肥後街道(読み)ひごかいどう

日本歴史地名大系 「肥後街道」の解説

肥後街道
ひごかいどう

慶長六年(一六〇一)肥後国を領した加藤清正(熊本藩主)が豊後国大分郡・海部郡・直入なおいり郡内に二万石余を与えられた際に、熊本から瀬戸内に出るルートとして整備・使用した道を便宜的に肥後街道とよぶ。寛永九年(一六三二)加藤氏改易以後も同氏に替わった熊本藩主細川氏が参勤交代路として使用し、岡藩中川氏もこの道を通っている。「豊後国古城蹟并海陸路程」には肥後大道とみえる。

延享二年(一七四五)成立の「肥後鑑抜記」(後藤家蔵)、成立年不詳「鶴崎路小案」(永青文庫)によれば、大分郡鶴崎つるさき町を基点とし、乙津おとづ川を渡って高松たかまつ萩原はぎわらまき光吉みつよし稙田わさだ(市)木上きのうえの各村(以上現大分市)を経て熊本藩領の野津原のつはる宿に入る。この間、牧村までは伊予街道と重複する。野津原宿を出ると今市いまいち宿(以上現野津原町)つつみ村・追分おいわけ(現直入町)山路やまじよつぐちを経て熊本藩領久住くじゆう郷に入る。久住を出ると白丹しらに(以上現久住町)を経て肥後国阿蘇郡波野なみの大利おおり(現熊本県産山村)に入り、熊本城下へ続いている。「肥後鑑抜記」には鶴崎から熊本まで「道程三拾壱里半」と記される。「鶴崎町史」によれば、豊後領を与えられた清正は中世の鶴崎城跡に休憩所・宿泊所として御茶屋を設けた。その後加藤・細川両氏の治世下で鶴崎町の建設・整備、堀川の開削、乙津川分流の埋立などの港湾整備、鶴崎番代のもとでの支配機構の整備が進んだ。鶴崎は「豊後の諸藩に遠近応接し(中略)海は大坂通運の要津として、数多くの御軍船を指し置かれ(中略)御領内東一辺の要所なり」(鶴崎路小案)と位置付けられるようになり、瀬戸内への海の玄関口として近世を通じて豊後国内熊本藩領の政治的・経済的・軍事的拠点であった。

肥後街道
ひごかいどう

本庄ほんじよう(現国富町)と肥後国球磨くま郡とを東西に結ぶ街道で、本庄から北東へ都於郡とのこおり(現西都市)を経て佐土原さどわら城下(現佐土原町)に至る道筋を含む場合もあるが、本庄―佐土原城下間は薩摩街道と重複する。幕府領の本庄村を起点にすると西へ同領の竹田たけだ村・守永もりなが(現国富町)を通り、鹿児島藩領内に入る。高岡たかおか郷の入野いりの(現綾町)あや郷の南俣みなみまた(現同上)野尻のじり郷の紙屋かみや(現野尻町)を通り、紙屋村には鹿児島藩の番所が設置されていた。同郷のふもと村・野山のやま(現野尻町)を経て岩瀬いわせ川から小林こばやし郷に至り水流迫つるざこ村・つつみ村・細野ほその五日いつか町・南西方みなみにしかた村・北西方村(現小林市)を通る。北西方村では北の飯野いいの大河平おこびら村・杉水流すぎづる(現えびの市)との境を通り、原田はらだ村から飯野郷内に入り、同村を過ぎると街道を境に南に前田まえだ村、北に坂元さかもと村がある。さらに西進して加久藤かくとう郷に入り小田おだ村・榎田えのきだ(現同上)を経たのち北進し、肥後国球磨郡大畑おこば(現熊本県人吉市)境に至る。この間の加久藤越は峻険な道のりで国境まで約一里二三町の道程であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報