白岩村(読み)しらいわむら

日本歴史地名大系 「白岩村」の解説

白岩村
しらいわむら

[現在地名]寒河江市白岩

慈恩じおん寺の西、寒河江川北岸に位置し、六十里越街道が通る。段丘端に中世の白岩城跡があり、集落はその下に街村を形成して東西に延び、西方に離れて枝郷上野うわのの集落がある。

〔中世〕

大江安仲坊系図(大江文書)によると、白岩城主は大江氏七代時茂の長子茂信の三男政広(白岩三郎)が始祖で、以後は明代―広茂―満教―満広―宗広―広隆と相伝した。文明一一年(一四七九)から同一二年の伊達成宗の寒河江攻めについてふれた明応五年(一四九六)の松蔵寺幹縁疏(広谷常治氏蔵)に「寒河江之城主、謂式部太夫者子息四人有之、号嫡男四郎于後式部太夫曰焉、次男備前守是者同国溝延村有居城、後白岩居城」とある。応仁二年(一四六八)七月二日の賢良渡置状(国分文書)によると、北寒河江熱塩あつしお郷のうち在家二宇を国分河内守に与えているが、賢良は白岩四代の満教である。慈恩寺の舞童帳(宝林坊文書)には、永禄四年(一五六一)正月、宝蔵ほうぞう院・華蔵けぞう院の間に争論があった時、寒河江・白岩、溝延みぞのべ(現西村山郡河北町)の各城主の「両三旦那」の意見で解決が行われたことが記されている。このとき白岩城主は白岩宗広で、白岩の使衆は秋庭左京介であった。同五年六月、箕輪みのわ折居おりい権現の別当が二年にわたって祭祀を懈怠したため、祭祀に付されていた田地二〇〇束刈を別当から取上げ、箕輪在家衆へ渡し置いたのは白岩奉行であった(「小野内匠頭・多田玄蕃連署渡状」最上院文書)

白岩村
しらいわむら

[現在地名]白沢村白岩

稲沢いなざわ村の西に位置し、南は松沢まつざわ村。「相生集」に「本村岳山の中に白岩多ければ斯く村名ともなりしなるべし」とある。字堤崎つつみざき(栗ノ木平とも)に六方に分岐する六方道がある。寛政九年(一七九七)の銘がある供養碑道標があり、「東ハたまち、西ハミはる、間ハおはま」「南ハもとみや、北ハ二本松・いわつの、間ハ山ミチ」とある。「相生集」に「三春相馬の道にありて駅次なり」とあるが、これは柳内やなぎうち在家より南にある町田まちだ問屋のことで、ここを通り三春みはる城下(現三春町)松沢村へ行く道があった。天正一四年(一五八六)八月二九日の伊達政宗充行状(伊達家文書)に「白岩」とみえ、大内右馬允に村内の「松かさく」「せきの上」の各三貫文の地が安堵され、さらに加恩として村内の「沢くち内」三貫文、「かかみ」三貫文、「せきね」二貫文の地が与えられている。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に白岩とみえ、高二千八三九石余。

白岩村
しらいわむら

[現在地名]下郷町白岩

田代たしろ村の南、阿賀川右岸の平地と段丘上に立地。同川沿いの南境付近に国指定天然記念物の塔のとうのへつりがある。柏木原かしわぎはら雑根ぞうねうし曾根そねなどに縄文時代・弥生時代の遺跡がある。向白岩むかいしらいわの山上に和田左衛門為宗が住したという中世の山城跡があり(新編会津風土記)石積みが残る。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では「湯原」に含まれていたとみられる。南山御蔵入領弥五島組に属する。承応元年(一六五二)の年貢割付状(玉川家文書)では高四二五石余。寛文五年(一六六五)の「風土記南山弥五島組七箇村」によれば高三八〇石、免三ツ七分、反別田四町六反余・畑四七町五反余、家数三七・竈数五〇、人数男一四七・女一二九、馬一二。

白岩村
しらいわむら

[現在地名]寄居町鉢形はちがた

木持きもち村の北および西部を囲み、東は甘粕あまかす村・関山せきやま村。荒川右岸に沿った村で、旧鉢形城本丸や諸郭の大部分を包含する。当村の小名には白岩小路しらいわこうじ土佐とさ関門せきもん町田まちだなど旧城下の呼称が残り、町田は北条氏邦の家臣町田土佐守の居住した地といわれる(「風土記稿」など)。元亀三年(一五七二)二月二七日の北条氏邦のものとみられる印判状写(風土記稿)によると、町田雅楽助は「白岩分」九貫文を宛行われ、深谷攻略のうえは存分に扶持することを約されている。田園簿では高三二七石余はすべて畑で幕府領

