盛岡(読み)もりおか

精選版 日本国語大辞典 「盛岡」の意味・読み・例文・類語

もりおか もりをか【盛岡】

[一] 岩手県中央部の地名県庁所在地北上川雫石川中津川の合流点に発達。慶長年間(一五九六‐一六一五)以来南部氏二〇万石の城下町として繁栄。伝統的な南部鉄器紫根染などのほか食品加工などの工業が行なわれる。リンゴ・和牛・米を生産。報恩寺、繋(つなぎ)温泉などがある。明治二二年(一八八九市制。旧名不来方(こずかた)
[二] 明治元年一八六八)から同二年まで、また同三年陸中国に設置された県。同五年岩手県に改称

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デジタル大辞泉 「盛岡」の意味・読み・例文・類語

もりおか〔もりをか〕【盛岡】

岩手県中部の市。県庁所在地。北上川が貫流し、雫石しずくいし・中津川などが合流。もと南部氏の城下町で、盛岡城不来方こずかた城)跡がある。鉄鋳物、特に南部鉄瓶を特産。平成18年(2006)1月、玉山村を編入。人口29.9万(2010)。

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改訂新版 世界大百科事典 「盛岡」の意味・わかりやすい解説

盛岡[市] (もりおか)

岩手県中央部の市で,県庁所在都市。2006年1月旧盛岡市が玉山(たまやま)村を編入して成立した。人口29万8348(2010)。

盛岡市北部の旧村。旧岩手郡所属。人口1万3554(2005)。中東部は北上高地に属する山地で,西部は南流する北上川沿いに低地がわずかにあるほかは丘陵がゆるやかに起伏する。古くは馬産地として知られ,また交通の要所で宿場町でもあった。北上川沿いにJR東北本線,国道4号線が走り,好摩(こうま)駅で花輪線を分岐する。主産業は農業で,米のほかホップ,野菜などの栽培,畜産が行われる。外山早坂高原県立自然公園に含まれる岩洞(がんどう)湖,スズランの名所として知られる姫神山などの景勝地があり,姫神山西麓の渋民は石川啄木の生地で,石川啄木記念館がある。
執筆者:

盛岡市南部の旧市で,県庁所在都市。1889年市制。人口28万7192(2005)。1992年南隣の都南村を編入。市域は北上盆地北部を占め,中心市街地は南流する北上川に,西から雫石(しずくいし)川,東から中津川が合流する地点近くの河岸段丘上に位置する。古代には厨川柵(くりやがわのき)が置かれた。都市としては16世紀末,南部信直,利直2代にわたって築かれた盛岡城の城下町に起源をもつ。1871年(明治4)岩手県庁が置かれ,以来県の行政・経済・文化の中心となった。奥州街道と北上川の舟運がおもな交通路であった明治中ごろまでは,新山河岸(現,鉈屋(なたや)町付近)が玄関口で,肴(さかな)町付近が中心をなしていたが,1890年東北本線上野~盛岡間が開通して以来,盛岡駅前に中心が移った。大正期には田沢湖線,山田線が開通して盛岡駅が分岐点となり,従来の南北方向に東西方向の交通路が加わって,市街地は拡大・整備されていった。

