赤間関街道(読み)あかまがせきかいどう

日本歴史地名大系 「赤間関街道」の解説

赤間関街道
あかまがせきかいどう

萩より赤間関(現下関市)に至る近世の街道で、赤間関往還せき往還ともいう。この街道を逆に赤間関方面から萩に向かう場合は萩街道とよぶ。赤間関街道には阿武あぶ郡・大津おおつ郡・豊浦郡を経由する北浦道筋きたうらみちすじと北道筋の二往還と、阿武郡・美祢みね郡・厚狭あさ郡・豊浦郡を伝うなか道筋とがある。

〔北浦道筋〕

日本海に沿う道で海辺往還ともいう。「注進案」記載の一里塚をたどると、萩城下南の椿西分の濁淵つばきにしぶんのにごりぶち起点とし、ほぼ西行して山田やまだ玉江坂たまえざか三見さんみ床並とこなみを経て大津郡に入り、三隅みすみ村の宗頭むねとう中小野なかおの浅田あさだ(現三隅町)から深川ふかわ村かえるづつみ(現長門市)日置へき大内山おおうちやま(現大津郡日置町)久富ひさどみ寺田てらだ河原かわら村河原市・井上いがみ大長おおなが(現大津郡油谷町)を経て豊浦郡に入る。以下赤間関までの道程を六代藩主宗広が寛保二年(一七四二)御国回りをした折に萩藩の地理図師有馬喜惣太が随行して描いた御国廻御行程記によって記すと、粟野あわの(現豊北町)を過ぎて方向を南に転じ、滝部たきべ神田上かんだかみ(現豊北町)宇賀うか小串こぐし吉永よしなが黒井くろい(現豊浦町)吉見下よしみしも福江ふくえ安岡やすおか蒲生野かもうの綾羅木あやらぎ幡生はたぶ後田うしろだ(現下関市)などの各村一里塚を伝い、赤間関の唐戸三ッ辻からとみつつじに至る。二四里一二町。萩より東は石州街道仏坂ほとけざか道筋に連絡する。

この道筋は他の赤間関街道に比べ長距離のためほとんど利用されず、大津郡や豊浦郡北部からもおもに北道筋か、これに平行して走る長府ちようふ街道が利用された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報