白岩村
しらいわむら

[現在地名]田沼町白岩

作原さくはら村の南、はた川流域の段丘上に集落が形成される。東は柿平かきだいら(現葛生町)、西は閑馬かんま村、南は長谷場はせば村。寛文八年(一六六八)野上のがみ村が分村して成立したとみられるが、白岩宇都宮神社蔵の文禄三年(一五九四)の鰐口に「野上白岩村三十人」とある。寛文八年の白岩村検地帳(影山寛文書)によれば高三七七石余、反別四三町四反余、うち上田四町五反余・中田二町七反余・下田二町一反余・下々田二反余、上畑七町二反余・中畑六町八反余・下畑八町六反余・下々畑三町八反余・山砂畑四町六反余・屋敷二町四反余、桑・楮八〇七束。

白岩村
しらいわむら

[現在地名]遠野市松崎町白岩まつざきちようしらいわ

南西に向かって蛇行するさるいし川左岸に位置し、対岸は光興寺こうこうじ村。南の羽根通はねとおし村から北東方に大槌おおつち街道が通る。寛永四年(一六二七)の南部利直知行宛行状(三翁昔語)によれば、白岩村の高五七石余が八戸弥六郎直義(遠野南部氏)知行地となった。元禄十郡郷帳には横田よこた村に入ると記される。元文三年(一七三八)の給人書上によれば高八七石余。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家なし。明治九年(一八七六)羽根通村・小平おたいら村・畑中はたけなか(一部)を合併。「管轄地誌」によると田一三〇町余・畑二二四町余・宅地三町余・荒地七町余、戸数一九・人口一五二、馬四〇。産物は米・雑穀・馬のほか藍など。

八幡はちまん(四〇八・五メートル)北西麓、八幡森(踊鹿森)に隣接して遠野郷とおのごう八幡宮がある。

白岩村
しらいわむら

[現在地名]榛名町白岩

群馬郡に属し、上高浜かみたかはま村、白川しらかわ(現箕郷町)の北にある。西は宮沢みやざわ村飛地、北は十文字じゆうもんじ村、東は富岡とみおか(現箕郷町)小堀こぼり川の上・中流域に位置し、中央部を東西に長谷ちようこく寺、水沢みずさわ(現北群馬郡伊香保町)への巡礼道が貫通、字新田しんでん北部で榛名道を分岐している。村の南部に民部みんぶの字名がある。源頼朝が長谷寺に田一〇〇頃を堂領として加えたという伝承もあり、古くから同寺領であったと考えられる。「簑輪軍記」などによると、戦国時代には白岩一帯も戦場となった。慶長六年(一六〇一)の検地帳(浜名文書)によると田方八町余・畑方一二町六反余。

白岩村
しらいわむら

[現在地名]いわき市四倉町白岩よつくらまちしらいわ

白岩川沿いに南北に長く延び、南東は戸田とだ村、東は四倉村小山田おやまだ村、西は中島なかじま村・玉山たまやま村。永禄一〇年(一五六七)九月一五日の岩城親隆寄進状(薬王寺文書)によれば、「白岩之内ニ堂井之在家一宇」が「御当寺之阿弥陀堂」へ寄進されている。なお文和二年(一三五三)六月二五日の白岩千代犬丸代基頼請取状(飯野八幡宮文書)に「岩城郡白岩三郎左衛門尉隆頼跡事」とみえ、すでに白岩を姓とする一族がいた。磐城郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から延享四年(一七四七)以降幕府領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録では高三一二石余。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)では高三七六石余。

白岩村
しらいわむら

[現在地名]引佐町白岩

神宮寺じんぐうじ川の下流左岸、りゆう山の南東嶺三合さんごう山の南麓に位置し、周囲を横尾よこお村に囲まれている。石灰岩地帯のため白い岩肌が山腹各所にみられ、村名の由来となっている。元和元年(一六一五)には高七五石余、田四反余・畑八町九反余(龍潭寺文書)正保郷帳では田方六石余・畑方六九石余、旗本金指近藤領。領主は変化なく幕末に至る。山は岩盤の露出がみられ全般にやせているが、宝永四年(一七〇七)に金指近藤家は「寺の上孫右衛門家の上二ケ所、杉山御林に定」め、陣屋の支配としている(「宮田日記」藤原家文書)。同年から本坂通気賀けが宿(現細江町)の助郷を勤めた(龍潭寺文書)

