矢田村(読み)やだむら

日本歴史地名大系 「矢田村」の解説

矢田村
やだむら

[現在地名]哲西町矢田

畑木はたき村・八鳥はつとり村の北に位置し、西は備後国粟田あわた(現広島県比婆郡東城町)、東は荒戸あらと(七六一・八メートル)を挟んで田淵たぶち(現哲多町)。村中央部を神代こうじろ川が北流し、東城とうじよう往来が通る。集落は街道沿いの浪方なみがた本町ほんまち馬場ばば井下いげや山中の矢田谷・倉木くらきなどに散在。当地二野ふたの遺跡は哲多郡家跡ではないかとされている。

応永一四年(一四〇七)一二月九日足利義満は浅口あさくち郡・同闕所分などとともに矢田郷を細川満国に宛行った(「足利義満御教書」細川家文書)。永享元年(一四二九)一二月二日の惣社宮造営帳写(池上文書)によると「国衙御領」矢田郷は棟別一間につき二〇文を課せられ、吉備津神社の流鏑馬料足納帳によると、康正三年(一四五七)「やた」では三貫文を納めている。なお同社の応永元年仮託の吉備津宮惣解文写に「矢田郷 綾綿糸小々」とある。天正一九年(一五九一)九月二五日には、矢田村八〇〇石が毛利氏により福頼左衛門尉に引渡され、文禄五年(一五九六)五月一八日にもこれが確認された(「安国寺恵瓊他連署打渡状・同裏書」萩藩閥閲録)

矢田村
やたむら

[現在地名]豊田町大字矢田

木屋こや川がつくる豊田平野の西北部に位置し、北東は楢原ならわら村、東は西市町にしいちまち、東南は木屋川を境になか村、西は庭田にわた村・八道やじ村に接する。長府藩領で豊浦郡豊田筋に所属。

村名は正保四年(一六四七)の西市町の紅粉屋家文書に矢田村とみえる。「地下上申」によれば、矢田新左衛門尉宗武が領主であり開祖であったことが名の由来で、平安中期頃からこの付近の有力豪族であった豊田氏が根拠とした本郷ほんごうの地域に含まれる。

古代・中世の村の様子は不詳であるが、豊田氏発展の一翼を担った地であったことは、地理的にも十分に考えられる。村内寺内てらうちには南北朝頃焼亡したと伝える長松ちようしよう寺の遺跡があり、その本尊薬師如来は村内横野の玄鎮よこののげんちん庵に移され、延宝元年(一六七三)にはさらに村内今熊いまぐまに移転、楢原村永楽ようらくの薬師堂十二神などとともに薬師堂として祀られている。

文明年間(一四六九―八七)になると右田弘詮が楢原村の諏訪すわ山に居城を築き、続いて矢田村横野の山稜を城山にしている。

矢田村
やたむら

[現在地名]七尾市矢田町・矢田新町やたしんまち大和町やまとまち

石動せきどう山系七尾城ななおじよう山麓から邑知おうち地溝帯にかけての傾斜地から臨海部に位置する。村中を大谷おおたに川の支流杵田きねだ川が北流する。西は府中ふちゆう村、垣内に大門だいもん天満でんまん中瀬なかせ高木森たかぎもり蘭塔らんとう前川まえかわ大橋おおはしがある。地名は大鷲が村人を害するので気多大明神が弓矢で射殺し、その矢が当地に当たったからといい(「村名由来記」鹿島郡誌)、垣内の天満は天喜三年(一〇五五)京都北野きたのから天神を松尾まつお山に勧請の際、供奉の者が住み着いた所という(同由来記)。古代能登郡八田やた(和名抄)の遺称地。

矢田村
やたむら

[現在地名]大和郡山市矢田町・矢田山やたやま

矢田丘陵東麓に所在。「続日本紀」和銅七年(七一四)一一月条に「箭田郷」とみえ、天慶三年(九四〇)五月の大和国矢田郷長解(市島謙吉氏所蔵文書)に「矢田郷長解 申売買墾田立券文事 合壱段 在添下郡京南五条一里卅四坪五坪」とあり「延喜式」神名帳に矢田坐久志玉比古やたにいますくしたまひこの神社名、「和名抄」に矢田の郷名を記す。「万葉集」巻一〇の「八田の野」か。建長六年(一二五四)の尊栄(カ)書状(興福寺本文永元年書写「因明短釈」裏文書)とみ・矢田などの荘名がみえ、「多聞院日記」永正二年(一五〇五)条には「矢田地蔵開帳」「矢田三十講参懃了」などの記事が散見する。

