窪村(読み)くぼむら

日本歴史地名大系 「窪村」の解説

窪村
くぼむら

[現在地名]氷見市窪・地蔵町じぞうまち伊勢大町いせおおまち二丁目

東は富山湾に面した砂原、西は十二町じゆうにちよう潟で、南は柳田やないだ村、北は氷見町に接する。正保郷帳の高五八三石余、田方二六町八反余・畑方一二町余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高六三六石・免四ツ七歩、小物成は網役一四七匁(うち二七匁出来)、潟廻網役七五匁、猟船櫂役八〇匁(ほか三〇匁退転)とある(三箇国高物成帳)。寛保二年(一七四二)の高免等書上帳(折橋家文書)によれば、草高五六二石、免は変わらず、小物成は猟船櫂役一六〇匁・あんこ網役二四匁・潟廻網役五七匁・引網役一四六匁・いくり舟役五匁・油臼役八匁で、百姓七一・頭振三〇、その他一とある。

窪村
くぼむら

[現在地名]金沢市窪町・窪一―七丁目・伏見台ふしみだい三丁目

山科やましな村の南西、伏見川の中流左岸、満願寺まんがんじ山の北麓に位置する。村内を鶴来つるぎ往来が通る。永禄三年(一五六〇)一〇月二〇日の了妙田地売券(竹田文書)によれば、「くほ村住人」了妙は先祖相伝の薬師丸名の田地を金沢御堂に派遣されていた本願寺坊官下間頼充に代銭三〇貫文で売却している。なお頼充が永禄三―六年にかけて買得した加賀国内の田地を書上げた天正三年(一五七五)四月の加州田地注文案(同文書)にも同名の名が載る。同年頃と推定される加賀国田地書上(同文書)には「石川クホノ番頭 シノ田加兵へ」とある

正保郷帳では高八五五石余、田方三六町余・畑方二一町余、ほかに新田高二一石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高九〇四石・免六ツ一歩、ほかに小物成として山役四七八匁・蝋役八匁が賦課されていた(三箇国高物成帳)

窪村
くぼむら

[現在地名]南箕輪村久保くぼ

東は天竜川、西は幾つかの段丘を登って大泉おおいずみ村に接する。第一段丘崖下を南北に伊那往還が通り、この街道に沿って集落が発達し、北の窪は木下きのした(現箕輪町)に、南のしお殿との村に接する。また枝村に沢尻さわじり村がある。

村名の初見は、文明二年(一四七〇)の「伊那廻湛日記」(矢島文書)で「くぼ三貫百文」とある。諏訪上社の神使が伊那郡廻湛まわりたたえ神事を行う巡行の地であった。

窪村
くぼむら

[現在地名]打田町窪

竹房たけふさ村の西、紀ノ川北岸にあり、北は打田村、紀ノ川対岸は高野たかの村。中世は田中たなか庄に含まれた。慶長検地高目録では村高四四七石余、小物成一斗一升七合。田中組に属し、元禄二年(一六八九)の田中組指出帳(田中家文書)は「久保村」と記し、田方三九一・八七一五石(二五町余)、畑方五六・二六七四石(三町九反余)、家数六九、人数三二九、馬二、牛二六とある。延享元年(一七四四)の田中組大指出帳写(桂原家文書)には家数六一(本役三〇・半役一四・無役一三・庄屋一・肝煎二・あるき一)岩出いわで(現岩出町)麻生津おうづ(現那賀町)竹房たけふさの渡船代として合せて米一斗八升、麦六斗三升を出すとある。

窪村
くぼむら

[現在地名]会津坂下町高寺たかてら

只見ただみ川右岸の河岸段丘上にあり、東から北東は高寺山を含む山地で、南東は鐘撞堂かねつきどう峠、南西は船渡ふなと村、北は窪倉くぼくら村。古くは船渡村の北の只見川べりの窪地にあったための村名といい、度々の洪水のため段丘上に移り、このとき窪村に約三〇戸、船渡村に約二〇戸、州走すばしり村に三戸と分散したと伝える。伝説では古代に高寺山で仏教が盛んであった頃、その生活物資の補給地として栄えたという。「会津旧事雑考」所収天喜五年(一〇五七)六月三日の八幡宮神役目録に「窪夏井矢鏑流馬一番としかへ」とある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高九〇石余。