 県庁,市役所をはじめ会社,事業所の本支店などの行政・業務機能は城下町時代に重臣屋敷があった内丸地区に集中し,中心商店街は盛岡駅から東に延びる大通りを経て肴町に至る約2kmの間に形成されている。就業者のうち第3次産業人口比が78%(1992)と高く,卸売・小売業が盛んで,県北部に広い商圏をもっている。1977年東北自動車道が開通し,盛岡南インターチェンジ近くの岩手流通センター(紫波(しわ)郡矢巾(やはば)町。1981完成)が,盛岡市内の事業所と連動しながら北東北の流通拠点としての地位を高めている。82年東北新幹線の開業(2010年には盛岡~青森間が開通)に伴って盛岡駅前の都市再開発が進み,高層ビルの建設が相次いでいる。また97年3月には秋田新幹線(田沢湖線)が開通した。工業は近世以来の伝統産業である南部鉄器のほか目だったものがなかったが,近年盛岡鉄工団地や木材工業団地が造成されている。市街地北部には岩手大学を中心に学校が集まり,厨川地区には東北農業試験場がある。盛岡城跡(史)周辺は岩手公園となり,本町通り東端から北東に延びる下小路の武家屋敷付近には城下町の面影が残っている。市内には五百羅漢を安置する報恩寺,原敬の菩提寺の大慈寺,県立博物館,盛岡市中央公民館,高松ノ池のほか,郊外西方には繫(つなぎ)温泉がある。近世以来の馬産地としての風習である〈チャグチャグ馬っこ〉は,6月15日鈴飾をつけた農耕馬に幼児を乗せ,駒形神社滝沢村)に参拝する行事として有名。
執筆者:

かつては杜陵とも書いた。古くは岩手郡仁王郷にあたり,不来方(こずかた)城があって,岩手郡に地頭職をもつ工藤氏がいた。南北朝のころ,三戸(さんのへ)南部氏が工藤氏を破り,被官福士氏を置いて支配した。豊臣秀吉天下統一により,岩手郡以下10郡の所領を安堵された南部信直は,不来方城を新築し,1599年(慶長4)に三戸より移り,盛岡と改めて領内政治の中心とした。市街地を形成する場合,城を中心とした周囲を第1圏として,高知衆の役宅を置き,第2圏を商人・職人街とし,第3圏に平士の屋敷を配し,外村に通ずる所に足軽・同心を居住させ,外郭に社寺を位置させた。最初の町割りは1617年(元和3)で,諸士と町人の居住地を区分し,諸士街を造った。また,領内外から人々の移住を奨励した。三戸町,仙北町など居住者の出身地の名称を付けた町が造られた。そして,51年(慶安4)になり,いわゆる盛岡二十三町が成立することになった。当初の商業の中心は三戸町であり,1646年(正保3)に市日の開催が許可されている。しかし,新山船橋が架設され,北上川舟運が開始されると,新山が荷物の集積所となり,ここを起点として,穀町,六日町,呉服町,紺屋町,鍛冶町,紙町,京町,八日町,四ッ家,三戸町,材木町と夕顔瀬橋を結ぶ線が町の中心となった。とりわけ,呉服町と紺屋町には有力な商人が集まり,商業の中心地となっていった。市日も75年(延宝3)に紺屋町に,81年に寺町,肴町,馬町,鍛冶町にそれぞれ開催が認められ,その後各町に相次いで市が開かれた。

 元禄期(1688-1704)ごろから盛岡の商業の先導役を果たすようになったのは近江商人である。大和国村井荘の出身であるという村井一族がその中心で,ここから近江屋や鍵屋という屋号をもつ村井系の商人と,井筒屋の屋号をもつ小野系の商人が輩出して,藩政時代を通じて活躍した。盛岡の庶民人口は83年(天和3)に1万2000人余,94年に1万4000人余,1727年(享保12)に1万6000人余,92年(寛政4)に1万7000人余と増加の一途をたどっている。これに諸士と宗教関係者を加えると,元禄期には3万7000~3万8000人余となり,寛政期には4万6000~4万7000人余を数え,これが盛岡の総人口とみていい。火災が多く,1729年,48年(寛延1),78年(安永7),1806年(文化3),65年(慶応1)に500軒以上の家屋を焼失する大火がおきている。また都市住民の騒擾事件も多く,1755年(宝暦5),83年(天明3),1815年,30年(天保1),33年にそれぞれ米価の高騰から米屋が打ちこわされている。藩ではこの防止を目的として,50年(嘉永3)に有力な商人と協力して扶助米を貯える溜穀制度を作った。町の産物としては南部鉄瓶などの鉄器生産が近世後期にみられる。
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