矢田村
やだむら

[現在地名]桑名市矢田・新矢田しんやだ一―二丁目・馬道うまみち一丁目・明正めいせい町・三ッ矢橋みつやばし益生ますお町・千代田ちよだ

現桑名市の南部にあり、本願寺ほんがんじ村の北に位置する。しかし当村地内に本願寺村・矢田村の飛地が多く交じっており、境界線は複雑である。「五鈴遺響」によれば、「神鳳鈔」の「八太御厨七丁五反」は当地としている。西北部は丘陵地で、走井はしりい山と称し、山麓にりんそう(真宗高田派)がある。付近に町屋まちや川が流れ、船着場となっていたため俗に船着御坊と称された。

矢田村
やたむら

[現在地名]吉井町矢田

いけ村の南、東は中島なかじま村・石神いしがみ村など、西は川内かわうち村、南は多胡たご村などと接する。矢田川(天久川)が村央を北流し、下仁田しもにた(姫街道)が北部を東西に走る。「続日本紀」和銅四年(七一一)三月六日条に記す多胡郡建置の際に甘楽かんら郡から編入された矢田郷、「和名抄」多胡郡の八田やた郷は当地に比定される。「新撰姓氏録」摂津国皇別に、現古君が上毛野朝臣と同祖として賜った韓矢田部造がみえる。中世には鎌倉街道の宿であったと推定されている。明和九年(一七七二)の「多胡旧記」島家蔵)によれば、天正一八年(一五九〇)入国した菅沼定利が吉井町を取立てた際に移住した四八軒の大半が「矢田宿」の者であったという。

矢田村
やたむら

[現在地名]山口市大字大内矢田おおうちやた

仁保にほ川の南側に位置し、北西は御堀みほり村、北東は長野ながの村、東南は小鯖おさば村の山地。村内を東西に御成道(萩街道)が通る。山口宰判に属した。

「和名抄」に記されている古代の郷に「八田」があり、近世の矢田村付近とされる。弘治三年(一五五七)一〇月一七日付の原武信宛、粟屋元親以下七名連署の宛行状(「閥閲録」所収原権左衛門家文書)に「周防国吉敷郡矢田令内壱石足進与三左衛門先知行」とあり、同年の周防国分寺文書(「寺社証文」所収)にも「矢田令」とみえるから、中世末期には矢田令の名でよばれたらしい。

矢田村
やだむら

[現在地名]栄町矢田

大面町おおもまち村・北潟きたがた村の北東にある。村内から平安期の土師器が出土し、南東の丘陵には中世の矢田城(標高一〇〇メートル)があり、大面城の外郭をなしていた。天正五年(一五七七)の三条衆給分帳(市川浩一郎氏蔵)には仁科孫太郎知行のうちに「屋田村」とみえる。慶長三年(一五九八)頃の新発田御領内高付帳(新発田市史資料)では「によふ村」など六村を並記して二千三九七石三斗余とするが、そのなかに上矢田村下矢田村がある。同一〇年の給知方村々高目録(同資料)では矢田村は毛付一六〇石一斗余・荒一〇八石三斗余。同一五年頃の給知方ほど役帳(同資料)には「谷田村」とあり、四軒に炉役七斗が課されている。

矢田村
やたむら

[現在地名]今治市矢田

阿方あがた村の分村で(伊予国野間郡地誌)、天保郷帳には村名がない。現今治市西部に位置する東西に細長い村。南北は丘陵によって神宮かんのみや山路やまじ別名べつみよう高橋たかはし・阿方の各村に接する。中央の広い谷間はよく開発され、水田地帯が村の西端まで続いている。南西端横山を水源とするあさ川が村を貫流するが水量不足で、「野間郡手鑑」によると、承応三年(一六五四)築造の本谷池、貞享二年(一六八五)築造のくせが谷池など溜池が多い。弥生前期以降の遺跡があり、古墳では折之内の大塚がある。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)には村名はなく、阿方村に含まれていた。