白岩村
しらいわむら

[現在地名]大平町西山田にしやまだ 白岩

立花たちばな村の南東に位置し、北東は山田村、東は富田とみだ村と接する。慶長一四年(一六〇九)までは皆川氏領であったとみられる(延享元年「皆川歴代記」皆川又太郎文書)。慶安郷帳に村名がみえ、田九八石余・畑一二二石余で幕府領。寛文四年(一六六四)の武蔵岩槻藩領知目録では寒川さむかわ郡内に村名が記載される。天和元年(一六八一)旗本北条領。貞享二年(一六八五)より下総古河藩領とされ、元禄郷帳でも同藩領。享保元年(一七一六)より旗本大屋の知行となり、改革組合村では家数二六。寛文三年の富田宿寄人馬帳(福島茂文書)によると富田宿の助郷を勤めている。天和元年当村と五十畑いかはた(現岩舟町)は立花村より溜池利用をめぐって訴えられたが(「立花村名主訴状」杉田みどり文書)、この溜池は立花村地内にあるものの、白岩用水とよばれるように当村と五十畑村で管理してきたため当村側の勝訴となった(貞享二年「裁許状」同文書)

白岩村
しらいわむら

[現在地名]野津町白岩 白岩・戸屋平とやびら須久保すくぼ

豊蔵とよくら村の南西、野津川最上流部にある。北東流する同川に三重谷みえだに川・越路こしじ川・一之内いちのうち川が合流、南西に石峠いしとうげ(六二一・九メートル)がそびえる。村名は「豊後国志」には中白岩とある。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には白岩村が豊倉村など三ヵ村分と一括された一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳では川登かわのぼり村のうちに含まれる。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば北東の鳥屋平とやびら村、南西の須久保村共の本高七八石余・出来高一六石余、田方六六石余・畑方二八石余、雑木山ありと注記される。

白岩村
しらいわむら

[現在地名]沼田市白岩町

下沼田しもぬまた村の南、薄根うすね川の右岸にあり、南は同川を挟んで沼田城下、南西は硯田すずりだ村、東は町田まちだ村と接する。古くは下沼田村と一村であったと伝え同村の武尊ほたか社を氏神とする。寛文郷帳では高六五石余、うち田方は水損と注記され六二石余・畑方二石余。寛文三年(一六六三)真田領村高書上控では高二九六石余、貞享三年(一六八六)の検地帳(白岩町有文書)では高一四六石余、田方一七町九反余・畑方一町七反余。文政(一八一八―三〇)頃の氏姓一覧(武井文書)では家数一〇、沼田藩領。明治一〇年(一八七七)頃の戸数九(うち社一)・人数三九、牝馬四。

白岩村
しらいわむら

[現在地名]郡山市白岩町

阿久津あくつ村の東、阿武隈高地西縁の丘陵に立地。村名は南西部の明神みようじん山が全山白石で覆われているのに由来するといい、白石しらいわとも書く(田村郡郷土史)。永禄一一年(一五六八)七月吉日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)に「一町 五百五十文 白岩」とみえ、うち五〇文は差置いたとある。紀州熊野速玉はやたま社に年貢五〇〇文を納めていた。天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(同文書)には「一町 五百七十 白岩」とある。戦国期当地に白岩(白石)主膳が居住(「田母神氏旧記」田母神文書)

白岩村
しらいわむら

[現在地名]富岡市白岩

ほし川が北境を蛇行しつつ東流、東は後賀ごか村、西は高尾たかお村、南は星田ほしだ村と接する。近世はおおむね七日市藩領。寛文郷帳では田方一二一石一斗余・畑方一三八石八斗余。天明三年(一七八三)写の領内村高等覚(保阪文書)によると田五町四反三畝余・畑二三町九反四畝余。天保三年(一八三二)の領内郷村高帳(同文書)には高二八四石余で新田畑二三石余とある。中山道安中宿の増助郷差村で、天保一三年の定助郷并増助郷石高取調書上帳(安中市教育委員会蔵)によると増助郷二六石を勤め、弘化三年(一八四六)の助郷人馬触高帳(同委員会蔵)には人足一六九人・馬四七疋とある。