窪村
あしくぼむら

[現在地名]天竜市芦窪

長沢ながさわ村の北、西藤平にしふじだいら村の西、天竜川の支流西阿多古にしあたご川中流域の山間に位置する。領主の変遷は横川よこかわ村と同じ。慶長一六年(一六一一)の阿多古領年貢取帳(中村家文書)に村名がみえ、永高四貫一九〇文。元和五年(一六一九)の阿多古村指出(同文書)によれば「足(久脱カ)保村」とみえ、永高四貫一一〇文、うち川成五一〇文を差引いた年貢を鐚銭と茶二〇〇斤・綿一〇〇目(ただし金納)で納めた。元禄郷帳では高六四石余。延宝六年(一六七八)の阿多古領一八ヵ村年貢免定(中村家文書)によれば反別一一町六反余、うち約八割は畑地。

窪村
くぼむら

[現在地名]富山市窪本町くぼもとまち・窪・窪新町くぼしんまち四ッ葉町よつばちよう奥井町おくいまち曙町あけぼのちよう稲荷元町いなりもとまち三丁目

神通川右岸、赤江あかえ川の西岸に隣接し、北は西上赤江にしかみあかえ村。村名は窪地の開発に由来するという。江戸初期は加賀藩領、万治三年(一六六〇)の領地替で富山藩領となる。正保郷帳では高三二八石、田方一九町七反余・畑方二町一反余、新田高八五石余。

窪村
くぼむら

[現在地名]富山市四方北窪よかたきたくぼ

北は四方湊・西岩瀬にしいわせ湊。浜往来打出うちいで村・四方町を経て西岩瀬町から南下、当村を通った。元文四年(一七三九)の覚書によると、打出村荒屋あらや村・当村の三ヵ村が、他国役人の四方町通行の際の伝馬役を命ぜられており(「高方要用留帳」内山家文書)、浜往来が湊や船渡しにさしかかる交通の要所であった。婦負郡に属し、富山藩領。所属組は四方新村と同じ。正保郷帳では荒屋村に含まれた。承応四年(一六五五)の村御印では、草高一六九石余、免三ツ七厘、蔵入一四石余のほか、一二人の給地。

窪村
くぼむら

[現在地名]三和村窪

飯田いいだ川右岸に位置し、南に水科みずしな村、北に中野なかの村がある。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「水無瀬分此外六方分くほ村 上」とみえ、本納七七石二斗三升・縄高二六四石三斗六升、家二一軒・六二人とある。近世初頭のものと思われる五月一二日付本願寺教如書状(専敬寺文書)によれば「クホ」をはじめ周辺一六町村の門徒は、専敬せんきよう(現東頸城郡安塚町)の取次で京都東本願寺へ銀子一〇〇目を志として納めた。

窪村
くぼむら

[現在地名]宇和町窪

岩瀬いわせ川上流域の村。北は平野ひらの村、南は常定寺じようじようじ村に接する。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「窪村 茅山有、小川有」と記される。寛文検地の際、多野中たのなか村の付村とされた。

太閤検地の石高は二二三石、耕地面積の比率は田八四パーセント、畑一六パーセントであったが、寛文検地では石高が一五パーセントも減少し、田七四パーセント、畑二六パーセントに変化した。

窪村
くぼむら

[現在地名]広見町久保くぼ

広見川中流域に位置する。東は小松こまつ村、西は下大野しもおおの村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「窪村 茅山有、川有」と村名がみえる。「郡鑑」によると貞延組小松村の項に「窪村共」とあり、もとは小松村に属していたとも考えられる。

窪村
くぼむら

[現在地名]大野町大原おおはる

小原こばる村の東、田代たしろ川支流寺畑てらはた川西方にある。北東は駒方こまがた村、南は郡山こおりやま村。正保・元禄・天保の各郷帳および「豊後国志」に村名は記載されない。旧高旧領取調帳に村名がみえ、高一一五石余。

窪村
くぼむら

[現在地名]八尾町窪

尾久おぎゆう村の西方、室牧むろまき谷西部にある。正保郷帳に村名がみえるが、村高などは谷内やち村と合せて記される。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では柚木ゆのき村の三町ほど北にある枝村新田としてみえ、高四一石。

窪村
くぼむら

[現在地名]かつらぎ町窪

萩原はぎはら村の西にあり、山城神護寺領かせだ庄に含まれた。慶長検地高目録によると村高二七七石余、小物成一斗二升五合。丁ノ町組に属し、宝永五年(一七〇八)の伊都郡丁之町組大指出写(中谷正敏氏蔵)によると、家数三四、人数一六八、井手一、池六。

窪村
くぼむら

[現在地名]八代市二見下大野ふたみしもおおの

東は下大野村、西は上大野かみおおの村に接する。元文(一七三六―四一)頃の「肥集録」では下大野村の小村とされている。葦北あしきた郡田浦手永に属し、「国誌」に高四〇石一斗余とある。宝暦(一七五一―六四)頃の肥後国中寺社御家人名附では下大野村懸りの村。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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