北宇和郡(読み)きたうわぐん

日本歴史地名大系 「北宇和郡」の解説

北宇和郡
きたうわぐん

面積:六六四・七〇平方キロ
吉田よしだ町・三間みま町・広見ひろみ町・日吉ひよし村・松野まつの町・津島つしま

愛媛県西南部の郡。宇和島市により南北に分断され、その北に吉田・三間・広見・松野の四町と日吉村、南に津島町がある。郡の東部には高研たかとぎ(一〇五五メートル)、北部に御在所ございしよ(九〇八メートル)いた谷越たにごし(六五四メートル)高森たかもり(六三五メートル)法花津ほけづ(四一二メートル)、南部は高知県境の高山に接し、津島町にはゆずり葉森はもり(一〇六六メートル)大黒おおぐろ(一一〇六メートル)などがある。四万十しまんと川上流の三間川流域に三間盆地があり、その支流には河岸段丘が発達する。津島町の岩松いわまつ川流域にも小平地がある。同郡の西部には宇和海があり、三浦みうら半島・由良ゆら半島が突出して、リアス海岸を形成する。

〔原始〕

宇和郡の山間部には、旧石器的な遺物も認められる。松野町の真土まつち遺跡の最下層部から出土した握斧状石器は旧石器的といわれ、上層部には縄文時代早期のものもみられる。津島町御内の池の岡みうちのいけのおか遺跡も旧石器―縄文早期的な石器を出し、広見町岩谷いわや遺跡は縄文後期、津島町岩淵の吾平駄馬いわぶちのごへいだば遺跡、三間町金銅かなどう遺跡は弥生遺跡として知られている。

〔古代〕

現北宇和郡内には、「和名抄」にみえる三間郷立間たちま郷が存在した。前者は三間町、後者は吉田町立間に比定される。「日本書紀」の朱鳥五年(六九一)七月三日の条に「宇和郡御馬山」の記事があり、この御馬山みまやまがのちに三間郷となったと考えられる。

〔中世〕

古代から鎌倉初期にかけて、この地域は橘氏の所領であった。橘遠保が藤原純友の反乱を鎮定して以来、その子孫は宇和郡に蟠踞する豪族となった。鎌倉幕府が成立すると、橘公業(公成)はその御家人となり、宇和郡地頭職を得た。寛喜三年(一二三一)三月二七日に「伊予国宇和庄内小立間重貞名」の地頭職が、公業からその子乙王丸に譲られている。この小立間こたちまは立間郷内に存在したと考えられる。嘉禎二年(一二三六)二月二二日、宇和郡が太政大臣西園寺公経の荘園となり、仁治元年(一二四〇)閏一〇月一三日、前薩摩守沙弥公蓮(公業か)は肥前国長島庄地頭職に転補された。こうして西園寺氏の宇和庄の時代となる。

鎌倉末期から室町期にかけて、この地域にも多くの在地領主(国衆)が成立する。竹林院家はのち西園寺相国実兼の子左大臣公衡の別号竹林院をその姓としたものという。その子孫公明は西園寺氏一族として、吉藤よしふじ内深田うちふかた(現広見町内深田)に入部したとみられ、深田殿竹林院氏の祖とされている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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