盛岡城(読み)モリオカジョウ

デジタル大辞泉 「盛岡城」の意味・読み・例文・類語

もりおか‐じょう〔もりをかジヤウ〕【盛岡城】

岩手県盛岡市にある城。寛永10年(1633)に盛岡藩主南部重直の居城となる。北上川中津川天然外堀とした平城で、現在は城趾一帯が岩手公園になっている。不来方こずかた城。

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日本の城がわかる事典 「盛岡城」の解説

もりおかじょう【盛岡城】

岩手県盛岡市の中心部にあった連郭式の平山城(ひらやまじろ)。盛岡藩南部氏20万石の居城だった城である。国指定史跡。現在は盛岡城跡公園(正式名称は岩手公園)となっている。美しい石垣が残っているが、1874年(明治7)の廃城令により城内の建物が払い下げられ解体・移築されてしまったため、当時の建物はない。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。戦国時代末期、陸奥北部の大勢力となった三戸南部氏は、1590年(天正18)、豊臣秀吉から所領を安堵され、翌1591年、秀吉の奥州仕置の軍勢とともに九戸政実(くのへまさざね)の乱を平定当主の南部信直は九戸氏の居城九戸城の名前を福岡城と改め、本城を三戸城から福岡城に移したが、福岡城はあまりにも北に寄り過ぎているとの秀吉の代官浅野長政(ながまさ)、蒲生氏郷(がもううじさと)らの助言を受け入れて、当時不来方(こずかた)と呼ばれていた盛岡での新城建設の準備に入った。京都にあった信直が、嫡男利直(のちの盛岡藩初代藩主)に命じて築城を開始したのは1598年(慶長3)。洪水などにより建設は難航し、その完成は第2代藩主重直(利直の三男)の治世下の1633年(寛永10)で、信直以来30年以上の歳月を要したことになる。盛岡城の郭の規模は東西1100m、南北1300m。北上川と中津川の合流点近くの花崗岩丘陵本丸・二の丸・三の丸の順に切り下げ、そのつど掘り出された花崗岩を使って、総石垣の美しい城をつくり上げた。空堀で仕切られた本丸と二の丸があり、その北側に三の丸、さらに本丸を取り囲むように腰曲輪(こしぐるわ)、淡路丸、榊山曲輪が配されている。石川啄木の有名な歌碑「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸われし十五の心」があるのは二の丸跡である。JR盛岡駅から盛岡都心循環バスで約10分、盛岡城跡公園下車。◇不来方城(こずかたじょう)とも呼ばれる。しかし、厳密には盛岡城と不来方城は別の城である。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「盛岡城」の意味・わかりやすい解説

盛岡城
もりおかじょう

室町期~江戸期の城。岩手県盛岡市内丸にあり、別称不来方(こずかた)城。城は北上(きたかみ)川とその支流中津川が注ぐ要害の地に築かれ、古く清原武則(きよはらたけのり)の子孫不来方氏の居館があった所で、室町期に南部氏の臣福士(ふくし)氏が南館(みなみだて)と北館(きただて)を築いていたという。のち戦国末期、豊臣(とよとみ)秀吉によって南部領の支配を認められた南部信直(のぶなお)が、それまでの居城三戸(さんのへ)城(青森県三戸町)を捨て、盛岡の地に築城の工をおこしたのである。築城開始の年は1592年(文禄1)、1597年(慶長2)、1598年など諸説がある。以来、南部氏が20万石で世襲し明治に至っている。城は本丸、二の丸(中の丸)、三の丸(北の丸)と淡路丸からなり、現在岩手公園となり、石垣と堀をよく残している。

[小和田哲男]


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事典・日本の観光資源 「盛岡城」の解説

盛岡城

(岩手県盛岡市)
日本100名城」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報