東宇和郡(読み)ひがしうわぐん

日本歴史地名大系 「東宇和郡」の解説

東宇和郡
ひがしうわぐん

面積:四七三・七一平方キロ
明浜あけはま町・宇和うわ町・野村のむら町・城川しろかわ

ひじ川上流の宇和川・黒瀬くろせ川流域山間部、南予最大の平地である宇和盆地と宇和海沿岸部を含み、北は喜多きた郡、西は八幡浜やわたはま市・西宇和郡、南は北宇和郡に接する。その東北の雨包あまつつみ(一一一一メートル)、北の丸石まるいし(一三二七・五メートル)御在所ございしよ(六六九メートル)、南の御在所山(九〇八メートル)高森たかもり(六三五メートル)、西の堂所どうしよ(五九三メートル)などの山々に囲まれ、宇和盆地・野村盆地のほかは河岸段丘が平地を形成し、海岸はリアス海岸となっている。

明治一一年(一八七八)の郡区町村編制法で、宇和郡が東西南北に分割されて成立した。

〔原始〕

城川町中津川なかつがわ洞窟遺跡・穴神洞あながみどう遺跡は、縄文前期の土器・人骨などのほかにおびただしい石鏃が出土し、大分県姫島産の黒曜石製の石鏃も含まれている。宇和盆地には、宇和町に縄文後期のタイマツ遺跡・深山みやま洞窟遺跡・城楽じようらく岩陰遺跡・永長ながおさ遺跡・諏訪駄場すわだば遺跡・久枝ひさえだ遺跡などが数えられている。

弥生時代になると、宇和盆地の周縁部は、南予の稲作・金属器文化の先進地域となって現れる。宇和町には金毘羅山こんぴらやま遺跡・田苗たなえ遺跡・坂戸さかど遺跡・畑中はたなか遺跡・観音嶽かんのんだけ洞穴・村田むらた遺跡・おか遺跡・永長遺跡・上松葉かみまつば遺跡などがある。青銅器はすでに「宇和旧記」に、寛文八年(一六六八)久枝村(現宇和町久枝)の長七が大窪台おおくぼだいという所で鉾五本を発掘した記録がある。「宇和町誌」は古来数十本が出土し、銅鉾三、銅剣二が現存するという。

〔古代〕

古墳時代には、南予(宇和郡)では宇和盆地周縁丘陵地にのみ古墳が造成され、この地域における豪族の出現を示している。宇和町の山田やまだ古墳群は六世紀初めの築造という前方後円墳である小森こもり古墳を含んでいる。粟尻あわじり古墳群・河内奥かわちおく古墳群・田苗古墳群・道仙寺どうせんじ古墳群・坂戸古墳群・久枝古墳群・下松葉しもまつば古墳群・清沢きよさわ古墳群・郷内ごうない古墳群などは、六世紀初頭から七世紀に至る後期群集墳で四五ヵ所に達する。出土品には金環・銅鏡・勾玉・鉄器・須恵器などがある。小森古墳は地方豪族の墳墓であるが、南予には国造は設置されておらず、大和朝廷の権力の浸透が遅かったことをうかがわせる。

「先代旧事本紀」には、景行天皇の皇子国乳別命が伊予宇和別祖となったと記している。別は国造より下位の豪族であろうし、宇和郡には式内社も存在しない。「三代実録」には、仁和元年(八八五)二月一〇日、従来正六位であった宇和津彦神に従五位下の神階を授けたという記事がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報