矢田村
やだむら

[現在地名]松江市矢田町・青葉台あおばだい

大橋おおはし川の南岸に位置し、東は竹矢ちくや村、南西は山代やましろ村。対岸の島根郡朝酌あさくみ村との間に矢田渡がある。この渡しは「出雲国風土記」島根郡条にみえる朝酌促戸あさくみのせと渡の後身とされ、島根郡への道として使われている。村の北部を大橋川に沿って山陰道が通り、矢田道とよばれる往還が山代村から山陰道につながっていた。中世は山代郷に含まれていたとみられる。文明二年(一四七〇)一二月一六日の秋上栄国知行分坪付(秋上家文書)では「山代郷内やたのほうし一反小代八百文」とある。

矢田村
やたむら

[現在地名]柏崎市矢田

東は長鳥ながとり村、西は与三よそう村、南は畔屋あぜや村、北は吉井よしい村と村境は入交じる。集落は丘陵縁辺部に矢田、東方丘陵に飯寺いいでら柳沢やなぎさわがある。専念せんねん寺宛の弘治三年(一五五七)四月七日の北条高広安堵状および天正二年(一五七四)一〇月一日の北条景広安堵状(以上専念寺文書)により、上杉謙信麾下の北条きたじよう城主毛利高広・景広の支配領域にあったことがわかる。同一二年三月二八日の上杉景勝知行宛行状写(桜井市作氏蔵)によると、御館の乱後「弥太村」は桐沢但馬守具繁に与えられている。

矢田村
やたむら

[現在地名]高岡市伏木矢田ふしきやた伏木古府元町ふしきこふもとまち伏木矢田上町ふしきやたかみまち伏木ふしき一丁目・高美町たかみちよう

小矢部川と庄川の合流点、串岡くしおか村の南方に位置。村名は谷の中に開いた田を意味する谷田が本来のもので、矢田は当て字と考えられている。寛永二〇年(一六四三)当村の地先、射水川(現小矢部川)左岸で新田が開かれており、それ以前に村立てした。正保郷帳では高二二一石余、田方一四町二反余・畑方五反余、新田高一二三石余。正保四年(一六四七)前田利常の養女おつると古国府勝興ふるこしようこう寺円周との婚約が成立し、当村のうち一二五石が同寺に化粧田として寄進され(「前田利常化粧料寄進状」勝興寺文書)、慶安三年(一六五〇)には一宮いちのみや慶高けいこう寺に一〇石が寄進された(加賀藩史料)

矢田村
やたむら

[現在地名]志賀町矢田

徳田とくだ村の北、西の遍照へんじよう(一四六・七メートル)、東の天行寺てんぎようじ(一三七・六メートル)の間から南の盆地に延びる谷沿いに集落を形成。天正一六年(一五八八)とみられる一一月六日の前田利家印判状(青木文書)により「一、矢田村 一、院内村 一、しなの田村 一、谷屋村 一、もろ村入町」で刀狩が行われたことがわかる。元和二年(一六一六)の高五三一石余、苦竹役二五匁(「苦竹運上極」雄谷文書)。正保郷帳の高も同じで、田二〇町四反・畑一五町余、免五ツ八厘。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高五四七石、免五ツ六歩、小物成は山役四一二匁・苦竹役一四匁、鳥役五匁(出来)、紙役五五匁(三箇国高物成帳)

矢田村
やだむら

[現在地名]香住町矢田

矢田川を挟んで七日市なぬかいち村の西に位置し、同川は当地で香住湾に注ぐ。豊岡から香住を経て因幡国に至る往来(但馬浜街道)が通り、北は下浜しものはま村。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」では「屋た村」とみえ、当地には五郎大夫殿などが住し、伊勢神宮の御師吉久は「御はらい十四、五」を配付している。また同日記に「きぬまき村」「からた村」とみえるのは、それぞれ地内の桐蒔きりまき唐田からたにあたると思われる。