白岩村
しらいわむら

[現在地名]芦北町白岩

佐敷さしき村の北方にあり、東は道河内みちがわち村、西は計石はかりいし村と接する。元禄国絵図に「計石村之内白岩村」、万覚帳(芦北町誌)の元禄一六年(一七〇三)の項に「白岩村七之丞」とある。佐敷手永に属し、「国誌」によれば一八里の里数木が佐敷太郎峠下の小峠にあったという。小村であったため、乙千屋おとぢや村懸りと計石村懸りに分けられていた。文化一〇年(一八一三)の佐敷手永村々高附帳(熊大図書館蔵)によれば、乙千屋村懸りの白岩村は高一三石三斗余、計石村懸りの白岩村は高一〇七石三斗余。明治三年(一八七〇)の佐敷郷御通筋御手鑑帳(芦北図書館蔵)には戸数六九、人数三八〇、うち男一七六とある。

白岩村
しろいわむら

[現在地名]鏡村白岩

くさみね村の北、吉原よしはら川沿いにある。地頭分じとうぶん郷一三村の一で「土佐州郡志」に「東限吉原村川、西限的淵村、南限草峰村、北限吉原村峯上、広長二十五町余」とある。天正一七年(一五八九)の地頭分地検帳・地頭分切畑地検帳によると久万くま(現高知市)付近にいた久万氏の一族久万権介の一括給地で、地積九反余のうち田はわずか二一代余、畠は二反余、屋敷は六反余。屋敷一一筆のうち居屋敷は九筆。ほかに同人給の切畑一町三反余があり、小麦・稗・大麦・豌豆が植えられていた。

元禄地払帳では総地高二三石余、うち本田高九石余・新田高一四石余。

白岩村
しらいわむら

[現在地名]長岡市妙見みようけん

三国街道(現国道一七号)石坂いしざか山を越えるところにえのき峠くろがね坂の難所がある。崖下は信濃川の激流で、この崖を白岩という。その名のごとく一面白色で、夕日のおり遠望すればあたかも白壁に等しい。昔はこの岩壁の下を流れる信濃川が西岸三仏生さぶしよう村・高梨たかなし(現小千谷市)方面に向かって流れ、岩壁に続いて相当に広い耕地があり、ここに白岩村の民家が点在していたという。天正村名考(温古之栞)には「白岩六軒」と伝える。

白岩村
しらいわむら

[現在地名]野津町東谷ひがしだに 白岩

細枝ほそえだ村の南、ほぼ南東流する野津川支流三重谷みえだに川の流域にある。西は出羽いずるは村、東は野津之院に属する白岩村。慶長二年(一五九七)の三重郷検地帳写(渡辺家文書)には白岩村が折立おりたて村など四ヵ村分と一括された一冊が含まれ、村位は下。ただし細枝村分にも「白岩村共ニ」の注記がある。同一一年の惣御高頭御帳に村名がみえ、高七石余。

白岩村
しろいわむら

[現在地名]寺泊町寺泊 白岩

寺泊町の北部に海岸線に沿ってあり、集落は寺泊町のいそ町とみなと町に挟まれる。「百錬抄」元仁元年(一二二四)四月一一日条に「越後国白石浦」に異国船漂着の記事がみえる。弥彦やひこ神社の神官高橋家伝存の寛正六年(一四六五)正月一〇日小山清安安堵状写には弥彦神社へ毎年塩を献上する村として間瀬まぜ(現西蒲原郡岩室村)とともに「白岩」がみえる。正保国絵図にはみえない。

白岩村
しらいわむら

[現在地名]瀬戸市白岩町

雨沢あめさわ(現岐阜県土岐市)へ抜ける街道の上品野かみしなの村と片草かたくさ村の間にある山間の村で、標高約三〇〇メートル。「尾張国地名考」には「白岩・片草も旧品野の一郷なるべし」と記す。織田信雄分限帳に「しら岩ノ郷」とある。寛文一一年(一六七一)の家数七、男二二・女二〇(寛文覚書)。「徇行記」によれば、田は七町六反一畝余、畑は九反四畝で、概高一一二石余は藩士一人の給知。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報