茨城市中郷なかごう町粟野

塩田しおた川の左岸に位置し、流域に平地が開け、北西部に台地が広がる。北は足洗あしあらい村・松井まつい村。

常陸国赤浜妙法寺過去帳の応永三三年(一四二六)に「妙宣尼アハノイシ」とみえる。文禄四年(一五九五)岩城領検地目録(静嘉堂文庫蔵)には「千百四拾石五斗壱升弐合 (竜子山分)ひたな村あわの村」とあり、水戸領郷高帳先高によると、寛永一二年(一六三五)の村高は六八六・六八五石、新田六七・〇八二石とある。

粟野村
あわのむら

[現在地名]阿南町富草とみくさ 粟野

現阿南町北部に位置する。北は古城ふるじよう村・大平おおびら村、東は新木田あらきだ村・梅田うめだ村、南は浅野あさの村・鷲巣じゆす村・門原もんばら村、西は和合わごう村・雲雀沢ひばりさわ村・新井あらい村に接する。

「信州伊奈郡郷村鑑」に「応永年中下条伊豆守頼氏二男下条金兵衛氏久知行ニテ、野上ニ屋敷ヲ建住之、其後合原ヘ移リ、此跡佐々木新六領之、下条氏ノ家臣也」とみえる。

天正一六年(一五八八)毛利領、文禄二年(一五九三)京極領、慶長五年(一六〇〇)小笠原領、同一七年脇坂領、天和元年(一六八一)より美濃高須藩松平氏の飛領地となり、明治に至る(長野県町村誌)

粟野村
あわのむら

[現在地名]飯高町粟野

田引たびき村の西にあり、櫛田くしだ川が蛇行しながら東西に流れており、その河岸段丘に沿って和歌山街道が通る。中世川俣かばた谷は北畠氏の勢力下にあったが、天正五年(一五七七)北畠具親の挙兵に味方した川俣筋のなかに粟野の諸侍も加わった。粟野九十九曲あわのつづらくま城は、閼伽桶あこう城とともに織田方の日置大膳亮兄弟によって攻め落された(勢州四家記、勢州軍記)

寛永一八年(一六四一)検地帳(徳川林政史蔵)に「粟野村」と記されている。明治二年(一八六九)大指出帳(同蔵)によれば家数五八、人数九九、産物は煎茶・芋茎・串柿。

粟野村
あわのむら

[現在地名]東庄町粟野・宮野台みやのだい

小座おざ村の南に位置する。正和二年(一三一三)四月二五日の関東下知状案(円福寺文書)に「橘庄 号東庄 粟野郷」とみえ、平盛胤の遺領であった。盛胤は千葉氏の支流東氏一族の海上胤方の子であるが、伯父東胤行の養子となり、東庄小南沼闕こみなみぬまかけ城に居住したという(千葉大系図)城の腰じようのこし一帯は中世の粟野砦跡とされ、東秀胤の子粟野胤香が拠ったというが未詳。元和三年(一六一七)の柑子木数帳(谷本家文書)に「あわのゝ村」とみえ、善右衛門尉・弥左衛門尉らが計七本を負担している。

粟野村
あわのむら

[現在地名]八千代町粟野

鬼怒きぬ川中流の右岸に所在。北は片角かたかく村。古くは鬼怒川の乱流地帯で、堤防寄りに集落が形成され、西・南は沖積地水田が開ける。小字には鍋沼なべぬま水底みそこなど粟野新田と同名のものがあるほか、中川原なかがわら堀南ほりみなみ鴨内かもうちなど沿岸低湿地を物語る地名が多い。「各村旧高簿」によれば幕末には旗本石川八十郎の知行地一四七・一二五六六石と坂部貞之允の知行地七七・五二四三四石の相給支配。

粟野村
あわのむら

[現在地名]武儀町富之保とみのほ 粟野あわの

湾曲して南流する津保つぼ川東岸に位置し、対岸は岩山崎いわやまざき村。東の鈴越すずごし峠を経て多々良たたら村に至る。慶長一〇年(一六〇五)の実蔵坊津保檀那目録案(経聞坊文書)に「あたノおや喜三殿」とみえるのは当村の者であろうか。元禄郷帳に「上ノ保粟野村」と記され、高九二石余。

粟野村
あわのむら

[現在地名]大分市玉沢たまざわ 粟野など

七瀬ななせ川左岸の村で、雄城おぎ村の南に位置する。北辺を肥後街道が通り条里の遺構がある。正保郷帳に村名がみえ田高一五五石余・畑高一八石余、津守つもり庄に所属。領主の変遷は宮崎みやざき村に同じで、明治二年(一八六九)の竈数一〇・人数七七(「竈数石高人別調帳」内藤家文書)

粟野村
あわのむら

[現在地名]伊勢市粟野町

宮川下流左岸、後背湿地の微高地にある。応徳元年(一〇八四)二月一三日の掃守某畠地売券案写(光明寺古文書)に「度会郡湯田郷粟野村字田畠」とあり、その四至として東は「河」、西は「中垣」、北は「尺尊寺領」が記されている。光明寺古文書所収の元暦二年(一一八五)から弘安七年(一二八四)にかけての治田売券案写・治田放券案などに「度会郡湯田郷下粟野村」「度会郡湯田郷上粟野村」「粟野村」などの記載があり、下粟野しもあわの村では「字浦之前付東」、上粟野村では「小粟里卅一坪」などが売買されている。

粟野村
あわのむら

[現在地名]武生市粟野町

丹生山地を流れる天王てんのう川左岸、曾原そはら村の南にある。中世は山干飯やまかれい保の地。慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録には「粟生野村」と記され、高一〇三・三〇二石余、先高六二石余・出分四〇石余。正保郷帳では粟野村とし、田方九六石余・畠方六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報