矢田村
やたむら

[現在地名]佐伯町矢田

吉井川が大きく蛇行した東岸氾濫原上にあり、南はりゆうはな村、対岸は市場いちば村で船渡しがあった(備前記)。康永元年(一三四二)の「備前一宮社法」に「やた」とみえる。慶長一八年(一六一三)和気郡御勘定帳に村名がみえ、物成九〇石余、夫米五石余。同一〇年の備前国高物成帳(備陽記)には、矢田郷矢田村とある。寛永備前国絵図では高二〇九石余。

矢田村
やたむら

[現在地名]常滑市矢田

村の中央を北東から南西へと矢田川が流れる。北は大興寺だいこうじ(現知多市)、西は南粕谷みなみかすや(現知多市)、南は久米くめ村に接する。「寛文覚書」によれば、概高八二七石余、田四三町六反三畝余・畑六町七反六畝余、家数六五、人数五一五。明治初期には二五九戸(常滑市誌)。源敬様御黒印写(徳川林政史蔵)では元和六年(一六二〇)千村新十(郎)の給知九五石余があった。

慶応三年(一八六七)の村役人からの若イ者エ申渡一札(常滑市誌)によると、農業に出精すべきことや「博奕初メ掛之勝負一切致シ間敷事」「不昼夜店棚エ一切出入致シ間敷□若入□品買物有之候ハヽ、家内之者を遣し、但シ親類隣家慶事仏事ニ使ニ行事ハ不苦候事」「宿元之御主初メ中老より申諭候ハヽ早速□畏候事」などとある。

矢田村
やだむら

[現在地名]青森市矢田

南は宮田みやた村、西は野内のない村に接する。貞享四年(一六八七)の検地帳には、長森ながもり村の支村として別記され、田方五反一畝一九歩、畑方七町二反六畝三歩、田畑屋敷合せて七町七反七畝二二歩、村高二〇・五五五石とあり、ほとんどが畑地である。本村と支村を合せて、高一二七・六〇六石とし、ほかに「分米難付土地」として畑一六町八反九畝二五歩、漆林三ヵ所で一反二畝一二歩、村中の漆と合せて漆木五千八二〇本、「場広故不及検地」草山六ヵ所と柴山一ヵ所を記している。また八間に六間の屋敷地に脇道番所があった。元禄三年(一六九〇)には横内組に属し、村位は下である(平山日記)。享保一一年(一七二六)の村名改称并新村創立調(八木橋文庫蔵)によれば、長森村の支村から独立した。

矢田村
やだむら

[現在地名]寺泊町矢田

越後平野の西端が町軽井まちかるい村から南西に西山丘陵の端に入込む谷の奥の集落。黒坂くろさか峠を挟んで上桐かみぎり(現和島村)と境を接する。地名の由来は丘陵が両側に迫って矢の形になっているところからきたともいわれる。現長岡市にある蔵王ざおう堂はもと楡原にればら(現栃尾市)にあり、のち当地を経て鎌倉末に現在地に移ったとの伝承が流布している。当地は蔵王堂が移るまでその社領であったと伝え、跡地は「白川風土記」に「今ニ耒耜ヲ入レヌナリ」と記される。

矢田村
やだむら

[現在地名]大野町矢田 矢田・沈堕ちんだ

岩上いわがみ村の南西、南東流する平井ひらい川の下流域にあり、南東部で同川が大野川に合流する。天正一〇年(一五八二)一二月晦日の一万田鎮実知行預ケ状(一万田文書)にみえる矢田名の遺称地。慶長豊後国絵図では矢田村とあり、高一千七五四石余。元禄見稲簿の岡領御絵図ニ出分には岩上村の内として矢田村が記される。旧高旧領取調帳では高二五一石余。当村には東光寺薬師堂領の畑九斗余があった(地方温故集)

矢田村
やたむら

[現在地名]小松市矢田町

木場きば潟と柴山しばやま潟の中間の平地にあり、北は月津つきづ村、西は矢田新やたしん村。古代の八田やた郷・中世の八田庄の遺称地。正保郷帳では高四五〇石余、田方一二町三反余・畑方一九町九反余、新田高二九六石余。天保六年(一八三五)の村御印(小松市史)では高六一四石余、免三ツ五分、小物成として油棒役四匁・山役四匁余・川役一三匁余・茶代役一匁余・地子役一一九匁・葭役一六匁・綿打役六匁がある。「江沼志稿」では高六一四石余、免三ツ五歩、小物成に山役・川役・茶役・地子銀・葭役・野役・鍬米があり、家数四二・人数一五九、馬一〇。

矢田村
やたむら

[現在地名]勝田町矢田

梶並かじなみ川右岸で杉原すぎはら村の南に位置し、南は和田わだ(現英田郡美作町)。正保郷帳に田二三九石余・畑七六石とある。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高一〇二石余・開高七石余で、村位は上。美作国郡村高并戸数里程事(武家聞伝記)によると、延宝(一六七三―八一)頃と考えられる戸数二七(うち高しき二・宮を四など)、延宝四年からは津山藩主の弟森長俊領。森氏断絶後は幕府領が続いたようである(美作国郷村支配記)

矢田村
やだんむら

[現在地名]大子町矢田

久慈川と支流あさ川の間にあり、北は川山かわやま村。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高には「谷田野村」とみえる。「水府志料」には「谷田は谷端ともいへしとぞ」とある。寛永一八年の検地に際して中谷田と下谷田に分村したと推定され、同二一年の御知行割郷帳によると下谷田村・中谷田村は山野辺右衛門大夫の給地となる。「新編常陸国誌」によると天保一三年(一八四二)合併し矢田村と改称し、検地の結果は田畠六一町余、分米六四五石余であった。

矢田村
やだむら

[現在地名]安来市矢田町

実松さねまつ村の南、飯梨いいなし川右岸に位置し、矢田古墳群がある。正保国絵図に村名がみえ、寛文三年(一六六三)の検地帳・新田検地帳がある。「郡村誌」によると田二三町七反余・畑二町余・宅地一町三反余・山林二四町余、戸数三七・人数一六六、牛三、荷車四。

矢田村
やだむら

[現在地名]東区矢田町・矢田南やだみなみ

東は守山もりやま(現守山区)大幸だいこう村と接する。東北部を矢田川が流れ、東西に瀬戸街道が通る。矢田村は、慶長一三年(一六〇八)伊奈忠次による尾張検地のときの最初の竿入地として知られる(地方古義)。寛文一一年(一六七一)の家数三八、人数二一二(寛文覚書)

矢田村
やたむら

[現在地名]多気町矢田

笠木かさぎ村の西、集落は山に囲まれている。天暦七年(九五三)の近長谷寺資財帳(同寺蔵)に「十七条三矢田里十坪弐段」と記され、当地の治田は延喜一七年(九一七)同寺へ施入された。三反田さんだんだ五反田ごたんだ・ワセなどの字名がある。「神鳳鈔」の失田御厨が矢田御厨の誤記とすれば、当地に伊勢神宮領矢田御厨が成立していたと考えられる。

矢田村
やたむら

[現在地名]日置川町矢田

北は田野井たのい村・くちたに村、南は大野おおの村、南から東は安宅あたぎ村、西は日置浦。集落は村の中央を南流する日置川の両岸にあり、左岸の平地から弥生式土器・石包丁が出土している。「続風土記」に「矢田は矢田氏の領地にて村名となれるならん」と記される。

矢田村
やたむら

[現在地名]和歌山市矢田

名草なくさ郡に属し、じようヶ峯の南にあり、山地を挟んで西は塩谷しおのたに村。北東は金谷かなや峠を隔てて那賀なが郡金谷村。古代末期から中世にかけては山東さんどう庄に含まれた。

矢田村
やたむら

[現在地名]市原市矢田

池和田いけわだ村の西にあり、養老ようろう川が流れる。矢田岸渡がある。中宿なかじゆく金谷かなやなどの地名がある。中世は矢田郷・矢田村とみえる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三一石で、幕末まで同様。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では下矢田村を含むと考えられ、高四二九石余で家数一三二、三卿の清水領と旗本小倉・豊島・筧・水野領とあるが、当村分は水野領であろう。

矢田村
やたむら

[現在地名]峰山町字矢田

丹波たんば村の北方、竹野川左岸に位置し、東は竹野郡に接する。なか川がこの地で竹野川に合流し、肥沃な沖積地を形成。村内に式内社矢田神社が鎮座する。村域内から弥生時代の遺跡はみつかっていないが、矢田橋下の竹野川の川底から大型石包丁が発見されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報